Ⅰ
落日の残り火もなくなり、明かりのない裏路地は金がかった灰色に塗り込められている。西の空に陽光を含んだ薄明を残し、徐々に夜の気配が迫っていた。どれくらい時間が経ったのだろう。俺は一人、市があったはずの場所へと向かい、翔の姿を探していた。
電灯ではないためか、家々の明かりは乏しい。稀にひたひたと裸足で往路を歩く子どもが、ちらりと見てくる。それを居心地悪く思いながら、俺は目を合わせないように進む。
「お恵みを」
突然服の袖を引かれ、思わずびくりと肩を震わせてしまう。見ると俺の傍らに痩せこけた少女が跪き、如何にも哀れっぽく両手を差し出していた。その小さな掌は煤けて汚れ、筋が土色に浮かび上がっている。
いつの間に、こんな近くに。話しかけられるまで気付かなかった。
明らかに物乞いである。少女は、骨のような体に貧相な服を巻き付けていた。栄養失調らしい大きな目をしたその子は幼く、光と同い年くらいに見えた。
ああ、くそ。どうしてあいつのことを思い出したんだ。
一瞬でも脳内を巡った妹の存在が憎らしく、辛い。そんな気持ちを誤魔化すように俺は懐に手を突っ込む。ちょっと待って、なんて物乞いの少女に口走って、微かに震える指で小銭を取り出した。
こういう場合、いくら施せばいいのだろう。掌に載せた鈍色の硬貨と少女の顔を見比べ、しばし考える。
無視するという選択肢もあるが、さすがにボロボロな身なりの子を見て良心が痛んだ。かと言って、物乞いに施し過ぎれば金蔓だと思われるなどという話を翔から聞いた。
迷った末に穴の開いた硬貨二枚を少女の手に乗せてやると、少女は無言で地に這い蹲るように頭を下げ、そのまま陰の中に走り去っていく。間違いではなかったようだ。
小さな後ろ姿が路地の向こうに溶けて消えるまで見送り、俺はため息を吐いた。狭い道幅をすり抜けるよう、大きな通りまで出る。人影は疎らだ。辺りを見回したとき、弾むような声がした。
「皓輝!」
凄まじい勢いで肩を掴まれる。俺は塀に背中をぶつける。頭の上で、空の提燈がゆらゆら揺らいだ。
「大丈夫か!? 怪我は!?」
翔だった。髪の毛が乱れ、俺の肩をがくがくと揺さぶってくる。その姿にひどい罪悪感を覚えると同時に、きちんと言葉にするだけの思考力が伴っていない。
「迷惑かけて、ごめん」
ようやく俺はそれだけ言えた。昼過ぎに傍を離れた隙に俺が捕まり、その後ずっと翔は探してくれていたのだろう。「別にそれはいいけどさ」と翔は早口で言う。
「急にいなくなったと思ったら、衛士に捕まって運ばれる皓輝を見たって周りが教えてくれたから、慌てて屯所まで行ったんだけど、あの司旦ってやつが出てきて追い払われて、ちょっと離れている間に今度は皓輝が釈放されたって衛士に言われて、もう俺には何が何だか──」
そう、一日振り回されたのは翔も同じである。俺は差し当たって、司旦という異民族とそのスコノスに突如襲われた話を掻い摘んで話した。司旦が、俺とよく似た男と勘違いして俺を投獄したということ、その後何者かの指示で俺が釈放されたこと。そして──俺は言葉を濁す。
「全知全能の喋る鳥に出会った」
「何だそりゃ」
翔の反応に少しほっとする。この世界でも動物がぺらぺら喋るような事態は普通起こらないらしい。信じてもらえるか自信を欠いたまま、俺は三光鳥に連れられて空き家の中に入ったところまで細々と語った。
「つまり、助けてもらったってことか?」
「多分……」
俺は曖昧に頷く。あの三光鳥が俺を解放するよう指示を出した張本人という話を俺はほとんど信じていなかった。確かに高圧的な態度ではあったものの、とてもそんな権限があったようには見えない。
「その鳥が、日が暮れるまで動くなと言うからこの時間まで隠れていたんだ。翔には悪いと思ったけど、あの後も司旦が俺を探していたらしいし」
翔はしばらく話を飲み込むのに時間を掛けた。その真剣な眼差しに、つい三光鳥と話した内容まで具に打ち明けたくなる。しかし、結局俺は何も言わずやり過ごした。
「何者なんだ、その鳥……」
翔が呟いている。その答えが知りたいのは俺も同じだった。三光鳥と話して彼について知ることができた情報は、彼が全知全能を自称し、何らかの目的を以て俺に忠告を与えに現れたということだけだった。
辺りは暗くなってきていた。
「誰かのスコノスという可能性はないのかな」
俺はほとんど独り言のように言う。「スコノスって言葉を話すのか?」
「いや、というより……」翔が首を横に振った。「周りに他の人はいなかったんだろ? スコノスは宿主からあまり遠くには離れられない。単体では存在できないんだ」
「スコノスじゃないとしたら、何なんだろう」
「そうだな……」
言いながら、翔は背負っていた荷物から木の棒を取り出す。先端に白い布が結び付けられていた。「火よ」と翔が口ずさむと、途端に松明は燻りだし、やがて不穏な幽霊のような煙と共に火が点いた。辺りが一層明るく、丸く照らし出される。
こうも当たり前のように超自然現象が起こると、だんだん俺もそれが普通のことであるように錯覚される。
「その鳥は、何が目的なんだろう」
翔の疑問に、俺は答えを持ちえない。匿ってくれた辺り、言動こそ胡散臭いものの俺を守ろうとする意志は感じられた。
実はあの鳥の“何でも知っている”という言葉を疑った俺は、先程の話の途中で幾つか質問をしてみたのである。それは俺自身に関する個人的な情報──例えば俺の両親の名や、かつて暮らしていた自宅の住所などを。
どれもこの文明世界にいるならば知る由もないはずの情報だが、あの鳥はかつて愛用していたスマートフォンの機種と解除のパスワードまで難なく答えて見せ、俺を戦慄させた。
本当にあの鳥は俺に関しては“何でも知っている”らしかった。
俯いていると、不意に松明の炎が頬の辺りに近付いた。黙っている俺に、翔ははたと手を止める。
「お前、もしかして泣いていたの?」
「……」
「何で……?」
火が揺れるのに合わせ、陰もまた俺の顔の上を往ったり来たりした。指で擦った目尻がひりひり痛む。俺はただ何も言わずに剥げてぼろぼろの石畳の道を凝視する。でこぼこな地面に転がる小石が長い影を作っていた。
「その鳥に何かされたのか?」
戸惑い気味に尋ねられ、無言で首を振った。明るみに曝されてしまった俺の目元は、薄い涙の跡が乾いて残ってしまっているのだろう。誤魔化しようがなかったが、打ち明けたくもなかった。行こう、と目線で促し、翔の先を歩き出した。
「なあ、他にも分からないことがあるんだ」慌てて追いかけてくる背後の気配に、俺は息を吸って声を整える。
「翔は司旦のことを七星って呼んでいただろ。あれは何だ?」
牢で尋問されていたとき、外から聞こえた翔の言葉に司旦が目の色を変えたのを、俺は覚えていた。一拍遅れて、翔が追いつく。
「ああ、七星は、皇帝直属の隠密隊だよ。表向き平凡な地方衛士を装っているけど、実際は朝廷に不都合な事情を抹消したり、反旗を翻そうとする人たちを暗殺しているとか、何とか」
「隠密隊……」眉を顰める。奴隷商人やネクロ・エグロと同じくらい、俺には現実味のない言葉だった。
「どうして翔は、司旦がその七星だって分かったんだ?」
あの時点で翔は司旦の姿を見ていないし、そもそも司旦は他の衛士と同じ格好をしていた。一見してそれと分かるような物騒な印もなかったはずだ。
俺の横に並んだ翔は、松明を掲げ、僅かに声を明るくする。子どものような無邪気さが見え隠れするので、俺の頭の中で一瞬年齢の錯誤が起こった。
「皓輝が司旦に運ばれる様子を見ていた人がいたんだよ。異民族で両耳に飾りを付けた地方衛士が、人を気絶させて連行していたって」
翔は俺の目を見て、自身の髪の毛を捲って見せた。翔の左耳が露わになる。彩色された木のビーズがあしらわれた耳飾りが耳朶に二つ留め付けられている。如何にも民族調な装身具で、俺はこれまで意識して見たことがなかった。
「司旦の耳を覚えている?」
俺は記憶の糸を手繰り寄せる。確かに司旦も耳飾りを着けていたはずだ。もっと目立たないものを両耳にひとつずつ。
「それが、何か意味あるのか?」
「勿論」翔が髪を指で梳きながら頷く。
「耳飾りは、孑宸皇国における出身階級を示す指標なんだよ。俺のこれは、一般的な自由市民の男の証。両耳に穴を開けていたあの司旦って奴は、奴隷か貧民生まれの異民族なんだろうな」
「耳飾りだけでそんなことが分かるのか?」
「うん。どちらの耳たぶに幾つ穴をあけているか、それだけで生まれた地域や性別、家柄が一目で分かるようになっているんだ。言い換えれば、生まれた身分に一生引き摺られるということだけど」
「じゃあ、もしかして俺が司旦から皇国民じゃないと見抜かれたのは、耳飾りを着けていなかったせいか……」
俺は自身の何も着けていない耳朶を軽く引っ張る。この国の国民全員にその慣習が適用されているなら、穴が開いていない時点で怪しまれて当然である。
装飾品の位置で相手の貴賤を見分けるとは、合理的且つ機械的な発想だ。それはあながち間違いではないらしく、元は支配者層が平民を見分けるために始めさせたことがいつしか義務になって、今に至ると言う。
人差し指を立てた翔が続ける。
「司旦みたいな明らかに誰が見ても分かるような貧民上がりの異民族が一般の軍人、つまり衛士に出世するのは残念ながらまだかなり厳しい。だからその時点で妙だなと思ったんだ。普通の地方衛士ではないんじゃないかって」
「でも七星というもの自体、公にされていない部隊なんじゃないか?」
「確かに朝廷の裏を暗躍する、非公開の部隊ではあるんだけどね」
そこで一度言葉を切る。
「俺はたまたま、白狐さんから聞いたことがあったんだ。七星は皇帝権力にとって都合の悪いことを抹消したりする汚れ役を任されることが多いらしい。だから、身分の低い奴隷生まれでも実力さえ認められたら入ることも不可能ではないんだ、って」
その推理だけで、屯所の外から大声で叫んだその度胸のほうに俺は感心する。ほとんどかまをかけたに等しい無謀な言動だったのではないか。
「まあね。でも、ただの世捨て人だと見縊られるくらいなら相手を揺さぶったほうがいいかなぁなんて思ってね。一か八かだったけど、司旦の反応からしてあれは図星だったんじゃないか?」
愉快そうに笑う翔の手元で松明の炎が揺らぐ。どうして公にされていない隠密隊の内情を白狐さんが知っていたのか、ということについては、今は考えないようにする。これ以上謎を追求する元気は残されていない。
七星の呼び名で司旦を外におびき寄せた翔は、そのまま引き離さないよう絶妙な距離で逃げ出したらしい。適当なところで撒いて俺を脱獄させる隙を作ろうとしたようだが、その間に俺が釈放されたのですれ違ってしまった。
「ともあれ、お互い無事で良かった」
翔の前向きさには奇妙な重みがある。法の外で生きる世捨て人にだけ感じられるある種の重力が、俺たち二人を取り巻いているようだった。
行きのときも通ったゆるやかな蛇行道を曲がれば、そこから先に立ち並ぶ民家はない。
がらんと開けた視界に広がる夜の水田。そして呆れるほど見事な星空が山の稜線まで広がっている。遠くにゆくほど奇妙に薄い緑色を帯びた夜と、満遍なく散りばめられた銀。ただの帰り道には壮大で、大袈裟で、俺は何だかちぐはぐな気持ちを味わった。
「随分遅くなっちゃったな。白狐さん、心配しているかな」翔の目に、小さな光の粒が映り込んでいる。俺はそこで、自然と自分の足が長遐へ向いていたことに気付く。
「そういえば、必要なものは買えたのか?」
そもそも邑に来た目的は買い出しである。翔は自身が背負った荷を軽く持ち上げて見せた。
「市が閉まる寸前に、慌てて幾らか買ったよ。皓輝が見つからなかったら一晩過ごす場所を探さなきゃと思って、何を買ったのか自分でも覚えていないけど」
翔の背負う荷には、青菜、葱、芋類といった旬の野菜。それから油と、僅かな干し魚が、麻布と麻縄で器用に括られている。布を巻いた長い棒は来たときと同じく斜めに背負われている。松明がつくる翔の影が歪に映った。
「まあ、皓輝が五体満足なら充分だよ」
翔が俺を励ますように言う。
踏み固められた畦道を歩き、俺はあの鳥に言われたことを反芻する。胡散臭さの抜けない鳥ではあるが、間違ったことを言っているようには感じなかった。この世界に来てからずっと燻っていた不安感を解消するいい機会かもしれない。
──光と話をしなければ。




