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明後日の空模様 長遐編  作者: こく
第四話 辺邑
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 勢いよく引き戸を開けて外へ出た翔は、元気に右腕を明け方の空に振り上げる。


「よし、行くぜ!」


「行ってらっしゃい」


 玄関口から笑顔で見送る白狐さんに頭を下げ、俺も歩き出す。灌木の茂みを飛び交う小さな野鳥の群れが、ばたばたと羽音を立てて木立の向こうへ消えた。

 今日は邑、すなわち人里へ行くと約束していた日だった。


「まだ五時だぞ。どうしてそんな元気なんだ」


 太陽が昇りだすよりも早い時刻、俺は口腔にたくあんを突っ込まれ窒息寸前で起こされた。朝早いとは聞いていたが、文句を言う暇もなく身支度をさせられ、出発するに至る。

 前を歩く翔は足取り軽やかだ。楽しげに左右に揺れる翔の背には、布を巻いた長い棒状のものが斜めに背負われている。それを扱う手付きからして、明らかに武器の類である。護身のためだと翔はあっけらかんと言っていたが、使う機会のないことを祈るばかりだ。

 今ひとつ揃わない足取りで、俺たちは世捨て人の家を後にする。

 白狐さんは光と留守番をするそうだ。翔と二人でお出掛けとは──。


「不満か?」


「不安だ」


 たくあんと二人でお出掛けとは。

 家を出る前のこと、俺はにこにこする白狐さんから何かを渡された。受け取った布袋はずっしり重たく、中にはこの国の通貨の束が入っていた。鈍色の硬貨を紐で連ね、ひとつの連なりを一佰と数えるのだと教えてもらった。

 彼は惜しむ様子もなく「これで何でも好きなものを買ってきたらいいですよ」と笑った。

 まるで孫に小遣いをやることしか楽しみのない年寄りのような口ぶりに突っ返すこともできず、二佰もの現金が手持ち無沙汰気味に俺の懐に収まっている。

 娯楽に費やすつもりはないのだが、それよりもまず世捨て人として社会との繋がりを断ちながら、ぽんと気軽に渡すほどの貨幣を持っているのがやはり不思議でならなかった。

 霧が漂う苔森の朝はまだ肌寒い。木肌を侵す苔もひとつひとつが朝露に湿り、空気さえ濡れているように感じた。緩やかに起伏のある地面には、どこからか湧いている苔清水があちこち流れ、ひそひそ囁くような水音を立てている。

 初めは馴染まなかった青臭い山気も、今は自然と体内に吸収されるようだ。


「どれくらい歩くんだ?」


「昼前には着くよ。十刻くらいかな」


 そうか、と。返事をしたはいいが、冷静になってみればここから一番近い人里だというのに、何キロ離れているのだろう。


「馬でもいれば早いんだけど、うちじゃ飼えないし」


 うーんと暢気に伸びをする翔の身体はしなやかだった。思い切り筋肉が収縮する様は、優雅ですらある。長い道のりを苦にしない、逞しい世捨て人の肉体だ。

 湿った森を進むと、やがて苔に覆われた柔らかい地面が途切れ、山道と呼べそうな平坦なところへ出た。枯草と新芽が混ざった斑模様の春の地面。あちこちにぽこぽこと顔を出している蕗の薹が可愛らしい。

 しかしそこに一歩足を踏み出したとき、俺は背筋に違和感が這うのを感じてぞっとした。振り返れば深緑の苔の森が霞んでいる。

 明らかに、ここはあの家の周囲の森とは雰囲気が違った。

 一言でいえば、空気が明るくて軽い。風通りがよく、あの湿った空気がやけに遠く感じられる。目に見えない境界線をまたいだような──。


「よし。ここからは俺の前を歩け」


「どうして」


「道は教えるから」


 翔は当然のように俺の背後に回る。その思わぬ行動に、森の空気の違いを考えていたことなど頭からすり抜けた。


「いいか。奴らが狙うのは大概背後なんだよ」


「何の話だ?」


「ここは奴隷狩りも通る裏道だ。木の陰には霊もいる。何かあったときは俺が背中を守ってやるよ」


 少し格好つけたよう翔の笑いに、不敵なものが過る。

 あの夜の出来事が脳裏に蘇ったのは言うまでもなく、霊域に引き込まれかけた奇妙な感覚を思い出せば途端に警戒心が湧く。昼間の光の下で見れば明るく見えるこの森も、気を抜けば人知を超えた危険があるのだ、と。


「人身売買の商人たちは、白狐さんの家のあたりには寄ってこないのか?」


 現実的な話をして、平静を装う。この山岳地帯において唯一の人家など、陸の孤島、肉食獣に囲まれているようなもののではないのか。

 翔の答えは無邪気で、どこか誇らしそうだった。


「うん、あまり近寄って来ないね。大方白狐さんが怖いんだろうなぁ」


 確かにあの人を敵に回すのは怖いかもな。初めて会った夜を思い出し、何となしに相槌を打った。

 それきり会話が途切れ、俺は先頭を歩きながら周囲の景色に目を走らせる。有難いことに、不審な人影や翔の言う“霊”の気配はなかった。

 それにしても一見平坦に思われた地面は進むほどに存外足元が悪くなる。下生えと雑木林の間を縫うようにつくられた道幅も狭く、時折笹で完全に隠されるので乱暴に足で掻き分けながら進まねばならなかった。人が頻繁に通るとも思えない。

 冬の名残を感じさせる枯れ草交じりの木々。人知れず咲いた一群の小さな花。植物を横目で観察しながら足を進めていた俺は、変わり映えのしない、木ばかり続く風景にすぐ飽きてしまった。

 上り坂になった道を黙々と登っていると、翔が後ろから話しかけてくる。


「『天介地書』はどれくらいまで読んだ?」


「まだ、全然」


「そっかあ」


 興味があるのかないのかはっきりしない、間延びした返事が返ってきた。

 この世界のことを少しでも理解するため、昨日からあの膨大な書物を読み進めているが、ただでさえ漢文は読み慣れていないのに、一貫性のない設定と突飛な展開の物語に付いていくのは容易ではない。

 おまけに神話と歴史が融合している構成のために、どこが虚構でどこが事実なのか区別しにくいのである。


「昨夜は、〈月天子(ツキテンシ)〉が行方不明になったあとの御時代を読んでいた。孫が皇帝に即位したところ」


 地上で長年生きた〈月天子〉は、人間との間に子を残して何処へと消えてしまった。その後、孑宸皇国内はしばし混乱に陥るが、やがて月天子の孫が皇帝に選出され平安の第三王朝時代──御時代が訪れる。


「月天子がどうなったか知っている?」


「いいや」


 知らない。というより、突如として行方を晦ませた月天子は、天の支配の象徴である〈天石〉を子孫に託し──その後『天介地書』に現れることはない。過去の創始者として、幾度か名だけ記述されているだけである。白狐さんは御隠れになったという仮説を語っていたが、それらしい注釈もない。

 そう答えると翔が楽しげに話し始めた。「ある民話によると、月天子は地上から姿を消し、月の門を守る番人になったんだよ」


「月の門?」


「そう。太陽にも月にも、天へ繋がる門があるんだってさ。太陽は〈生門〉、月は〈死門〉。俺たちの命は生の門を通って地上に生まれ、死の門を通って天に還るんだ。たくさんの人が生まれるように太陽の門はいつでも開きっ放しで、死んで天に還る人が多くなりすぎないよう月天子が毎日月の門を少しずつ閉めているんだってさ。俺が子どものとき、そういうお伽噺を聞かされた」


 月の満ち欠けに関する信仰の一種なのだろう。


「だから満月の夜は一番人が死にやすくて、新月の夜死ぬ人は少ないらしいよ」


 それは単なる迷信のように思えたが、俺は一応調子を合わせておく。それに、迷信を馬鹿に出来る状況ではない。


「俺が元いた世界でも満月の夜は交通事故が多いらしいな」


「皓輝の世界にもそんなことがあるんだなぁ」翔は感慨深そうな声を漏らした。


「新月の夜に死んだ人は月の門が閉まっていて天へ還れないから、一日地上に留まるんだよ。体から離れたその魂が暗闇に迷わないように、葬式のときは地上で篝火を焚いて魂の標にするんだ。新月の夜、篝火を灯している家があったらそこで人が死んだ証なんだ」


 民俗学的な観点からすれば、興味深い風習である。翔は心地良い拍子で続けた。

 日蝕の日は生命が降るはずである太陽の門が閉まってしまうため不吉の象徴とされ、人々は日蝕が終わるまで家に籠って天に祈りと供物を捧げる。逆に月蝕は月の門が閉まりその日死ぬはずだった人の寿命が延びるため、吉兆の徴なのだという。

 そんな月にまつわる話を聞きながら歩くことおよそ一時間。ようやくひとつ目の山頂が見えてきた。

 世捨て人の家で療養しながら生活したためだろう。久しぶりの運動で脚が疲労を訴え始めている。一度見晴らしのいい場所で休憩を取ることにした。


「はあ、まだ先だな」


 高いところにある岩石の傍らに立ち、翔が背伸びして遠くを見ている。俺もひょろひょろと頼りない樹木の根元に腰掛け、眼下の景色をぼんやり眺めた。

 緑色の椀を引っ繰り返したような低い山々が連なり、朝の清々しい空気が陽の光で煌めいている。

 これが長遐の山岳。まだ人里は見えない。遠くの翠巒でうぐいすの鳴き声が幾つも響いた。

 春の知らせに耳を傾け、心地よい風に身を委ねていると、翔が竹筒を差し出してきた。


「ん、水」


「ああ、ありがとう」


 受け取って一口煽ると、思っていた以上に冷たい水が喉を滑り落ちていく。生き返るような感覚だった。もう一口飲んで、翔に竹筒を返す。

 ちらり、歩いてきた道を振り返ると見渡す限りこんもりとした葉叢が山々を覆い、白狐さんたちの家は影も見えない。まさかこの陰に人家があって、誰かが住んでいるとは到底想像できない。

 夏になれば青葉が茂って更に隠れてしまうだろうから、きっと誰も見つけられないだろう。まるで誰かの忘れ物のような家だ、と耽る。


「よし、じゃあもうひと頑張りしますか」


 翔は手頃な石を岩石の上に乗せ、そう言う。目印かと訊けば、翔は笑顔で首を振った。「山頂の石には精霊が宿るんだよ」と。

 俺は何も訊かずに立ち上がる。翔たちの不思議な精霊信仰には慣れつつあった。


「あっちらへん!」とかいう大雑把な方角の指示に従って、再び先頭を歩き始める。今度は下り坂。急な斜面でないから、足の負担は少ない。

 それにしても、相変わらず人が通るにしては狭い道だ。


「なあ。どうしてあんな山奥に家を建てて住んでいるのか、訊いてもいいか?」


 いくら何でも不便すぎやしないか。そんな気持ちを込めて問うと「分かんない!」と子どものように即答されてしまった。翔は声を弾ませて続けた。


「俺もあの家に住んで二十年くらい経つけど、白狐さんはもっと前から一人で住んでいたみたいだね」


 ん? と思わず変な声が漏れる。「翔、お前いくつだ?」


「俺? もう少しで二十八かな」


 何故そんなことを訊くのかとでも言いたげな翔に、俺は一瞬言葉を失う。思わず足を止めて後ろを振り返ると、どう見ても十代の若者の姿をした翔が俺の顔を見ていた。


「見えない?」


「見えないどころじゃない」


 極端に童顔なのかと言えば、そういう訳ではない。むしろ背丈は高いし、山暮らしの逞しさが年季を感じさせる。ただ、翔は明らかに大人には見えないのだ。俺は混乱する。


「そういえば、ネクロ・エグロは、人間だった頃より年を取るのが遅くなったと言われているんだよな。

皓輝の目から見ると違和感があるのは、そのせいかも」


 平然と言う翔に、俺は昨日不可解な因果で起こった風を見たときと同じ気持ちになる。彼らは違う生き物なのだ、という実感。或いは、と俺は仮説を立ててみる。この世界はそもそも暦が異なり、一年の日数が違うのではないか。もし彼らの一年が三六五日より小さい値なら、翔の年齢と見た目の差異の説明が付くように思えた。


「白狐さんの方が、信じられないくらい長命だけれど」


「いくつなんだ?」


「百歳くらいって言ってた」


「仙人か?」


 俺の言葉に翔が吹き出した。やはり、生き物として根本的に成長や老いの速度が異なるのかもしれない。俺から見れば三十前後にしか見えない白狐さんは、多少暦が違う程度で説明できる範囲ではない。


「正直なところ、俺もあの人が何者なのかよく分かってないからさ、もしかしたら山奥で修行している仙人か何かなんじゃないかなって思うときあるよ。ああ、でも霞を食ってるとこは見たことないなぁ」


 頭の中にふわふわ霞を食っている白狐さんの図が思い浮かぶ。その不可解さが彼の不思議な雰囲気と絶妙に一致して、有り得ないとも言い切れない。

 何だかおかしくなってしまって、俺の口元もいつしか緩んでいた。それにしても百歳なんて、事実なのだろうか。


「いつからあの家に住んでいるか、何のためにあんな立派な家をあそこに建てたのか、誰が建てたのかも教えてくれないんだ。人目を忍んで暮らすためにしてももう少しいい場所あっただろうし、白狐さんが建築出来るとも思えないし……」


 それにさ、と翔に続けようとした俺は、途中で思い留まってやめた。

 ──それに、あの家の周りの森、少し変じゃないか? 今まではずっとあの家にいたから気付かなかったが、先ほど外に出て何となく思ったのだ、と。

 家の周りの苔だらけの仄暗い森と、その外側に広がる明るい森。その領域に足を踏み出した途端、まるで境界線のようなものを感じた。そういった第六感的な不確かなものを除外しても、二つの森の植生の雰囲気が違うのは一目瞭然である。

 ただ、あれは単にバイオームの境目なのかもしれない。俺は植物やそれらが育つ環境に疎いし、不用意に知識不足を晒すのも良くないかと開きかけた口を静かに閉めた。

 少し考えたあと、俺は道を遮る細い木枝を避けながら翔に訊ねてみる。


「翔は、白狐さんとはどこで出会ったんだ?」


「……」


 一瞬後ろで聞こえていた翔の息遣いが止まった。初めて、翔の核心をついてしまったようだ。途端に聞かなければ良かったと後悔する。しかし、次に聞こえた声は存外明るいものだった。


「それが、あまり覚えていないんだ。ここから離れた夕省の秣市のはずれで、一人で彷徨ってたところを白狐さんに拾われて、以来ずっと一緒にいるんだ。それだけ」


「そう、なのか」


 翔の言い方は、軽快さで感情に蓋をしているようで、それが余計に痛々しかった。俺は自分のちょっとした好奇心を反省する。

 それからはただ二人で他愛もない話をしながら小道を進んだ。下り坂が終わったと思ったら、次は緩やかな上り坂。木は少なくて、地面を覆う草も丈が低い。日当りのいい斜面、淡い色彩の花が咲き始めているのを横目に、ぽつりぽつり色々な話をする。

 どれくらい歩いただろう。延々と続いているのではと思うほど長かった雑木林が、突然ぱたりと終わった。


 息を呑む。

 急に開けた視界一杯に、陽の光を反射させてきらめく浅い水面、そして緑色の苗が均一に植えられている風景が映る。水田だ。若く短い稲が風になびいている。

 澄み切った青空のもと、見渡す限りに広がるそれは、緑の海が穏やかに波打っているようにも見えた。遠くに漆喰塗りの白亜の家がぽつりぽつりと建っている。もう初夏を感じさせる水田と数時間ぶりの人工物に、少なからず感動している自分がいた。


「夕省の水田だよ。珍しいか?」


 翔が後ろからおかしそうに言う。俺は黙って小さく頷いた。田んぼなんて実物を見たのは初めてだ。それもまさか、別の世界で見ることになるとは思ってもみなかった。

 翔に促されるまま緩い斜面を下り、輝かしい朝陽を一杯に浴びる田園風景に足を踏み出す。水田と水田の間の土を盛り固めて造られた畦道は、意外に安定していて歩き易い。

 勝手に土地に入っても大丈夫なのかと俺はきょろきょろと辺りを見回した。「転んでも知らないぞ」なんて笑う翔の後ろ髪の毛先が風に遊ばれる。

 時折遠くに朝の農作業をする人々が見えたが、並んで歩く俺たちを見ても特に気にした様子もなかった。あまりじろじろ不躾に見るのも失礼だと思いつつ、翔や白狐さん以外の“こちらの住民”を見るのは初めてなので、つい目で追ってしまう。

 大人も、子供もいた。その服装の物珍しさに気を取られて水田に落ちるところだった。


 そうして出発から三時間と少しで、俺と翔はようやく人里に辿り着いたのだった。



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