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明後日の空模様 長遐編  作者: こく
第三話 天学
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 結局、俺と光はこの世捨て人の家に留まらざるを得ないようだった。その決断をするに至るまで、壮大な思考の紆余曲折を経たことは省略しておく。


 帰る方法を探すにしろ、もう少しこの文明世界のことについて知っておく必要がありそうだ。俺が一人であれば気にすることもないのだが、下手に光を危険な目に遭わせる訳にはいかない。

 結果として“居候”となった己の肩書きの居心地の悪さに、鬱々とした気持ちになる。

 あの世捨て人たちは、俺の決断を喜んだ。空気が流れるに任せる彼ららしいといえば、そうなのだが。光は何も言わない。俺の決断に賛成も反対もしなかった。あいつが何を考えているのか少し気がかりなところである。


 こんな風にして、俺の奇妙に穏やかな異世界での生活が始まった。


 彼らの日常は単調で、平坦な自由に満ちていた。決まりきった社会の束縛から解放され、代わりに何でもかんでも自分の手でしなければならない不便さが常に付きまとう。

 白狐さんは毎日夜明けに起きて、朝餉を作る。米や穀物を使った粥や、野菜を使ったおかずや、果物や、漬物なんかを出す。後片付けをして、天気が良ければ洗濯をしている。大方の家事は彼が担っているらしい。

 そして昼餉の後は長く昼寝をする。彼は華胥(かしょ)と呼んでいて、その言葉には雅な響きがあった。

 訊いた通り、白狐さんは昼間が苦手らしく、日暮れまで体を横にして休む習慣があるらしい。翔が夜目の利かない体質であるように、彼もまた“太陽の光に弱い”という特殊な体質なのだという。まるで吸血鬼のように。

 そんな忙しく家中の家事を一手に担う白狐さんに対し、昼間の翔がやっていることといえば専ら野良仕事か力仕事である。それは大体、裏庭にあるささやかな畑の世話とか、食べられる野草を採ってくるとか、外に出て動き回る類のものである。

 俗世を捨てて暮らす世捨て人たちにとって、山の恵みは日々の食卓と直結している。食材は自力で集め、足りない道具は手で作る。彼らの生活は素朴で逞しかった。


 ここから東方へ下れば、孑宸皇国(ゲッシンコウコク)という国があるのだと聞いた。この大陸ほぼ全土を支配する、巨大なネクロ・エグロの統一国家だ。

 かつて、この大陸には様々な地域や民族間の争いがあった。中でも特に力を持った月辰族と呼ばれる民族が、戦乱を治めて天下統一し、何千年も前に打ち建てたのがこの孑宸皇国である。月辰族は東大陸でもっとも数が多く、今や大陸全土に至るまでその栄華を花咲かせている。都は遥か東方。その頂点には皇帝という人物が君臨し、天地を統べる天子の名の下信仰を集めている。

 俺がこれまで得た知識はその程度だった。

 この家は皇国の支配下からやや外れた西の山岳にある。長遐の山岳とか呼ばれていて、無法地帯ともいえる辺鄙な地だそうだ。省という行政区間で言えば夕省のすぐ傍だよ、なんて話を翔はしてくれる。

 俺は黙って聞いていた。それは歴史の教科書を学ぶよう、現実味がなかった。

 その国の文化に理解はないが、翔も白狐さんもある程度孑宸皇国の風習に則って生活しているようだった。彼らも元は皇国民だったのだろう。

 俺は白狐さんや翔となるべく一定の距離を保つように心掛けた。遠過ぎず近過ぎず、程よい距離を。あの二人が数年来の友人のような態度をとるので、うっかり気を許してしまいそうになるが、どうにか踏みとどまる。


 しかし違う文明世界どころか、山で暮らすということ自体経験のなかった俺と光は、最低限慣れなければならないことがたくさんあった。

 まずは──これは光にとっての大問題なのだが──虫だ。

 逞しい山の虫は油断していると家の中に侵入して我が物顔でうろつきだす。特に夜、行灯など明かりをつけているといつのまにか床を這い、にじり寄ってくる。朝になれば時折蛾が床で力尽きている。

 虫が苦手な光は廊下などを歩くとき細心の注意を払わねばならないようだ。

 そして、電気がない。明かりは油、蝋燭。料理は竈で火を熾すところから始まる。当然電子機器はひとつもない。

 それが如何に不便かは、文明の利器に溢れた世界から来た者でないと分からないだろう。

 どうやら電気というエネルギーがないのは山の中だけではなく、この世界全体らしい。ネクロ・エグロの住まうこの世界は、さほど文明が発達していないのだろう。

 インターネットもテレビもない。外部から入ってくる情報は何もない。人間の世界ではそれらの恩寵を当然のように受けていた俺にとって、生活をがらりと変えざるをえなかった。少なくとも、これ以上視力が下がることはなさそうではある。


 極めつけは、“何もやるべきことのない生活”そのもの。世捨て人の生活は驚くほど何もなかった。朝起きてから夜寝るまで何もない。

 学校がある訳でもなく、仕事がある訳でもない。“しなければならない”ものから解放された生活。自由だ。手持無沙汰でどこか虚しい自由。これがずっと続くと考えると、なかなか慣れそうになかった。

 ゆったりと流れる穏やかな暮らしとは裏腹に、これからどうしようという焦りが募る。元の世界に帰る方法を探さなければ、と考えるものの、足かけになる情報すら見つからない。


 どうにかしてこの文明世界から脱出しよう俺の気概は、先の見えない不安からいつしか有耶無耶に濁り、結局流されるままこの家に居座っているというのが現状だった。それは俺自身の甘さでもある。

 いっそ俺だけ自殺してしまおうかと考えることもあった。本来の目的は死ぬことだったのだからそれがどんな場所であろうと構わず実行すればいいのでは、と。

 しかしその度妹の存在が俺を引き留めてくるのだった。保護者などと呼べる立場ではないが、今俺が死んだらあいつの行動に責任を取れる存在がいなくなってしまう。


 先のことを考えると気が滅入った。意識しないようにしたいのに、やることが何もないのだからついつい思考を回してしまうのは仕方のないことだ。




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