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明後日の空模様 長遐編  作者: こく
第二話 世捨て人
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 その日の晩、結局俺は世捨て人の家にいた。

 もう日付が入れ替わるような時刻になっていて、家の中は寝静まり、昼間以上の静寂に包まれている。眠気は一向にやって来ない。慣れない環境に緊張し、興奮しているらしい。


「……」


 世捨て人の主から貸し与えられた布団の上に座り、俺は手元に視線を落とす。窓から差し込む青白い月以外に照明のない簡素な部屋は、薄暗い。木床が月明かりを鈍く反射させ、俯く俺の影を濃く映し出していた。

 部屋の隅にある見慣れない竹の衝立のような器具には、俺の長袖のマウンテンパーカーが掛けてある。丁度一年ほど前に買ったと記憶しているそれは、俺がつい数日前まで“向こうの世界”にいたという確たる証拠だ。

 引きずり下ろして手に取ってみると襟首の部分によく知らないブランドのロゴが留め付けられて、それが何だか無性にため息を誘った。


 どうしてこんなことになってしまったかな。


 そんな思いが、幾度となく脳裏を巡る。やり場のない無力感が心を蝕んだ。

 あの世捨て人たちは、行き場を失い、帰る方法も見失った俺と光を家に置くことに抵抗がないようだった。むしろ怪我が治るまで出歩くのは危険だとか、食べるものくらいならどうにかすると説得を重ねられるまま、俺たち兄妹はここに留まるほかなかった。

 好奇心、不安、怪訝、羨望、戸惑い──世捨て人の二人がそういった感情の綯交ぜになった視線を投げかけてきているのは知っている。

 彼らの暮らし向きはそれほど裕福ではなさそうだった。ただの社会的に孤立した世捨て人というより、自然の中で生きる力を身につけた人たちという印象が強かった。

 だから貧しさなど少しも感じない。粗末な着物を着て、野山で摘んだ山菜を食べ、質素な生活を送りながら、それでも尚困っている誰かを助けるというのか。


 俺は、彼らから遠慮なく投げて寄越される親切をどうやって受け取ればいいのか分からず、空気が流れるが如く生きている彼らの姿が自分には遠い存在で、少しだけ羨ましくもあった。

 興味深いことに彼らは俺たちとは違って、“別の世界”という概念にそれほど強い違和を感じてはいないようだ。昼間に聞いた、霊域というものが関係しているようだ。

 彼らは、未知のものを未知のままにしておくことに慣れていた。人ならざるものが棲まう、不可視の空間が点在する山で平然と生活している。俺たち兄妹がそういった霊域から紛れ込んだと考えているから、驚くことはあっても必要以上に怪しむことはないのかもしれない。

「そういったこともあるのか」と頷き、対象に好奇心を向けるのみである。


 これからどうしようという、途方に暮れた念が胸中に渦巻いている。

 翔が疑問を呈した「どうして元の世界に帰りたいんだ?」という言葉が、ぐるぐると脳裏を巡っていた。

 今頃、母さんたちはどうなっているのだろう。嫌でも元の世界のことが妄想される。翔たちの話によれば、俺たちがいなくなったあの日から既に丸一日は経過したことになる。

 自殺を試みたことが分かったところで遺体などあるはずもないから、行方不明扱いだろうか。父さんも母さんもきっと心配しているだろう。何せ光がいなくなったのだ。

 両親が死に物狂いで光を探し、心配している様子を想像するとずきりと胸が軋む。


 ──俺は?


 ぎしぎしと心臓が締め上げられる。息が出来ない。このまま呼吸が止まればいいのにと布団に倒れて目を閉じる。

 しばらくして、俺は薄ぼんやりと目を開いた。滲んだ涙が視界を歪ませる。死ぬどころか、大人しく眠ることも出来やしない。

 大きく嘆息して俺は起き上がる。


「……」


 このままじっと考えていると駄目になりそうだった。何も考えず、部屋を出てく。ぽつんと縮こまって孤独な自分の存在を消すよう、足早に。



 ***



 足先に履き慣れたスニーカーを引っ掛け、玄関から外へ出る。存外ガラガラと大きな音を立てた引き戸に飛び上がり、静かに閉める。

 誰も起きてないよな、なんて引き戸の金属の手を持ったまましばらく静止した俺は、やがて人の動く気配がないのを確かめてほっと息を吐く。

 満月になり切れていない月が、高い樹々の茂に差し掛かっていた。薄黒い雲の間から白い光を放ち、山林を淡く照らしている。

 いや、あれは俺の知っている月ではないのかもしれない。光を反射する衛星と思しき天体と呼ぶべきだろう。

 外の空気を吸い込めば、物寂しい気持ちが際立った。寝静まった深夜の森は、薄すらと夜霧が地を這っている。

 少し歩くことにする。家の周囲は木々も疎らだが、その向こうはただただ真っ暗な闇の中に森が広がっていた。一人で行けば帰っては来られないだろう。


 家の外壁に沿って曲がると、前方に見慣れない物置のような影が目に入る。興味を引かれ近付いてみると、それは家の裏口と直結した木造の東屋だった。その中心には古い竪井戸がある。

 井戸というものを実際に目にするのは初めだった。田舎でもなかなか見られるものではない、かなり旧式の井戸である。

 物珍しくて更に近付いてみる。錆びついた金属の釣瓶が上から垂れ下がっており、蓋を外して覗き込むと丸い形の井戸の底は真っ黒で見えなかった。しかし確かに水はあるのだろう。耳を澄ませば、微かに水面が揺れて側面の石壁に反響するような音がする。

 ここから落ちたら死ねるだろうか、という考えが頭を過った。どれほどの深さがあるか分からないが、水も枯れていないようだし上手くいけば──。

 暗い水底に沈んで死んでいる自分の姿が浮かぶ。ああ、いいかもしれない。俺は井戸の縁に掴まり、身を乗り出して目を瞑った。


 「こんなところで何を?」


 いきなり声が降ってきて、驚きのあまり跳ね上がる。


 慌てて顔を上げれば、いつの間にかそこには世捨て人の主──白狐さんが穏やかな笑みを湛えて立っていた。夜の暗さの中、異様な白髪と白い肌が朧げに光って見える。


「もしかして身投げをするおつもりで? こんなところに死体を浮かべられると、明日から水に困るのでやめて下さい」


「いや……いえ、そんなつもりは」


 動揺が収まらぬまま、俺は井戸から一歩後退る。嘘が拙く、それが余計に俺を挙動不審にさせた。

 心臓を鎮めながら、白狐さんの端正な面立ちを見上げる。一度も太陽の光を浴びたことがないようなきめ細かい肌が、月明かりに陰影なく映えた。

 何か言わねばと焦りに駆られ、俺は口を開く。「白狐さんは……何故ここに?」


「急に皓輝くんが外に出るのが見えたものですから、追いかけてみただけですよ」


「そう、ですか……。起こしてしまってすみません」


「いえいえ。元々目は覚めていたので平気ですよ。僕、夜行性なんです」


 彼は冗談か本気か分からないことを言って笑った。優しげに細められた片方の目は、無色透明で、枝分かれした血管が透けている。

 そうですか、と曖昧に答えたのち、会話が続かない。ひゅうと吹き抜けた風が二人の頬を撫でる。

 おもむろに白狐さんが口を開いた。井戸で水死体になろうとしたことを咎められるのかと思った俺は、肩をびくつかせた。


「皓輝くんは、いくつですか?」


「十五です」


「こんな大変なことになって、よく落ち着いていられますね」


「そんなことは」謙遜ではなく、本心から否定する。「そんなことないです。こう見えて、すごく焦っているんです」


 こんなこととは、俺が体験した奇想天外な神隠しのことだろう。正確には、焦っているというより、途方に暮れている。彼に話したところで何も解決しないと分かっているだけに、無力感が大きい。

 世捨て人の主は、同情するように頷いた。


「まさか死のうとして、こんなことになるとは思わないですよね」


「……」


「光ちゃんは、皓輝くんがコウコウジュケンとやらに不合格だったから自殺したと教えてくれました。それは、国家の官僚になるための試験ですか? 落第したら死ななければなけないほど重要なものなんですか?」


「いえ」


 そう否定した直後「いや」と更に否定の言葉を重ねた。この人は人間の社会にそこまで理解がないようだ。ならば適当に誤魔化すのも手だったかもしれない。

 彼の左目はこちらの心の奥底まで見透かすようで、思わず後退りしたくなる。


「でも、こうして話していると分かります。皓輝くんは自棄になって命を絶つような子ではないでしょう」


「……」


 上手く答えられない俺に、白狐さんはふと言葉を止め、緩く微笑んだ。両方の掌をこちらに向ける仕草は、無邪気ですらあった。


「分かりました。もう訊きません。向こうの世界で何があったか知りませんが、何か事情があったのなら、僕から言うことは何もないです」


 俺は意外で。少し瞬きする。

 彼は、この話題を腫物のように扱うでもなく、詮索するでもなく、ましてや若者の悩みを聞く大人になることもなかった。


「でも、井戸に飛び込むのはやめてください」と念を押すので、ようやく俺は苦笑することが出来た。


 多少気が楽になったのは、彼もまた違う文明社会から来た俺の扱いに困っていることが何となく感じ取れたためだ。訊きたいけれど、訊けない。そんな好奇心と遠慮のせめぎ合いが彼の言動から滲んでいた。

 実際問題、高校受験に落ちたことはきっかけですらない。原因はずっと以前から崩れるほど積み重なっていて、一人じゃとても抱えきれなくなくなっていた。

 死のうと思った理由は光が思っている以上に複雑で、一言では語れないのである。見ず知らずの誰かに話すものでもない。


「皓輝くんや光ちゃんが元の世界に帰りたいなら、僕らも出来る限り力を貸しますよ」白狐さんは、俺を励ますように明るい声を出した。「こうして出会ったのも何かの縁ですし」


「ありがとうございます」


 率直に感謝の言葉が出たのは、きっと彼は口先だけでなく、本当に力を貸してくれるのだろうという確信じみたものがあったためだ。彼ら世捨て人の親切さを、疑うつもりはない。

 でも、と彼が付け加えて初めて、俺はそれが前置きであると知る。


「ひとつ、確認しておきたいことがあるのです」


「確認?」


 彼はひとつ息を吸って、言葉を紡いだ。


「皓輝くんの、その肌について」


 血の気が引く。束の間、呼吸をするのを忘れた。白狐さんの目線の先が、俺の手や首を遠慮がちになぞっているのが分かる。


「あの……」白狐さんが居心地悪そうな声を出す。俺はどうにか我に返った。そして今度は、貼り付けるような苦笑を浮かべる。


「やっぱり、違う世界の人でも気になるものですか」と。


 彼はどちらともつかない曖昧な反応を返した。掌で言葉を遮り、俺はどう説明すべきか考えあぐねた。

 思えば、彼らが俺の病気を知っているのは当然だ。あの最初の夜に負った怪我に包帯を巻いてくれたのが彼らであるのなら、当然俺の皮膚の異変にも気付いたはずだ。

 俺は黙って服の袖を捲る。骨のような腕には乾燥した皮膚が貼り付き、それが魚の鱗のようにひび割れていた。鱗屑(りんせつ)は腕だけではなく全身疎らに広がっていて、顔の辺りは目立たないが、皮膚が突っ張るので顔立ちが不自然に歪んでいる。

 おまけに眼球は異常に肥大化して、鼻は潰れ、「蜥蜴人間」と揶揄されたことも少なくない。


「生まれつき皮膚の疾患で、ほとんど全身こんな具合なんですよ」


 二十一世紀の日本でも、この手の疾患は道行く人々の視線を集める自然発生的な見世物になるのは否めない。注目を集めるのも、逆に気まずそうに視線を逸らされるのも、それなりに傷つくものだ。


「生まれつき、そうなのですね」白狐さんは意味ありげに頷いている。


「そうです。遺伝性の奇病と診断されました」


 正確には違う。その可能性が高いと言われただけだ。実のところ俺は暫定的にそういった病名をもらったに過ぎず、厳密に言えば謎の皮膚病ではある。


「イデン……」


「血の繋がりによって発症する病気のことです」


「なるほど?」


 彼は分かったような分からないような曖昧な顔をしていた。俺は、詳しいことを話すつもりはなかった。この話題がデリケートなものとして扱われるべき理由は、もっと根深い。

 遺伝性の疾患ということは要するに俺の両親どちらかの染色体が原因で発症したという理屈になるが、今から十一年前、その責任の押し付け合いが家族間の冷戦を引き起こしたのだ。光が生まれる前の話である。


「でも、人に感染するものではないので、安心してください」


 俺は十五年の人生で繰り返してきた台詞を言う。


「すみません、興味本位で訊いてしまって」彼は心から申し訳なさそうだった。


「いいんです。慣れていますし」


 死に直結するものでなくとも、外見に症状が表われる病気は否が応でも人目を引く。好奇や遠慮の目を向けられるのも、家族と似ていないと指摘されることも、謝られることも、慣れている。ある種の初対面の儀礼のようなものだ。

 俺はそこで、この話題は途切れると思った。だから彼が話題を続けたのは、想定外だった。


「皓輝くんって、ネクロ・エグロなんじゃないですか?」


「え?」全くの想定外な方向から矢が飛んできた。思わず頓狂な声が出る。「ネクロ・エグロ?」


 白狐さんは何か言いたげな様子でありながら、答えなかった。言葉が出てこないのか、俺を気遣っているのか定かでない。

 脳裏にあの夜の記憶が蘇る。奴隷狩りとかいう、物騒な人身売買を生業とする賊に襲われたとき、俺は同じことを訊ねられたのだ。「お前はネクロ・エグロか?」と。


「ネクロ・エグロって何なんですか?」


「この世界の住民のことです。皓輝くんたちの視点で表現するなら」


 俺はその先を聞くのが怖い。「何か特別なんですか?」


「ネクロ・エグロは皆スコノスを宿しています。スコノスは人によって様々な姿をしています。多くは獣の形をしています。そして、スコノスの特性が、宿主の肉体に現れることがあります」


「……」


 何だか、足下から黒いものが迫ってくるような気がした。スコノスという得体の知れない語が、物理的な存在なのか抽象的な比喩なのかも分からない。


「例えば、鱗を持つ生き物の姿をしたスコノスを持つネクロ・エグロは、皮膚に鱗が現れることがあります。目や顔つきがどことなく動物のように見えるネクロ・エグロも珍しくありません」


「……つまり、俺がネクロ・エグロに見えるということですか?」


「はい。というより、そういう気がします」白狐さんは頷く。「ネクロ・エグロは──何と言いますか、ネクロ・エグロ同士にだけ通じる何かを持っています。スコノスが持つ超自然の力がそこに“ある”ことを感じ取れるんです」


 白狐さんの語るものが、俺には飲み込めない。口にしてはいけないものを誤って口に入れてしまったような拒絶感がある。自身の肌の異常を、「普通の人間じゃないから」という説明で片付けられるのが嫌だったのかもしれない。


「俺、もう部屋に戻ります」気が付くと俺はそう言って白狐さんに会釈をしていた。「おやすみなさい」


 会話のぶつ切りに後ろめたさを覚えるが、この場から逃げ出さなくてはいけない焦燥感に駆られた。彼の話の先を聞きたくなかった。


 足早に井戸端から離れる。

 引き留めて追及することも出来ただろうに、白狐さんは何も言わなかった。何も言わず、ただ俺の言動の意味を図ろうと東屋を後にする俺をじっと見つめていた。

 先程出てきたばかりの玄関に戻って、スニーカーを脱ぐ。土で汚れたそれを敷台の端に揃えながら、大丈夫と自分に言い聞かせた。

 一体何が興味を引いたのかと思えば、彼らには俺の病気が人間ではないものに映ったらしい。ネクロ・エグロというものが何なのか未だによく分からない俺だが、その意図だけははっきりと読み取れた。

 彼は、俺と光との血縁関係を疑ったのだ。


 板敷きの間に上がる。来るときは気付かなかった靴棚の生け花が、月影に凛と浮かび上がっていた。

 花器に張られた澄んだ水が、俺の気配で微かに震える。静けさに満ちた無機質な廊下で、瑞々しいその枝花は場違いだと思えるほど生を感じさせた。

 俺は黙って背を向け、部屋へと戻っていく。


 俺と光は血縁関係のある兄妹だ。俺はあの両親の間に生まれた子どもだ。そう、間違いない。

 頭を過ったのは、光が生まれる前のことである。あまりにも俺が両親に似ていないために母さんが不義姦通を疑われたことがあった。

 遺伝子性の疾患の話もあり、親戚一同どこか俺の存在に敏感になっていたのだろう。「どうせ貧乏人の子供ですものね」と冷たく言い放った祖母を思い出す。


 ああ、嫌なものを思い出してしまった。


 






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