Ⅳ
昼餉の後、せっかくだから散歩をしないかと翔に誘われた。気落ちしている俺を気遣ったのだろう。明るい午後の陽射しが差し込む山林は、桜も梅もまだ早いが、風が温かくて気持ちがいいのだ、と。
断る言い訳も思いつかない。誘われるまま、光とともに外へ出る。
世捨て人の主はと言えば、太陽の光が嫌いらしく家の中に引っ込んだ。
ざく、と一歩足を踏むごとに、冬枯れて湿った落ち葉がささめく。その間から新緑が芽吹き、穏やかな春の訪れを感じさせた。正午の太陽がきらきらと眩しいほど輝いている。
外に出てみれば分かる、世捨て人の家の周囲は文字通りの森だった。起伏のある地面には絨毯のような深緑の苔がびっしりと生え、彼らはここを好んで苔森と呼ぶ。
なるほど、地面どころか年季の入った樹々の表面にまで苔が浸蝕し、苔森と呼ばれるに相応しい。低い山々に囲まれてぽっかり空いた盆地、そんな場所に、世捨て人たちの家は隠れるように建っている。
外壁は木造だが、土台は石。古びた造りの家はもう何十年も昔からあると見え、不思議と苔森の風景に同化していた。
「不便な場所だな」俺は率直な感想を口にする。
見渡す限り、この家を除いて人工物は一切見当たらない。山林もさして手を加えた様子もなく、遠くの空で鳶が舞っている。恐ろしく長閑で、暮らし向きの悪そうな土地だ。
「まあね。俺たち、社会の逸れ者だから」
翔は手で庇をつくって目を細めた。目尻に皺が寄って、愛嬌のある笑顔になる。
世捨て人とは貧しさに身を寄せ、細々と孤独に暮らしているような人を指すと思っていたが、少なくともこの文明世界の彼らは違うようだ。
転ばないよう翔と手を繋いでいる光が、晴れた青空を指さした。
「あ、ねえ、翔。あれは何?」
「回っているやつか? 鳶だよ。ピーヒョロロって鳴いてるだろ?」
「……知らない」
「おい、鳶も知らないって、どんな環境で生きてきたんだ!?」
そんなことを言われても、と俺は眉を下げる。俺たち兄妹と、自然に囲まれて生きている翔とでは価値観すら根本的に異なるだろう。ましてや相手は人間ではないのである。
悠長なことに、光はこの状況を楽しんでいるようだった。物珍しいものを見つけては、あれは何だこれは何だと翔に訊ねている。
俺はそんな二人からやや離れた位置を歩いていた。地面に一面に生える厚い苔は、起伏があって一歩ごとに身体が沈む。囁くような水の音がする。どこかで湧き水でも流れているのだろうか。
家の周囲は人の手が入った気配のない山林と緩い斜面が続く。湿り気を帯びた空気が、肌に纏わりつく。時折足元で小枝が、ぱきん、と撥ね、羽虫が逃げた。
「──……」
都市部で生まれ育った俺にとっては耳慣れない山の声。否応なしに異質な地へ来てしまったのだと思い知らされる。
ふ、と足を止める。見上げた喬木はまだほとんど冬枯れたまま、丸裸で佇んでいた。梢が風を鳴らし、青い空に揺れている。枝先が陽光にきらり、きらりと光り、惹きつけられた。
それは一瞬の出来事だった。周囲の音が、すう、と遠のいた。目の前が不自然に明るくなったのと、誰かに腕を引かれるのは同時だった。こっちへ来て、と誘われるように。
「え?」
そんな言葉が口をつく前に、今度は逆側から勢いよく手首を掴まれる。翔だった。何か叫んでいたが、聞き取れない。その力の強さにつんのめり、目を白黒させる。
「全く、少し暖かくなったと思ったらすぐこうなる」
翔は俺の手首を強く握ったまま、俺の背後に向けて言う。振り返るが、そこには何もいない。辺りの様子も、特に変わったところはない。光が、遅れて俺たちの方へとやって来る。
「ねえ、何があったの?」
光が訊ねると、翔は「花神が皓輝に近付いていた」とやはり俺の後ろを見つめたまま言った。ここではないどこかを見透かすような眼差しに、寒気を覚える。「花神?」と俺は鸚鵡返しにする。
「そう、花に宿る霊の一種だね。冬の間は大人しいんだけど、春になるとそこら中に一斉に現れて、時々男を自分たちの領域へ引っ張ろうとする」
俺は再び後ろを見て、じっと目を凝らしてみる。薄暗い木々の陰が地面にできている。静まり返り、動くものの気配は感じられない。
「その花神っていうのは、男に近付いてどうするの?」
光の問いに翔は肩を竦める。
「恋に落ちたりする。花神は大抵美しいからね。でも、花神との恋物語は大体不幸になって終わるから、安易に気を許さない方がいい」
「俺には全然見えないんだが、本当にいるのか?」
光も俺に同調して頷く。翔は気にしていないようだった。そうした曖昧な存在とともに過ごすことを、当たり前としている。翔にしか見えない幻覚ではないかという疑いも捨てきれない。
「もう霊域の中に逃げたね」
「霊域というのは……」俺ははっとする。「もしかして、神隠しに関係しているものか?」
翔は肩を竦める。「霊域は、この場所とそうじゃない場所との狭間のことだよ」と。
「はい、これ」
こちらの発言を遮るようにして突き出されたのは、見目に鮮やかな黄色い漬物。翔の手の中でぐったりとしなり、その存在感を一層主張している。俺は声も出ない。
紛うことなき──俺の知っている言葉で表すなら──たくあん一本である。そう、丸ごと。
「おまじないだ」翔は事も無げに言い放つ。
「皓輝は霊たちに目を付けられたみたいだからな。向こう側に引っ張られそうになったら、何か食べ物を口に入れろ。何でもいい。いっそ雑草でも構わない。そうすると地に足がついて、引っ張られずに済む」
理屈は分かる。そういうことにしておく。だが俺が知りたいのは、どうして懐にたくあんを丸ごと仕舞っていたのか、ということなのだ──。
そんなことも訊いたところで有意義な答えが返ってくるとも思えず、躊躇している内に押し付けられた俺は、僅かに生暖かいたくあんを素手で食わされる羽目になった。こんな屋外で、丸齧りである。
前歯で端を噛みきり、バリボリと音を立てて味わう。ぬか漬け独特の苦みが口に広がり、これが疑いようもなくあのたくあんだと俺は認めた。しかし、翔は日本人には見えないし、そのちぐはぐさが余計異世界に来てしまったという実感のひとつになった。
正直なところ白飯がないときつい。一本丸々食べきれる自信がない。
「河童がキュウリを食べているみたいだね……」と光。
「カッパって何?」
「日本の妖怪」
無心でたくあんを頬張りながら、俺は考える。
翔の言う通り、先程の俺が霊的な存在に引っ張られていたのだとすれば──きっとこの現象を利用して元の世界へ戻ることも決して不可能ではないはずだ。奥歯でたくあんの欠片を噛み砕き、俺は意を決する。
「なあ」意外な近さで翔と視線がぶつかった。「意図的に霊域へ行くことは可能か?」
「は?」
「元の世界に帰りたいんだ」
翔は目を丸くした。それから口をはくはくさせた後、目を伏せる「それは……」と掠れ声が低く聞こえた。
「やめておいた方がいい」
「何故だ?」
「……」
「難しいから?」
詰め寄る俺を前に、翔は目線を逸らしている。そしてそこから紡がれたのは、想定外の言葉だった。
「俺がやめて欲しいのは、その言い方かな」
「言い方?」
「神を利用できると思っている」
は、と。間近でその双眸に見つめられる。その眼差しはあまりにも真っ直ぐで、俺の心の奥まで見透かしそうだった。息が詰まり、俺は押し黙った。
「頼むから、そういった考えはやめてくれよ。“神”は俺たちが正しく認識できるものじゃないし、ましてや都合よく利用できるものでもないんだ」
「……」
「自分よりも高位の存在に喧嘩を売りたいなら、それは俺たちへの侮辱と受け取るぞ」
思わぬ翔の剣幕に、俺はしばらく呆気にとられてようやく「分かった」と声を掠れさせた。「ごめん」
それは本心から出たものというより、気迫に圧されて口から出た謝罪と言ったほうが近い。
そういった考えとは、神隠しという現象を使って元の世界に帰ろうとしたことだろうが、そのときの俺は、何がそんなに翔を怒らせたのか分からなかった。
──少し経ってみて、俺の軽率さが彼の“信仰心”に傷を付けたのだということを理解する。
彼らは何か、目には見えない大切なものを守っている。迂闊にも、俺はそれを土足で踏み荒らさんとした。どんなにこの文化圏に疎くとも、彼らの守る信仰を軽んじるなど間違ってもしてはいけなかったのだ。
「……」
翔はそのまま、山林を抜けるようにしてすたすたと立ち去ってしまった。遠ざかる彼の背を見送る俺は、先程誰かに触れられた自身の腕を気にする。
「……翔を怒らせた」隣に佇む光が、責任を問うようにこちらを見上げる。「兄貴、ちゃんと謝ってきなよ」
「分かったよ」
俺は渋々頭を掻く。確かに俺の発言はまずかったのだろう。ただ、光に指摘されるのはどうにも癪に障る。この問題は、決して俺だけのものではない。
俺は妹に人差し指を突き付ける。
「光、お前も他人事みたいに言うのはやめろよ。元の世界に帰らなきゃいけないのは、お前も同じなんだぞ」
いや、むしろ本当の意味で帰らなくてはいけないのは俺ではなく光の方である。
「──……」
光は何かを言いかけ、途中でやめた。俺は齧りかけのたくあんを片手に、翔が歩いていった方向へと続く。
背中に妹の、何とも言い難い視線を感じた。言いたいことがあるならはっきり言えと思う反面、妹の話をまともに聞く気がないのも事実である。
世捨て人の家の瓦葺の屋根が、樹々の隙間から覗いている。
***
「翔」
声を掛ける。翔は、世捨て人の家の外縁に面した縁側に腰かけていた。簡易なサンダルのような履き物が地面に転がっている。こちらを見止めると、軽く片手を上げて笑う。陽射しに照らされ、眩しい。
「さっきは悪かった。気分を害したなら謝る」
「いや、いいよ」その様子に俺はほっとする。この翔という若者は、見るからに怒りなど負の感情が長続きしなさそうではあったが。
「何も知らないことを責めるべきではなかったな。何も知らなくて当然だ。ついさっき目覚めたんだものな」
翔はその長い脚で胡坐をかいている。俺はしばらく突っ立った後、縁側の欄干に寄り掛かった。板敷きの縁側は広く、きれいに掃除されていた。
小鳥の囀りがする。木陰に隠れ、姿は見えない。俺と翔はしばらく黙り、青空とそこに貼りついたような雲を見上げた。
「──霊域を通じて元の場所に帰るって発想そのものは悪くはないと思う。奥深い山には穴みたいにそういう場所があちこちにあると言われている。実際、皓輝と光はそうやってこちら側に来たんじゃないかと思うし、同じ方法で帰ろうとするのは自然だよな」
やがて翔は前を見据えたまま口を開く。先程言い損ねたことを補うよう、丁寧な口調だ。そして、きっぱりしている。
「でも、無理だ」
「無理か」
「さっき引っ張られかけたとき、何か感じなかったか? 霊域では俺たちの理解を越えたことが平気で起こる。自分からそこに飛び込んで、あまつさえ特定の地点に出ようとするなんて危険すぎるよ」
翔の意見はなかなか現実的なように思えた。
霊域というものが具体的にどんなものか把握していないが、恐らく彼らは神隠しに遭うことを“霊域に入る”と捉えているのだろう。この文明世界と、元の世界との間に物理的な隙間が存在しているのだとすれば、きっとそれは彼らの言うところの“霊域”だ。
確かに一瞬の出来事だったとはいえ、先程何者かによって引っ張られたあのとき、俺はどうすることも出来なかった。ただ茫漠と、夢を見ているような奇妙な空間の広がりを感じただけである。
「大体、俺たちは長年ここで暮らしているけど、皓輝や光みたいに別の世界からやって来た人なんて見たことない。そう簡単に行き来できるなら今頃もっと大変なことになっているんじゃないかな」
「それは尤もだな」
俺が考え込むと、翔は首を捻っていた。あまりに首を傾けるので、そのままバランスを崩しそうな体勢だった。
顔を横向けたまま、彼は日に灼けた顔でこちらを覗き込む。
「なあ、訊きたいことがあるんだ」と。
「何だ?」
「どうして、皓輝はそんなに元の世界に帰りたいんだ?」
「……」
「だって、聞いたぜ。自ら命を絶とうとしたんだろう。それってつまり、生きるのが嫌だったか、或いは元いた環境が嫌だったんじゃないのか。帰る必要は、どこに?」
ああ、とか、うう、とか。言葉にならない呻きを上げ、俺は顔を両手で覆い隠す。土臭さが息を塞いだ。確信を突く翔の問いかけに、ぐうの音も出ない。
「訊いちゃまずいことだった?」
気遣わしげな翔の視線を受け流しつつ、辛うじて俺の口から出た声は「うん」というたった一言である。それだけで何かを察したのか、翔がそれ以上俺を問い詰めることはなかった。
沈黙が太陽に照らし出され、二人の背後に影を落としている。遅れて追いついてきた光は、俺たちが並んでいるのを遠目から見て肩を竦めた。
翔が居場所を示すよう手を振る。小柄な少女が律儀にも玄関から入ってくるのを確認し、「おやつでも出そうかぁ」と翔が伸びをした。話題を切り替えてくれたようだ。
「白狐さんは?」
「昼寝中」
そう言い残した翔は、居間に向かって歩いていく。やがて背後から、「翔、おやつにたくあんはやめてって言ったでしょ」という妹の声が聞こえた。




