Ⅰ
落ちていく。澄んだ冷たい空気を切り裂いて、ただただ地面に向かって。悲鳴が聞こえる。これは俺の声だろうか。
吹き付ける風に視界が滲み、迫りくる地面を見たのを最後に俺の意識は途絶えてしまった。
そこは真っ暗闇の只中だった。体にはまだ落下した時の浮遊感が残っている。錐揉みに落ちていた俺自身が、不安定に揺れながら身体の中に収まってゆく。
意識がはっきりしてくるにつれ背中に柔らかい地面の存在を感じ、ようやく己が仰向けに倒れていることを知った。ひやりとした外気が鼻を掠める。
瞼を押し上げてみても、視界は暗闇のまま。あまりの暗さに自分が失明してしまったのではという不安が込み上げたが、それは杞憂に終わる。かなり離れた前方に闇を蠢く黒くて小さなものたちがあった。動物のように意思を持った動きではなく、風に吹かれてざわめいている。
あれは、木の葉だろうか──。
俺は慌てて起き上がった。途端にぐるりと目が回り、頭痛に呻く。
手をついた地面は妙に柔らかく、冷たい。馴染みのない湿った青臭さが纏わりつき、顔をしかめる。これは苔かもしれない。
「──……」
思考回路が固まった。両目をぱちぱち弾かせ、断片的な記憶を慎重に手繰り寄せる。
しばらくして、中学校の屋上に立ったことを思い出す。そこから飛び降りようとしたことも。しかし、それ以降の記憶が霧の中に混濁し、今置かれている状況だけ切り離されて宙に浮いている。
ここはどこだろう。
ゆっくりと首を伸ばし、注意深く辺りを観察する。立体感を欠いた暗がり、大小の樹々が仄暗くぼやけて浮かんでいた。両手を挙げたたくさんの人影に囲まれているように錯覚し、ぎょっとする。
息を吸い込めば、土の匂いが肺の底に満ちる。湿り気を帯び、よそよそしい青さを含んでいる。尻をついている地面は苔で覆われているらしく、雑草が疎らに生えていた。
視野の利く限り人工物は一切見えない。森の中──いや、山の中と言った方が正しいだろう。
冷たい夜風が頬を逆撫で、寝起きの頭を冴えさせる。俺は徐々に湧き上がる畏怖や混乱を押し殺し、じっと耳を澄ませ、嗅覚を鋭敏に研いだ。
とにかく状況を把握しなくては。
首を回して周囲を窺った俺は、自分と同じようにこの空間に馴染んでいない何かをその先に捉えた。
灌木とも呼べそうな低い茂みに挟まれ、片方の靴が転がっている。サイズニ十センチほどの子ども用の靴は、今朝家を出たとき玄関で同じものを見たはずだった。嫌な予感がする。しかし、確かめない訳にもいかない。
靴とやや離れた場所に、持ち主は横向きに倒れていた。俺の数歩後ろ。どうやら気を失っているようで、耳を澄ませば規則的な寝息が届く。
よく知った少女だ。花とかフリルとかそういう類のものが似合う体格。癖毛のまま無造作に波打つ髪は俺たちの母親譲りのもの。頬の輪郭はまだ幼く、手足は棒きれのようで、白い丸襟のワンピースが、その十一歳に体躯を上等な洋服を着たマネキンのように見せていた。
俺は喉から込み上げる熱い感情の塊を飲み下すのに苦労する。息が苦しい。
「光……」
ぼそり、名を呼んでみても返事はない。よほど深く意識が沈んでいるのだろう。
耳を澄まし、呼吸や脈拍におかしなところがないことを確かめる。幸か不幸か、眠っているだけらしい。僅かな不安と安堵を抱え、大きく息を吐く。
光は、四歳下の妹である。
俺は光の肩を揺さぶって起こすか逡巡した。仮に光が目を覚ましたとして、この状態が悪化することこそあれ好転するとは全く思えなかった。
何せ仲が悪いのだ。それも、ただ仲が悪いという次元の話ではない。現実で、俺と光の立場は平等ではなかったし、俺もそれを受け入れていた。光は傑作、俺は失敗作。そういう台詞を面白おかしく口に出す父方の親戚にも慣れていた。生まれつき奇形奇病を患っていた俺を忌み嫌った両親は、“普通”の光を溺愛した。その名の示す通り、光のいる場所はいつも陽射しが差しているようで、俺に当たるべき光すらも平然と、当然のように奪われていた。
光は家族仲の歪さを俺の責任だと信じている。俺の性格や人間的な欠点や、学業上の幾つかの問題点は努力不足の表れである、と。怠慢である、と。そうして恐らく、自分には失敗作の兄を更正する義務のようなものがあるとも信じていた。
それは半分当たりで、もう半分は的外れである。
俺はしばらくの間、唇の皮を触りながら光の寝顔を見つめていた。時折頭上で樹々がざわめき、枝が乾いた音を鳴らす以外何の音もしない。樹木鬱然とした闇が身体に纏わりつくように錯覚した。全てが夜闇に溶け込み、俺と光だけが取り残されている。
不気味だった。木立の向こうは陰鬱で奥行きのない闇に塗り込められ、あまりの黒さに時折それが蠢いているように錯覚される。そんな場所に、不仲の妹と二人きり。夢だとしても、あまり喜ばしいシチュエーションではない。
そういえば、屋上から飛び降りようとしたとき、背後から光の金切り声が聞こえた気がしたのだが、妙に記憶が曖昧だ。頭でも打ったのだろうか。
まずここがどこなのか見当もつかなかった。恐らく俺は自殺をしたのだから、ここは死後の世界と考えるのが妥当なところだろうか。俺は首を横に振る。そんな別世界が実在するのか俺は知らないし、考えたくもなかった。仮に死後の世界だとしても、何故光がここで寝ているのかということはもっと考えたくなかった。
頭には、最悪の可能性がちらつき始めている。
市内の高等学校の合格発表は午前に行われ、光の小学校は春休みだった。不合格を言い渡された俺は自宅に帰ることなく屋上へ向かった。
もしも光が俺の自殺に勘づいて、その後ろをつけ回していたのだとしたら──?
それならば、あのとき背後から声が聞こえたのも納得がいく。光の幼稚な正義感ならば、意外なことではない。
光は、俺の自殺を止めようとしたのかもしれない。
俺ともつれるように屋上から落下する光の姿がありありと浮かび、悪寒が走る。それが俺の妄想なのか、実際に起こったことなのか果たして分からない。
だが、有り得る。この妹ならやりかねないのだ。
「ん……」
すうと指先から血の気が引いていくのを感じたとき、うつ伏せの光が微かに身じろいだ。小さな呻き、一拍置いて目が開かれる。虚ろでぼんやりした光の瞳が、俺を捉えた。暗闇の中で、薄い硝子片が煌めいたようだった。
「皓輝兄貴……?」