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明後日の空模様 長遐編  作者: こく
第四話 辺邑
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 ゆっくりと、身体を労わりながら瞼を開く。渦巻くように霞む視界に、ぼやけた木の天井が映った。

 やけに薄暗い。随分と堅いところに寝かされているようで、身じろげば背中が痛んだ。


「起きたな」


 不意に、声が聞こえる。俺はびくりとして身体を起こした。木造の格子で仕切られた向こうに、あの異民族(フアン)が立っていた。蛇のような目が、冷ややかに光っている。

 そこは埃っぽい粗末な部屋だった。黒っぽい色の土間敷きで、薄暗くて狭い。高いところにある小さな窓から光が差して、小さな塵が舞っている。

 俺は布団のない木の寝台に直に寝かされていて、持っていたはずの荷物もない。牢屋に入れられているのだと理解する。外の音は何も聞こえない。衣服は汚れ、髪や肌についた土埃が生々しく残る。先程の出来事は現実だったと確信するには充分だった。


「一体……」


 口を動かすと、唾液が乾いてねばついた。後頭部がずきずきと痛む。男は俺を見据えたまま、動かない。どこか俺のことを試しているような、観察するような目つきだった。そして意外にも、少なからず困惑しているような気配があった。


「お前は誰だ?」


 男がそう言うので、俺は面食らう。訊きたかったことをそのまま言われてしまった。それに、人を捕えたにしては妙な質問だった。俺は注意深く寝台に腰掛け、眉を顰める。素直に答えるのも癪だ。


「奴隷商人、なのか?」


「はあ?」


 俺が質問するや否や、男が格子を蹴り飛ばした。それは俺を威圧するためというより、反射的にそうしたようだった。彼の不機嫌そうな顔を見れば、男がその言葉を忌み嫌っているということはよく分かった。


「本気でそう思っているのか? しらばっくれるな、薄気味悪い」


 一歩、男が格子の方へ近づく。それだけで空気が濃く、冷たくなった。


「何を言っているのかさっぱり分からない」慌てて首を横に振る。「話が見えない。誰かと俺を勘違いしているんじゃないか?」


 咄嗟に吐いた俺の言葉は、的を射ていたようだった。男は「そうか」と小さく言った切り、黙り込んでしまった。不気味な沈黙が流れる。その間に、必死で頭を整理する。

 突然街中で襲ってくるなど、例の物騒な人身売買組織なのかと思えばそうでもないらしい。唯一の選択肢をあっさり蹴られ、この異民族(フアン)が何者なのか手掛かりは完全に失われていた。ただ彼の言動を組み合わせると、恐らく彼は俺と誰かを見間違えたのではないかと推測出来た。

 俺は寝台に座ったまま男を見上げる。視線が、薄闇の中からじっと俺に注がれていた。好奇だろうか、疑念だろうか。不穏な空気の奥には、鞘に収めた刃のような敵意が隠されている。


「名前は何て言う?」


 男が問うた。俺は少し迷ってから「皓輝だ」と答えた。この国では、余程高貴な身分でなければ苗字は持たないのだと、白狐さんや翔から教わっていた。

 男は大きく息を吐く。


「他人の空似にしては趣味が悪い」不条理な悪態だった。「名前まで同じとは」


「俺と同じ名前のやつがいるのか?」


 目の前で男は格子を掴んだ。その勢いで、格子の金具が大きな音を立てる。四角く切り取られた隙間から、殺意の籠った視線が覗いた。


「本気で、俺に見覚えはない訳か? 本当の、本気で?」


「ない。後にも先にも、全く」


 この世界でも、前にいた世界でも、と心の中で付け足す。早く噛み合わない会話を終わらせたかった。俺は両手を上げて降参を示す。男の言動からして、冗談や冷やかしで問い質されているのではないと分かった。頭の片隅に翔のことが過る。今は、自分の力で信頼してもらう他ない。


「お前の名前は何て言うんだ?」俺は恐る恐る、しかしそれを気取られない男に訊ねる。「俺も名乗ったんだ。お前も名乗ってくれないと不公平だ」


 はあ、と男はため息をつく。そして面倒くさそうに「司旦(シタン)だよ」と答えた。俺にはそれが本名は偽名か判断がつかない。一目見たときは若いと思ったが、翔の口ぶりからしてネクロ・エグロの年齢は人間の感覚とは差異がある。恐らく俺が思うよりも遥かに年上である可能性が高い。


「どんな事情があるかは知らないが、他人の空似だと分かったなら俺を解放してくれないか。一緒に来たやつが俺を探しているかもしれない。それに、勘違いで牢なんか使っていたら、お前の外聞や立場にも関わってくるんじゃないか」


 俺はなるべく平坦な声で司旦を説得する。野生動物を刺激しないよう、遠くから慰撫しているような気分だった。


「どうしてそう思う?」


 司旦が一層強く目を光らせた。


「そうだな……」俺は自分が閉じ込められている牢をぐるりと見回す。「お前は、何らかの公権力を持っている。そうでなければ町中のこういう設備を使うことは出来ないだろ。そんな立場のやつが、他人の見間違いで罪のない一般人を拘束してもいいのか?」


「何らかの公権力なんて、気色悪い言い方するな。孑宸皇国以外の権力はここにはない」


 そう吐き捨てたものの、司旦は俺の推理を否定しなかった。この牢のある建物は随分年季が入っているが、頑健な造りをしているのが見て取れた。少なくとも、私的な施設には見えない。公的な留置所を管理しているのは警察か、或いは軍隊のような組織であろうというのは筋の通った推理である。


「俺の立場の心配なら無用だよ」司旦は言う。「それよりお前は自分の心配をした方が良い。俺に捕まって、五体満足で帰れると思うなよ」


「え?」


 司旦は再び格子を素手で掴んだ。


「お前、皇国民じゃないだろ」


 途端に血の気が引くようだった。翔の言葉を思い出す。法の外で生きる世捨て人は、法に縛られず、守られることもない。確かにそう聞いたばかりではあるが、何故俺を見て皇国民でないと気付いたのか。

 もしかして、俺が別世界から来た異質な存在ということが、何らかのきっかけでばれたのではないか。そんな一抹の不安さえ過る。

 俺の反応は、司旦の疑いを確信に変えるには充分だっただろう。そこに気を配る余裕はなかった。


「ど、どうして」俺の動揺は、ほとんど肯定である。司旦は肩を竦めるだけで応えない。目の奥に嘲りのようなものが浮かんでいる。


「お前に恨みはないが、お前と同じ顔と名前のやつには借りがある。これだけ似ているんだから無関係なんてことは絶対有り得ない。話す気がないなら、素直になるまで可愛がるくらいのことはしてやるよ」


 背筋に冷たいものが流れる。仄暗い陰が司旦の顔を斜めに横切っていた。こんなに塵埃の舞う牢の中であっても、彼の華やかな顔立ちは目を惹く。そのちぐはぐさが、不穏に映った。

 何故こんな目に遭わなくてはならないのか。


「何で、そこまでして……」腑に落ちない。質問が口から零れたが、それが勇気だったのか自分でも定かでない。「俺と似ているやつって、一体何者なんだ」


 突如、分厚い壁の向こうから何かしらの金属同士を叩きつける凄まじい音が響いた。


「皓輝を返せ! いきなり人を攫うなんて、天が許すと思うな外道が!」


 間違いない。翔の声だった。誰かと言い争っている。恐らく、この建物の前で見張りをしている者と揉めている。


「俺は世捨て人だぞ、失うものなんてない! 今ここで暴れてやってもいいんだぞ」


 格子の向こうで司旦が顔を顰めた。俺は別の焦りを感じる。もしここで翔が本当に暴れたら、これまで白狐さんや翔がこの邑で築いた信頼関係が水泡に帰す。翔が背負っていた、布を巻いた長いもののことを思い出す。


「こんな国に税なんか絶対払ってやるものか!」


 既に払っていないんだろうな、と俺は思う。黙っていれば、翔の声はますます大きくなる一方だった。「皓輝を返せ!」と辺り構わず喚いている。


「──あれはお前の連れか?」


 司旦の問いに、誤魔化しの言葉も浮かばない。俺は小刻みに頷く。


「堂々と世捨て人を自称するなんて、馬鹿なんじゃないか? 俺たちに盾付いて、無事でいられると……」


 その言葉を遮るよう、一際大きく翔の声が響き渡った。


「お前、七星(チーシィン)だろ! 早く出て来い!」


 は、と。司旦の目の色が変わったのが分かった。高い小窓の方へ顔を向け、光の中で緑色の瞳が金色に透けていた。その口の中で、僅かに舌が上下に動いた。動物的な仕草だった。

 互いに争うような、くぐもった騒音がする。司旦は我に返り、舌打ちをした。


「……クソが。何なんだ一体」素早く踵を返し、奥にある戸に手を掛ける。すぐ振り返り、こちらへ右手を振り上げた。手品師のように、鮮やかで不可解な仕草だった。


「見張っていて。何かあればすぐに来て」


 その手の中で、今までいなかったはずのあの蛇が小さな頭を持ち上げた。腕に胴体を巻き、尾が長く垂れている。当然のように起こる超自然現象に、ぞくりと鳥肌が立つ。司旦の言葉に従うよう、蛇はするりと地面に降り、格子の穴を通って牢の中へ入ってくる。その動きに合わせ、表皮がゆっくりと、右へ左へうねっていた。

 俺は寝台の上に足を引っ込める。部屋の中に、得体の知れない冷気のようなものが満ちた。蛇の輪郭が、陽炎のように揺らいでいる。血の通った動物でない。今の俺にもそれは分かる。

 それを見留めると、司旦は足早に戸を開けて去って行った。建物の外はしばらく騒がしかったが、やがて静寂が訪れる。恐ろしいほど静かだった。俺は膝を抱え、じっと耳を澄ませる。耳鳴りが聞こえた。手が震える。そこでようやく、昼食を食べていないことを思い出した。

 蛇は、俺に近付くことなく牢の床に横たわっていた。足のない蛇からすれば、立っている状態なのかもしれない。冷たく濡れた瞳がじっと俺を見ていた。司旦はこれをスコノスと呼んでいた。スコノスは獣の姿をしていると聞いてはいたが、実際に目の当たりにすると一見動物のように見えるだけに薄気味悪い。


 会話を試みるような気分にはなれない。

 どっと疲労が押し寄せてきた。一体何が起こっているのか。司旦とのやり取りで分かったのは、俺と同じ顔で、同じ名をした何者かがこの文明世界のどこかにいるらしいということだった。他人の空似だ、というのが俺に出来る反論だったが、頭の片隅では小さな疑いが捨てきれない。

 他人の空似にしては、出来すぎではないか──。

 見た目だけでなく、名前まで同じというのは、偶然で済ませられるものだろうか。ドッペルゲンガーか、或は生霊か。──まさか。埒のない考えだった。

 俺は翔のことも考える。大丈夫だろうか。俺に責任があるかは定かでないが、罪悪感がある。司旦が出て行って、どれくらい経ったか。真昼の光が差す小窓を見上げる。脱獄、はまず無理だろう。錠は固く閉ざされている。


「……七星(チーシィン)


 先程聞こえた翔の言葉をそのまま繰り返してみる。それが何を意味するのかは分からないが、司旦の中の何かを突いたようだった。核心的で、重大な部分を。あれほど急いで出て行ったのは、翔を黙らせる必要が生じたせいだ。

 色々な考えがぐるぐる頭を回ったが、思考はどこにも辿り着かない。それがより惨めだった。

 どれくらい時間が経ったか。何の前触れもなく、ひとつだけある戸の向こうから足音が近づいてくるのが聞こえた。さっと身構えれば、古びた木の擦れる軋みとともに見覚えのない男が何の断わりもなく入って来る。恐らく、残されていた見張りか何かだろう。


「出ろ」


 男は短くそう告げた。




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