Ⅴ
「一体、どういうことだ?」
屯所の前で、司旦は苛々と声を上げる。もう陽が暮れかかっていた。
「釈放した? 誰の指図で?」
見張りの衛士に掴みかからん勢いで訊けば、相手は臆せず折り畳んだ文書をその鼻先に突き付けた。薄い紙が、僅かに風を受けて撓む。
「先程これが直接届けられた。俺たちは従ったまでだ」
司旦は瞬きひとつせず、その文面を端から端まで読んだ。最後の署名に、思い切り眉を顰める。
「どうしてこの件が既に影家の耳に入っているんだ」
「さあな。ご当主が全知全能だからじゃないか」
司旦の舌打ちには、苛立ちを越えた殺意が込められている。衛士はさしあたって黙った。この男の前で影家の名を出すことは憚られる。司旦と影家の因縁は複雑だ。咳払いをする。
「ともかく、もうこの件には関わるなとの影家からのお達しだ。素性の知れない子どもなんか追いかけていないで、お前は本来の任務に戻れ」
「俺は七星だぞ。上流階級の八家のひとつに過ぎない影家に命じられる筋合いはない。」
衛士は鋭く睨む。「大した忠義もない癖に。異民族の野良犬めが」
「俺に喧嘩を売っているつもり? 毒で死ぬのは苦しいぞ」
途端に、空気がすう、と冷たくなる。空気中の粒子が凍り、動きを止めたかのように。司旦の瞳が鮮やかな緑に染まっていた。用水路の深いところから水の流れる静かな音がした。衛士は一歩も動かず、じっとその目を見つめていた。
「……」
張り詰めた緊張の糸を先に緩めたのは司旦だった。目の前の衛士に怒りをぶつけても仕方がないと思えるだけの理性は残っていた。黙って半歩引き、衛士の手から文書を奪い取る。咎める暇もなく司旦はぐしゃりと握った文書の文字を一瞥し、そのまま踵を返して歩き出した。
もうこの件には関わるな。司旦はその言葉を口の中で繰り返す。つまり、あの皓輝とかいう子どもについて深堀されると今の影家に不都合が生じるということだ。
今の影家。
「なあ、おい」
人目がないことを確かめ、司旦はスコノスを呼ぶ。普段は魂の影のよう内側に潜んでいるスコノスを呼び出すと、自分の中の一部が欠落し、それが手の中にあるように思えた。現実に現れた斑模様の蛇は、司旦の右腕に絡みつき、小さく頭を持ち上げる。
「影家のあいつが直接、この文書を届けに来たのか?」
スコノスの声なき声は、司旦にしか伝わらない。返事を聞き、司旦は重たくため息をつく。
「だから逃げ出してきた訳か」
外に現れた妙な金髪の世捨て人のせいで場を離れてしまったことを司旦は悔いた。まさかあんなにも早く影家がこの件を聞きつけるとは思わなかった。
むしろ、聞きつけるというより、事が起きるのを見越して先回りされたような気分だった。皓輝から微弱にしか霊の力を感じられなかったのが余計に油断を誘った。
いや、そもそもそれがおかしいのだ。
司旦の記憶にある“皓輝”はあんなにすぐに怯えの色を見せるような脆弱な男ではなかった。まともにやり合えば七星など一溜まりもないような相手である。人違い、という彼の賢明な主張にもなるほど嘘はなさそうだった。
じゃあただの他人の空似で済ませるかと言えば、そうではない。あまりにも似すぎている。
双子、生霊? 色々な可能性を巡らせ、先程の皓輝の顔を思い出した司旦はぶるりと思わず身震いをした。あの、不自然に大きな濁った目。顔からはみ出しそうに張り出した、奇妙に痛々しい眼球。あの目にじっと見つめられるのは、あまりいい気分ではなかった。蜥蜴、という印象を彼から受けたのは、恐らく司旦が初めてではないだろう。
「変な奴が現われたな」
ゆっくりと語尾を強め、自身に確認しているような言い方だった。蛇の形をしたスコノスだけが、相槌を打つよう揺れる。
「今はまだ動くには早いか?」
振り仰ぐのは、遥か西に連なる長遐の山々だった。沈みかかった太陽に照らされ、金色の線が山並みを描いている。埃がかった大気の向こう、春の夕暮れは何もかもが淡い。
さてどうしたものか。ひとり思案を巡らす司旦の目には、どこか均衡を失った狂気的な光が滲んでいる。




