Ⅳ
「皓輝くん、そろそろ夕餉ですよ。そんな暗いところで読んでいたんですか?」
再び面を上げると、いつのまにか部屋は随分薄暗くなっていた。窓から入ってくる太陽の光はもうほとんど消えかけ、文字も掠れて読みにくい。
もうそんなに時間が経ったのか、と痛むうなじを撫でれば、部屋の外から軽やかな足取りで近付いてくる音がして、滑らかに戸が開く。
白狐さんだった。俺は頷き、ぱたんと紫の書物を閉じる。その表紙を見た彼はにこやかに笑った。
「『天介地書』ですか。勉強熱心で結構ですね。どこまで読めました?」
「〈天子〉たちが喧嘩別れをして、孑宸皇国が建てられたところまでです。第二時代ですね」
「ああ、随分読みましたね」
彼は、すぐに理解した色を浮かべて微笑んだ。
「第二時代は、月天子が突如行方不明になるその日まで、実に千年もの間続いたとされています」
「行方不明? 月天子はいなくなってしまうんですか?」
世捨て人の主はゆっくり頷く。その眼差しは奥ゆかしい。
彼の要約するところによると、第二時代の終焉はあまりにも唐突で不自然だった。天紀一四九八年、何の脈絡もなく、月天子は自身の心臓部である〈月石〉を残して姿を晦ませ、それきりになってしまうのだという。
そのまま月天子はいなくなってしまったが、彼の築いた伝統は現在の孑宸皇国の基礎となった。朝廷は彼の子孫である貴族と官僚が治め、頂点には今も皇帝が君臨している。
現在の王朝は〈第二時代〉とは区別され、〈御時代〉と呼ばれている。暦も改正され、御時代の始まりを元年とする現行の暦を孑暦と呼ぶ。天紀が神話的な暦の数え方であるのに対し、孑暦は血の通ったネクロ・エグロの歴史の暦だ。
「今は何年なんですか?」
俺は何となく壁に視線を走らせるが、カレンダーのようなものをこの家で見た覚えがない。
「今は、孑暦七六三年、天紀で数えると二二七三年目にあたります」
つまり月天子がいなくなってしまってから、七六三年以上も経っていることになる。
「月天子はどこに行ってしまったんですか?」
「さて、どこでしょうね」白狐さんは、答えが分からない方がいい、とでも言いたげに口の端に笑みを滲ませる。
「ある日突然姿を消してしまってから、今も行方知れずのままだそうです。随分昔の話ですから、御隠れになったと考える人も多いですね。今この皇国を治めているのは、月天子の遺志を継いだ子孫たちです」
「白狐さんも月辰族なんですよね」
世捨て人は優しく目を細めて、「ええ」とだけ言った。
「──もしかすると月天子には、天帝から罰が下ったのかもしれません。平安を希われて地上に産み落とされたのに、日天子と仲違いをしたから。月天子が姿を消してしまった辺りは、謎が多いんです」
「……」
俺は何とも言えない。それを察したか、白狐さんは語調を少し変える。
「ネクロ・エグロについて知りたがっていましたよね。その辺りは読みましたか?」
「ああ、それなんですが、ネクロ・エグロらしい記述が見つからなくて」
俺が閉じた書物を、白狐さんが持ち上げる。その細い腕には如何にも重そうだ。彼は『天介地書』を慣れた手つきで捲り、俺が読んでいた箇所よりも少し先の頁を開く。
「確かこの注釈のところですよ。実際、本文の中にスコノスの話は出てきません。奇妙だと思うでしょう? スコノスはネクロ・エグロの生活に溶け込んでいるのに、神話の中で一切語られないのは不自然だということで、後世こういった形で補足されているんです」
彼が差した箇所をすぐに解読するのは難しかった。代わりに白狐さんが内容を要約してくれる。
「『天介地書』第一巻、一五〇三四節の注釈一三九九。曰く、あるとき天から〈スコノス〉という精霊が降った。スコノスは地上の人間と結びつき、それがネクロ・エグロという新たな人種となった。これは地方に残されていた伝承を主に再解釈されたものである。時期は、日天子が西大陸へ渡る直前だと考えられる──概ねこんな感じですね」
思っていたよりもあっさりした記述だった。しかし、スコノスとは一体何だったのか。『天介地書』は語らない。この注釈も飽くまで一説であり、天帝が人間を創造した段階でスコノスがいたという考え方もあるらしい。
「スコノスが何であったのかということに、歴史家はさほど興味がないのですよ。どちらかというと、月天子と日天子が喧嘩別れをしたことの方が、孑宸皇国にとって大きな歴史の転換点ですから」
「西大陸へ渡った後、日天子はどうなったんですか?」
白狐さんは、いい質問だとばかりに頷いた。
「東大陸で〈月天子〉が孑宸皇国を築いたのと同様に、海を挟んだ遠くの西大陸で〈日天子〉は自身に従う人間たちとともに国をつくったと言われています。恐らく日天子ももうこの世にはいないと考えられていますが、未だに、東大陸は西大陸との外交的な結びつきが希薄です」
既に日天子と月天子の戦争は当事者の手を離れ、あとは長年に渡る人々の因縁だけが残された。戦争の始まりなど意外と下らないのかもしれない。そして膠着が続く理由もまた、神話伝承とは関係なくその辺に散らばっているものなのだろう。
神話の時代から続く因縁。気の長い話である。そのきっかけは、日天子の身勝手さから生じた兄弟喧嘩であり、それは東西大陸の人々によって引き継がれて今も尚続く──俺は曖昧な相槌を打つ。
泥から生まれた人類起源の説話ならいざ知らず、東と西の戦争が今も続く揺るぎない事実であることを考慮すれば、この『天介地書』全てが与太話であるとは言い切れない。この国の人にとって神話と歴史は直結して、その境界線はないのだ。
「それにしても、『天介地書』読めるなんて皓輝くんすごいですね。光ちゃんからはあちらの文字も読めないすっとこどっこいをお伺いしていましたが、案外そうでもないのですね?」
「……」
悪意なき笑みを向けられ、俺はここにいない妹に舌打ちをする。馬鹿にするのも大概にしろ、と。
「……いえ、そうでもないですよ」
気付けば思いとは反対の言葉が口から零れた。
喉の奥が苦い。畳に手を付いて立ち上がり、凝った肩を解す。長時間同じ姿勢で読書をしていたせいで、体中の筋肉が凝り固まっていた。
痛む腰をさすりながら早く一階に戻りましょうと白狐さんを促し、そそくさと翔たちが待つ居間に降りて行った。
***
本日の夕餉は揚げ麩に魚の身を詰めて煮たもの、近隣で採れた山菜の揚げ物、酸味が効いた根菜の汁物、それから白飯である。
この国で肉食の習慣はあまり一般的ではないようで、今のところ食卓に鳥や獣の肉が並んだところは見たことがない。
白狐さんの手料理は相変わらず美味かった。決して豪華ではないが、魚と野菜中心の膳はいつも栄養に気を配られていて、尚且つ美味いのだから居候状態の俺が文句をつけるなどとんでもない。
蕗の薹の素朴な素揚げの苦さで白米を食べていると、白狐さんがにこにこと機嫌良さそうに俺に目を向けた。
「そうだ、皓輝くん。そろそろ一度山を下りてみてはどうですか。明日は天気も良いようですし、山道を歩けるくらいには怪我の具合も良くなったでしょう。生活に必要なものを買ってくるといいですよ」
さくさくと口を動かしながら俺は首を傾げた。
「邑というのは、街のようなものですか?」
「そうだよ。食料の買出しにも行きたいし、案内するよ」
翔の言葉は、たくあんを齧る音のせいでよく聞こえない。
俺は少し考えた後、首を傾げた。確かに衣類も何もかも、有り合わせのものを貸してもらっている状態だ。いずれは何とかしなければならないだろう。しかし、俺はこの国の金など一銭も持っていない。
そういう心配を口にすると、白狐さんは「お小遣いくらいなら差し上げますから、好きにお使いなさい」と気取ったように微笑んだ。俺は慌てて首を振るが、彼は頑として譲らない。
「ただでさえただ飯食っているのに、これ以上借りを増やしたら返せなくなります」
本気で困る俺を、白狐さんは「じゃあその内労働で返してもらいます」とあっさり言いくるめてしまった。山暮らしの世捨て人が、見ず知らずの子どもにやれるほど貯えがあるのが、俺には意外だった。
茶碗に残った白飯も食べ終え、俺は改めて白狐さんの方を向く。
「ところで、その邑ってどこにあるんですか?」
「ここから東へ行ったところですよ。山を二つ越えてすぐです」
箸を置いた彼は、指で縁側の方を指さす。雨戸が閉まっているので何も見えなかったが。
街に行くために山越えするなど、信じられないほど辺境の地だ。これまでの人生で感じたことのなかった不便さに、感慨深いものすら覚える。
きっとこの文明世界の人々は、暮らしも文化も俺が今までの人生で経験してきたものとは違うのだろう。それを己の目で見て確認出来るいい機会かもしれない。
「いいなぁ。あたしも行きたい」
考え込んでいた俺に、光がぼやくような声を出す。顔を上げると、白狐さんが光の頭を優しく撫でていた。
「ふふ、ここは人間にとって何かと不便な国ですからね。危ない目に遭いたくなければ光ちゃんはこの家で大人しくしていた方がいいですよ」
そう言い聞かせられて、光は不満げな顔をしながらも、目を細めている。俺は首を捻る。
「孑宸皇国ってそんなに治安が悪いんですか」
「まあ、ネクロ・エグロの国だからな。おまけに長遐は奴隷商人がうろついていたりする。上品で安全な場所とは呼べないね」
食卓の下で足を組んだ翔が応える。奴隷商人──商人と呼ぶにはあまりにも野蛮な賊だった。初めてこの世界に来た日を否応なしに思い出す。俺は眉を顰めた。
「人身売買が商売として成立しているということは、この国には公的に奴隷がいるんですね」
「そうですよ」白狐さんが相槌を打ち、意味ありげな目線を翔にやる。翔は苦笑していた。
「この大陸の第二時代、各地に異民族と呼ばれた人たちがいてね。月辰族とは相容れず、統一戦争に敗れて奴隷になった」
それがこの国の奴隷の始まりなのだと翔は語る。奴隷売買組織の歴史は更に古い。いつから存在するのか分からないくらい昔から存在している。彼らは西にも東にも属さない独立したひとつの勢力だという。
「俺の先祖は、東方の異民族だったんだ。戦争のときに大陸を横断して夕省まで流れてきたとかで、異民族同士ひっそり暮らしていたから、何とか奴隷にはならずに済んだらしい」
そこで初めて、翔が遠い眼差しになる。「まあ、俺の代にはとっくに月辰族に帰化して、言葉も服装も皇国民に溶け込んでいたけど」
「そうなのか」
「帰化人になった異民族は結構多い。混血も進んでいるし、今は皇国民と変わりないよ」
翔は自分の髪の毛先を触り、微笑んでいる。俺はそこに宿る機微を上手く感じ取れないものの、翔の明るさを頼もしく思った。
西も東も奴隷は大事な国の働き手である。故に、それらの売買権を握っている奴隷商人を行政は強く攻撃出来ない。それをいいことに“奴隷狩り”と称して人里離れた所を旅する者や辺境の邑を襲って人々を攫い、全員奴隷にしてしまうなんて大胆なこともやってのけるらしい。
ある意味、人質を取って商売をしている犯罪組織のようなものである。かつて捕虜にした異民族から始まったこの国の奴隷は、今や血筋などほとんど関係なしに混在している。商人を取り締まれないのも複雑な商売事情があるようだ。
人身売買など、俺からすれば近代国家に程遠い文化である。想像もつかない。出来ればこの先、関わることがないことを願うばかりなのだが。
「ところで、兄貴は町中に出ても安全なの?」
「問題ないよ」と悠長な翔。「その見た目なら、充分誤魔化せる。何だか雰囲気もネクロ・エグロっぽいし」
俺にとって、それは褒め言葉にならない。人間には見えないと言われているのと同じだ。あからさまに顔を顰めていると、白狐さんに笑いながら宥められる。
「考えてもみれば、僕らは人を見れば普通ネクロ・エグロだと思いますから、皓輝くんが別の世界から来たことに気付く人はいないと思いますよ。戸籍がないのも、世捨て人だからで通ります」
「……」
白狐さんには勉強熱心だと言われたものの、実のところ俺はネクロ・エグロに興味はないし、スコノスが何であるか探求するつもりもない。しかし、このざわめきは何だろう。自分と無関係だと意識するほどに胸の奥をじりじりと焙られるよう疼きがある。
考えすぎなのだろうか。世捨て人たちに度々ネクロ・エグロと指摘されて、敏感になっているのだろうか。
そしてそれ以上に、気にかかることがある。
長椅子に座った光が、食後の甘いものとばかりに、揚げ餅を食べている。干し棗と餡を衣で包んだ手製のもので、白狐さんに誘われて一緒に作っていたらしい。
「皓輝くんもおひとつ如何ですか」と勧められたが、遠慮しておく。ちらり、妹の丸い瞳がこちらを刺す。
「……何?」
「いや、別に」
光が何を考えているのか、気掛かりだった。俺に対していつまでも刺々しい、この妹──元の世界にいたときとまるで変わらない。むしろ変化がないあまり、神隠しされることをあらかじめ知っていたのかと勘繰りたくなるほどに。
いや、それも考え過ぎだろう。
ともあれ、緊張感もなく、世捨て人と共に料理をするような仲になっている妹の姿には不快感があった。神隠しに遭ったらしいと俺に説明した時は多少憔悴していたようだが、今ではそれもどこ吹く風。こちらの焦りも混乱も、まるで気に留めていないようだ。
まさか、このままここで暮らすつもりではないだろう。一瞬過った考えを振り払い、俺はただ何とも言えない心地で眺めている。
胸の奥を焦がすこの感情が嫉妬だということには、しばらく気づかなかった。悠長にここでの生活を楽しんでいるその余裕が憎かった。




