Ⅱ
舗装されていない緩やかな道を蛇行し、在郷の民家を横目に町中に入って行く。
建物は木造や漆喰塗りのくすんだ白壁で、屋根には素焼きの瓦が敷かれていた。すれ違う人々は牛を引いたり、籠を背負ったり、土に汚れた素朴な農民といった印象だ。
昼餉の支度をしているのだろうか、素焼きの煙突から立ち上る煙をそよ風がたなびかせた。
あまりきょろきょろとしているとおかしな目で見られるだろうか。もしかして俺が別の文明世界から来たことが知られてしまうのでは。
急に心配になった俺は何となく真面目な面持ちをして前を向いた。
「まずは、着物を見に行こうぜ」
慣れた足取りで隣に並んだ翔の言葉で、まず俺の服を買いに行くことにする。
路傍に麻布を敷いて品物を陳列しているような露店が並ぶ通りに来ると、田舎町とはいえそれなりの活気を見せている。聞けば今日は月に一度の市だとか、食糧はもちろん、煙草や薬、日用品から家畜の類まで売られていた。
地面に直に座り、商売をしながら村人同士で歯を見せて談笑している様は、自分の知らないところでも人々はこうして生きて笑って暮らしているのだという不思議な感慨を湧かせる。彼らが皆人間でなくネクロ・エグロと言われてもぴんとくるものがない。
ただ、この時点でひとつはっきりと分かったことがあった。
道行く人々と、翔は人種が異なっていた。時折、明らかに翔を目で追っている者もいた。翔のくすんだ金髪は、その他の黒髪の人々の中で外来種の花のように浮いていた。本来異物であるはずの俺なんかは、その影に隠れて全く目立たないくらいである。
衣服を売っていると思しき露店を通り過ぎ、翔に呼び戻された。
「どんなのがいい?」
そんなことを訊かれても俺はこの国のファッションの流行も知らない。とりあえず当たり障りのない、目立たない服が良いと言えば、適当な古着を見繕うことにする。
この国の庶民は布製品を滅多に捨てることはしない。着なくなった着物は売ったり、切って別のものに作り直して使い続ける。逆に言えば新品の衣服を仕立てて売る店は、こんな田舎町ではほとんどない。布を織り、着物を作るのは女か職人の仕事だが、この地域には伝統工芸のように特筆すべきものがある訳でもないようだ。
古着売りの露店は、本当に商売する気があるのかと訊きたくなるほど投げ遣り店構えだった。擦りきれた着物が籠の中に詰め込まれ、裸足のまま地べたに寝転がっている店番がいなければ、無料の投げ売りに見えただろう。
「こんなのいいんじゃないか」
無造作に着物を引っ張り出して手渡してくれる翔だが、俺の目にはどれも同じに見える。曰く、南から伝わった綿製品はここ数十年で随分出回り、庶民でも手が届くものになったのだという。それまでは麻やイラクサの繊維を編んだものが主流だった。
とにかく最低限、ほつれや破れの少ないもの、首や腕の鱗が隠れそうな丈のものであればそれ以上の注文はない。店番は俺たちに気付くと気さくな態度に変わり、起き上がって親しげな商売っ気を出してきた。
「見ない顔だね。どっから来たんだい?」
顔をまじまじ覗き込んで言うので、俺は西を指して「長遐」と答えた。青年は一瞬眉を顰め、曖昧に笑ったきり質問を掘り下げようとしない。
どこか一線引いた態度に変わった店番と交渉し、使えそうな綿の襯衣を数着、上衣、使い古されて色がくすんだ帯を幾つか買う。
金を払って店を後にしたとき、「俺は何か変なことを言ったか?」と訊けば、翔はこれもまた曖昧に笑いながら「俺たちは世捨て人だからな」と言う。
「俺たちが長遐から来た世捨て人だと分かって関わりたくないと思ったんだろ」
「避けられているのか?」
「まあね。世捨て人という立場が何を意味するか分かるか?」
俺は小さく首を傾げる。翔は肩を竦めた。
「共同体から外れて生きるということは、共同体の規則に縛られない代わりに、共同体に守られないことを意味するんだよ」
宙を彷徨う翔の眼差しは自虐的だが、それに慣れている風でもある。
「例えば俺たちが山賊みたいにこの邑を襲っても、捕まって裁かれ、罰せられることはない。代わりに返り討ちにされてボコボコに私刑にされても仕方ないと見なされる。法の外で生きているから、法に縛られず、守られることもないっていうこと」
「それは、結構……」怖いことなんじゃないか。万が一理不尽な目に遭ったとき、公権力が守ってくれないのと同義である。
そうでもして、翔たちが人里から離れて暮らす理由は何だろう。
買ったものをまとめ、路に戻る。周囲をぐるりと見回せば、水瓶を背負った痩せた子どもとぶつかりそうになった。水売りだという。俺は顔を上げ、翔の後に続いた。
舗装されていない路は埃っぽいが、裸足に近い格好で行き交う人々は気に留めた様子もない。天院と呼ばれる寺が邑の中核にあり、石造りの外壁は何度も修繕をされた痕跡がある。名所旧跡というほどでなくとも、それなりに歴史ある邑だと見えた。
人々の暮らしに気負った様子はなく、かといって謳歌している様子もなく、地に根付いた素朴な営みを日々繰り返している。先程の古着売りとのやり取りで些か緊張を覚えた俺だが。道行く人々が俺たちを意識的に避ける様子はない。
世捨て人だからと即座に排除されるわけでもなさそうだ。そう言えば翔は「今まで俺や白狐さんが常識的な振る舞いしてきた賜物だね」と笑っていた。なるほど、一応信頼関係があるらしい。
太陽はそろそろ南中に達する頃である。
「そろそろ昼餉にしようか」翔が言う。「その後、白狐さんに頼まれた買出しな」
「そうだな」
山暮らしの世捨て人は自給自足で賄い切れない分はこうして人里に出て入手しているらしい。
とはいえ市場にはまだあまり野菜らしい野菜は出回っていない。目につくのは倮麦を粉に曳いたもの、乾燥させたえんどう豆、天豆。そのほか、芋を主とした根菜が土もついたまま売られている程度だ。
家畜もいるためか、乳製品を肩に担いで売る人も時折いる。竹籠に入った鶏たちは卵のために売られている、と翔が言った。この国の人たちは鶏肉を食べないのだ、と。
翔が方向転換したのに合わせ、俺も付いていく。建物の間の路地を抜ければ、別の通りに出た。
食べ物や薬を商う人々の声。煮売り焼売りの、屋台とも呼べそうな小店が昼時の賑わいを見せている。人々の雑踏に混じり、どこからか粥の煮える匂いが漂った。
食欲をそそる湯気が鼻腔をくすぐる。空腹を覚え、遠目に露店の売り物を見回しながら俺は翔と一緒に歩いて行った。
***
座って食事が取れそうな飯屋は昼時でどこも混んでいた。そもそも、店が少ない。一軒目を断られ、翔が二軒目の中で交渉している間、俺は辺りを一人でぶらついていた。
路の両脇には用水路が掘られ、きれいな水にすれ違う人影が映っている。水は真っ直ぐと水田の方へと流れていた。邑の中はそれなりに建物があるものの、一歩外へ出れば水田や耕地、人手の入っていない荒れ野が広がっている。長遐の方を振り仰げば、山の稜線に懸かる空は春らしい薄水色に透けていた。
人々の雑踏が、荷を引く水牛の蹄が土煙を巻き起こし、大気を濁らせる。通りに面して軒を連ねる民家の白壁が、真昼の日差しを照り返して眩しい。
足元が疎かになっていた俺は、ふと地面を見て悲鳴を上げかける。丁度、長いものが用水路から路へ這い上がってくるところだった。ゆっくりと体をくねらせ、腹這いに進んでいる。
蛇である。褐色がかった体表の鱗には斑模様があり、首を緩く持ち上げ、俺の足元へと迫ってきている。思わず後退った。足裏と土が擦れる音がする。
翔に助けを求めようと顔を上げるも、まだ店から出てくる様子はない。それに山暮らしをしている翔のことだから、蛇程度で泣きついて軟弱とも思われたくない。俺は蛇を刺激しないよう、静かに下がり、身体の向きを変えてその場を離れる。
想定外だったのは、蛇が俺の後を追ってきたことだった。ちらりと後ろを窺い、俺は焦る。路を曲がり、狭い路地でやり過ごそうとするが、むしろ勢いづいたよう蛇はこちらへ向かってくる。その物静かな音は、暗闇で刃物を研いでいるようだった。
これは本当に蛇だろうか。確かに蛇を象っていたが、それ以上に言葉では上手く表現しようのない、形のない気迫があった。物理的でない、もっと漠然とした霧のようなものが。
人が一人やっと通れるような建物の隙間を、時折振り返りながら逃げる。そのときだった。前を向いていなかった俺の目の横に映ったのは、誰かの腕だけだった。
「動くな」
首を押さえつけられる。誰かの腕が絡み付き、素早く後ろ手で押さえられた。動こうにもびくともしない。
「声を出すな」
耳元で見知らぬ男の声がする。首筋に冷たく鋭いものが当たる。視界の許す範囲で確かめると、それは針だった。俺は首を固定され、やや爪先立ちの姿勢でその男の姿を見ようとする。
「答えろ。ここで何をしていた?」
首を持ち上げられるよう締められ、俺の視界は上下に揺れる。そんなことを訊かれても、これといって何かをしていた訳ではないのだから答えに困る。そうだ、あの蛇はどうなった、と俺は視線を地面の方へ彷徨わせる。
蛇は確かにそこにいた。緩く蜷局を巻いて、こちらを見上げている。俺はぞっとした。まるで意志を持ち、何者かに取り押さえられる俺の姿を見物しているようだった。
「俺のスコノスだ。じたばたするな」男の声が言う。「ここで何をしていたのか答える気はないのか?」
俺の目は、蛇に釘付けになる。スコノス? これが? 声に出したいが、針がぴたりと首に押し当てられている。蛇の口から素早く舌が出し入れされているのが見えた。
「何をしていたかって……特に、何も」
俺は喘ぐように言う。足が竦んで、抗うこともままならなかった。翔に助けを求めたいが、店から離れすぎている。俺が喋りやすいよう、首を絞める力が若干緩んだ。その拍子に、俺は背後の男の顔を横目で捉える。
「え」
声が出た。男は、思いのほか若かった。せいぜい二十代といったところか。跳ねた髪の間から覗く耳には耳飾りが留め付けられ、歳の割に底知れない落ち着きを感じる。やけに整った彼の顔は、まるで外国人を見たような違和感があった。
「……異民族?」
覚えたばかりの言葉だが、俺が一目でそう区別できるほど、男は特異な容姿をしていた。翔の比ではない。その冷徹な緑の目も、骨格も、滑らかな肌の色も、往来にいた月辰族にはない異質な遺伝子を感じさせる。美しさや珍しさで目を惹く一方で、どこか顔立ちが動物的で本心が窺えないところもあった。
男は、俺の問いには答えなかった。じっと無言でこちらの顔を見つめる。刹那、衝撃があって俺の意識は途絶えた。後頭部に殴打を与えられ、気絶をしたらしいと後で分かった。




