表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。

紫陽花が枯れる頃

作者: kazae

拝啓。


紫陽花の色も鮮やかに色づき始めた初夏の折、ご健勝でお過ごしのことと存じます。


先日は、披露宴お疲れ様でした。

あのように何かと予定どおりには進みませんでしたので、今もさぞかしお疲れのことでしょうとご察しします。

これはほんのお気持ちですが、拙宅の庭に咲きました紫陽花の花がとても見事でございましたので、少しばかり贈らせていただきます。

梅雨にさしかかり空の曇る日も多いことでしょう。この、青空のような花の色を眺めますと、お気持ちも癒されるのではないかと思いますので、どうぞお受け取りください。


さて、話はかわりまして。

晴恵の結婚式も早くも今月となり、私としても嬉しい限りです。

あの子をこの年まで育ててきた日々のすべてをまるで昨日のように思い出すことができます。晴恵の幸せそうな顔を見ると、私も胸がいっぱいになりました。

新調された純白のウエディングドレスを身にまとった姿を見たとき、晴恵を産んだ十七年前のことが鮮やかに思い起こされました。こんな日が来るのは遠い未来のことと思っておりましたのに、月日のたつのは本当に早いものです。

こんな感慨にふけるなんて、年寄りくさいとお笑いになられるでしょうか、母親の性というものだと思ってくださいね。わが子が、輝かしい婚礼を迎える姿を見ることは、親としてこんなに嬉しいことはありません。胸の奥から、とても言葉にできないさまざまな思いが溢れて、とまらないのです。

ですから、どうかこの機会を借りて、手紙にて長々と私の身の上をつづらせていただくことをお許しくださいませ。あなた様には聞いていただいてほしいのです。


ところで、一つ、あらかじめお断りしておきます。

あなた様は、ここまで読まれて、きっと、なぜこのような手紙を送ってくるのだろうと不可解にお思いになったことでしょう。

ついつい感情のままに流されて、前置きが長くなってしまい、申し訳ございません。

今、あなたはどのような表情で、これを読んでいることでしょうか・・・。でも、どうか憤ることなく、最後まで目をそらすことなく、私が今からつづることを読んで欲しいと思います。


そうですよね・・・。

今、あの子の花嫁姿を喜ぶ心を伝えることは、場違いかと思われることでしょう。

そして、あの子があなたのもとへ嫁ぐことに感謝と喜びの気持ちを伝えるのは、もう不自然かと思われることでしょう。

しかしお伝えしたかったのです。

あなたもまさか、思いもよらなかったことでしょう。ええ、私もできれば、全て無かったことであってほしいのです。

披露宴が行われ、幸せそうに笑顔を輝かせていたあの子が。

まさか、式の最中に突然、純白のドレスを血で染めることになるなんて。

一体誰が考えられたでしょうか。

綺麗に化粧した顔の、唇の紅の鮮やかな朱よりもなお紅かった、吐き出された鮮血の色。

ほっそりとしたあの子の、白い手袋をつけた手が、震えながら口元を押さえたときの、あの一瞬の顔色の青白さ。

あの白さと紅の二つの色が、私の目に焼きついて離れないのです。

床に倒れたときに、重なり合った、クチナシの花びらのように散らばったドレスのすそ、そして乱れたヴェールの光景。

その時、あの子の体と一緒に床に叩きつけられたグラスが、砕け散った音・・・。

悪魔のささやきのように、今も耳に残っています。昼も夜も、今日まで一時たりとも忘れることはできません。


どうして!

娘には何の罪も無いのに、どうしてこんなことに。


ええ、もちろんそう思いましたとも。

あの日は、六月初頭、梅雨にさしかかった頃合だというのにもかかわらず、朝からずっとよく晴れた天候の日でしたね。あの空の青と、花嫁衣裳の白、そしてその上に滴った血の赤、この三つの色が、無性に刺激的に私の中に刻み込まれております。

そして、倒れたあの子に駆け寄って、混乱に陥りながらも必死にあの子を助けようとしてずっと晴恵の背をさすってくれていた、あなたの着ていた新郎衣装の背広の黒も。

皮肉ですね、あの晴れ衣装がそのまま喪服になってしまうなんて。

あなたにとっては、娘を亡くした母である私以上にお辛いことだったろうとお察しします。

本当に心から、あの子を、私の娘を愛してくれていたのですね。本当にありがとうございます。心優しいあなたに、できることなら、私の一人娘を差し上げとうございました。

あなたのような心優しい方のもとで、寂しがりだったあの子に、幸せになって欲しかった。幸せに暮らすあなた方二人の姿をこの目で見たかった。

どうしてそれはかなわなかったのでしょう・・・・・・。


ああ、ところで、今この手紙を書きながら、つい先日警察から届いた書簡のことを思い出しましたわ。

毎日届けられるんです。調査はこうこう、そしてこのような具合に進み何がどのように判明、あるいは推測されましたが、まだ詳しいことは特定できません。と、いった内容のものが。

あなたのお手元にも、同じようなものが届いておられますのでしょうか?

それとも、まだ婚前だったあなたは、警察には遺族として見なされてはおられないのでしょうか。それは悲しいことですね。

一見、丁寧に対応してくれているように見える、この国の「警察」というものが、どんなに慈悲を解さない、表面的で機械的なものか、思い知らされますでしょう。私もです。

普通に世間を見ていれば、いかに警察やマスコミ・報道機関といった人種の人間たちが、ある犯罪に巻き込まれた側の人間に対して、ぞんざいに、無神経に、そして事務的に接してくることか、客観的には知っていたつもりでした。

でもやはり、このような状況には、怒りや悲しみを通り越して、呆れてしまいますね。


ここまで、前置きが長くなってしまって申し訳ありませんでした。

お伝えしなくてはならないことがございます。本当のことをお話しなくてはなりません。

実は、私は知っておりました。

なぜ晴恵は死ななくてはならなかったのか。

何が、私の大切な娘を・・・あなたの花嫁を、殺させたのか。

実は、私は知っていたのです。

こういうことになるとは、できることなら考えたくは無くて、あの当日までほとんど目をそむけていたことなのですけれど。

ごめんなさい。

もしかしたら、あの子を本当に愛してくれていた、あの子の生涯の伴侶となりえた婚約者のあなたに、先にお伝えしておかなくてはならなかったのではないかと、今となっては悔いています。

そうすれば、運命は少しは変わっていたのでしょうか。

そう考えると、全てが手遅れとなった今となっては、あの子の死を悲しむ心が、引き裂かれそうに痛んで、気も狂いそうな心地になります。

あの子を失いたくは無かった。それだけは確かなのです。

決して、あの子がこの世から消されてしまうことをただ傍観しようとしたのではないのです。信じてくださいませ。

ですがこの出来事は・・・お話したとしても、信じてはいただけないだろうと思っておりました。

私でさえ、できれば信じたくなかったようなことです。

晴恵は、私の娘は、はじめから・・・生まれたときから、あの日までしか生きられない運命だったのです。




晴恵が生まれる前のことです。

私には恋人が居ました。

あの人のことを思い出そうとすることは非常に辛いので、あまり多くを語ることはできません。思い出したくても思い出せなくて、それが一番つらいのです。



私はあるとき、彼の大学に来ていたんです。あの人に呼び出されて。

不審に思いながらも行ってみると、あの人はいませんでした。まったくのでたらめだったのです。


代わりに、一人の学生の女性が、私を待っていました。

名前は今も知りません。聞きませんでしたから。

あの人を慕っていた女性が、私のほかにもいたということなのでしょう。よくわかりませんでしたけど、ずいぶん一方的だと思いませんか。しかし、女の恋とは、男性が思っている以上にはるかに、思い込みの激しいものであることがほとんどなのですよ。それは私にもよくわかります。仮に、自分の運命の人と思い込んでいた人が、それはまったく自分の独りよがりで、実は他に愛している人が居るのだとわかったら、どれだけ絶望するでしょう。全てを否定したくなるでしょう。認めたくないと必死になるでしょう。

そして仮にその激情が悪意となったら、それは、どれほど、後先を省みない激しいものとなるか。


私は殺されました。


それは多分、事故には間違いなかったと思います。あたりは暗く夜の中で周囲には人も無く、薄らと降り続く雨の中で、足場も悪かったんです。

だけど、あれは殺意だったはずです。はずみだったのか故意だったのか魔が差したことだったのかは、今となっては知りようもありませんが、どのみち結果は同じでしょう。私はあのままだと間違いなく死んでいました。

放っておいて逃げてしまえば、誰にも気づかれないとでも思ったのでしょうか。嫉妬深くて身勝手だったあの女性は。


雨が降っていました。それは覚えています。暗くて、独り、立つことができないまま置いていかれて、雨の匂いと私の流した血の匂いが、私の息を塞いでいました。空から血が降っているのか、それとも雨が私から滴っているのか、それとも黒い空が流れて落ちて、私を通り抜けて紅く染まっているのか、そんなことをぼんやりと、凍りついた思考の片隅で感じていました。


体が壊れた苦痛よりも、身の半面を貼り付けるようだった、じっとりと雨に濡れていた土の不快感ばかりが体を締め付けていました。

そして、滴った雨水が土に吸い込まれていくのと同じように、私をじわじわと吸い込んで地面の中へと引きずり込もうとしていたのです。


意識が、どろりと重く曇って、底無しの泥沼へと沈みかかっていたあのとき。


私は・・・・声を聴いたんです。

無数のひそやかな笑い声を。




  くすくす  くすくす  くすくすくく  す くすくす



と。



ざわめくような、ほんのかすかな女の声が。

さざ波のように、幾重にも重なって。



 ( にくいでしょう ?  クルシイ ノ デショウ ? )




そのときの私が、どうやってそれを見ることができたのかわかりません。死にかけて、指先を動かすこともできなかったはずだったのですけど、私は確かに見たのです。

紫陽花の花を。

海のように蒼い色でした。

その花が、私を見下ろしていたのです。暗い深い蒼い色を抱えた紫陽花の、その四角い丸い、重なり合って寄り添った小さな花の形をした蒼い一枚一枚の全てに、女の顔が見えたのです。

細かいタイルを並べたように敷き詰められた無数の顔が。

その全てが、私を見て、ざわざわと笑っていたのです。




くすくす くすくすすくす と。




それは、水面に小さな魚が無数に寄り集まって餌を求めている様子と似ていました。何が楽しいのか、あるいは悲しいのははわかりませんが、ただひたすら、ひしめきあうように、ざわざわざわと、寄せては返す静かな波のような、幾重にも重なって響く声で笑っていました。

死にかけている私に向かって。


人魚。

だったのです。

その花は。


私はその紫陽花の花が、奇妙な名前で呼ばれていることを思い出していました。

人魚のうろこ、と。

誰が最初にそう名づけたのかはわかりません。ですが、多少いわくありげな花だったのです。

海のような美しい深い蒼。雨露に濡れてきらめく花。

同じ品種の紫陽花でも、ここまで神秘的な、魅入るような深い蒼は咲かせないことでしょう。ですから、その不思議な呼び名を聞いても、素敵な名だとすんなり納得したものです。

まさかそんな、怪談めいた由来でそう呼ばれているのだとは思わなかったですけれど。

海の色をして咲くこの花は・・・叶うことなく泡となって消えた女の願いが宿るのだそうです。




死にたくない、と。

じとりとした雨の中、土の上で泥にまみれ、陸に打ち上げられてもがく鮒のようになった私を見つけて”人魚”は告げたのです。



 くすくすくす

 くすくす くすくすくす くく



 (ふふふ)  このまま土に還るのは無念でしょう ?

 (可哀想に)  泡となって消えるのは悔しいでしょう?




 あたし が         くすくす くす

     アタシ タチ ガ        うふふ    ひそひそ 


 手伝ってあげましょうか ?        ざわざわ ざわ ざわ




 願いとひきかえできるものを支払うのならば

 何かをひきかえにしても 犠牲にしても いいのならば



 

 人魚は、脚と引き換えに声を失った。

 人魚の姉は、妹の命を助けるために美しい御髪を切って差し出した。

 そして人魚は、自分の命とひきかえにして愛する人の命を選んだ。



 あなたは何を望む ?        

     何を犠牲にして何を求める ? 

            何を失うことを選ぶ ?



 暗い海の底で溺れる、可哀相なお姫様。




  くすくす くす くすくす     くすくすくすくす

  ざわざわざわ

  ひそひそ ひそひそひそ  ひそ


  ふふ ふふ   ふふふうふふふ




私は生きたかった。


まだ死にたくなかった。

幸せになりたかった。



それは心からの叫びだったと思うのです。今も胸の奥底に、もがくような、胸をかきむしるような、焼け付くような悲しい切望が私の心の底に刻み込まれています。

ふとした瞬間にチリチリと痛みとなってこの身によみがえる、消えることの無い記憶の焼印となって脳裏に疼きます。



気づくと私は、黒い雨の滴る下、じっとりと濡れた土の上に呆然としたまま座り込んでいました。

なぜ自分がここにいるのかわからなかった。

底の見えない暗黒の空に包まれながら、自分が何か、とてつもなく恐ろしい喪失をしたのだ、ということを漠然と悟りました。計り知れない重苦しい空白が、私の内側から広がって私を呑み込もうとしているよな、得体の知れない大きな恐怖が私を押しつぶそうとしていました。

何が恐ろしいのか、何を失ったのか、なぜ私はここにいるのか、私に何があったのか、何もわからず、何も見えないままでした。しかし間違いなく私は何かを失ったのだと、正体のわからない恐怖ばかりが私の中に溢れて、私は歯が打ち鳴って呼吸が苦しくなるほどに震えながら、その場所から逃げ帰りました。


あの紫陽花は本当に亡霊だったのでしょうか。それはわかりません。私が見たものが何だったのかも。ただの幻覚だったのかもしれません。あるいは、私の妄想が作り出した虚像の記憶なのかもしれません。そう考えるほうがきっと自然でしょう。

一旦は確実に呑み込まれていた死の淵から蘇った私は、そのとき、我が身に起こったことの記憶をぽっかりと失っていたのですから。




私は一度死んだのに生き返ってしまいました。

何を犠牲にしてもいい、何をにしてもいい、幸せになりたいと、黒い憎しみの波に溺れながら願ってしまいました。




人魚は、声と引き換えに脚を手に入れました。

そして、自分の命と引き換えに、愛する人の命を。

私は何を引き換えにしたのでしょう。・・・・・・それは、私が愛した人の”存在”でした。




私は生き返りました。時がさかのぼったかのように、何事も無く、全ては平穏で、ありのままでした。

ただし、この世のどこにも、私の愛した人は居なくなっていたのです。消えてしまったのです。それこそまるで、泡のように。

死んだのでも、行方不明になったのでもありません。私の愛した人は、始めから存在しなかったことになっていたのです。名前も居場所も彼の家族も、もうどこにも見つからなかった。彼を知る人も誰一人としていませんでした。


もちろんそれは、私もです。私の中から、あの人に関する思い出は、全て消えうせてしまいました。顔も名前も声も、もう思い出すことはできませんでした。


ただ、なぜ自分がこんな暗い雨の夜の中に、泥だらけの姿でうずくまっていたのかわからない、言い知れない正体のつかめない不安感と、あの真っ暗な闇の中に自分自身が全て呑み込まれてしまいそうな、計り知れない喪失感だけが私を責め続けていました。私は何を失ったのだろう。それだけは確かでした。夜ごと、胸のつぶれるような寂しさとも苦しみともつかない重苦しさが私を苛んで、私は声を失ったかのようにただ静かに泣きました。



もし、その人のことを思い出せなくなった、存在が消えて、無かったことになってしまった、それならば、なぜ私はこのようなことを、あたかも一遍の物語のようにこうして手紙にしたためて、あなたにお伝えすることができるのか、疑問に思われますでしょう? 全て私の妄想か作り話のように思われて、私の話をこうして読んでいても、鼻でお笑いになっているかもしれませんね。

あの人は泡のように消えてしまいました。ですが私には、確かに、私にとって大きな喪失感の原因となりえた人が居たのだと、そしてその人のために私はあの夜雨に濡れていたのだと、そう確信することができる鍵となるものが残されていたのです。

それが、あの子でした。私の娘です。



雨の夜の中で、私は殺されて、私は死んで。

そして、蒼い紫陽花の花が私に話しかけてきたこと。

喪失感という暗闇の中で必死に光を探すかのように、すがりつくようにしてかろうじて思い出したのは、それらの光景でした。

ぼんやりと意識の深海の底からおぼろに白く浮かび上がるようにして、目に焼きついていたあの花の、目に焼きつくような蒼色を思い出しました。

しかし、なぜ私はあんなにも強く、まだ生きたいと願ったのだろうと、それが不思議でなりませんでした。

すぐにその理由を知ることになります。

お腹の中に、あの子が居たからです。

あの人は消えてしまっても、この子は消えなかった。奪われなかった。



ただの私の想像だと思われますか?

しかし、そうでないと、あの子が生まれた理由が無いのです。

幸せになりたかったと。

まだ死にたくないと強く願った。

私はきっと心の中で、引き換えにするものの選択を迫られたはずでした。あの人・・・どんな人だったのか顔や名前はいまだに思い出せませんが、この胸に残る喪失感の強さから、きっと私が強く求めていた人だったのでしょうね・・・しかしあの人よりも私はきっと、あの子に未来を与えたいと選んだのでしょう。私はそれを幸せだと、そうして生きることを強く望んだはずでした。


それに私は、今もあの蒼い花の中に、”人魚”を見るのです。

あれから、六月、梅雨の暗い空が続く季節になるたびに、少しずつ少しずつ、かぼそい糸をたぐるように、失ったものの事を思い出すようになったのです。

本当にそれが正しい記憶か、それとも私自身が、喪失を埋めるために自ら作り上げたものであるのか、自分でもたまにわからなくなりますけれど。

けれど、あの子が・・・生まれた子供は女の子でした・・・晴恵がいたから、これは想像では無いと、確かに私の身に起こったことなのだと思えます。

それで、あの日に見た蒼い紫陽花を探して、一度訪れた場所を探して訪れました。

花は変わらずに美しくその場所に咲いていました。まるで雲の隙間から零れ落ちたような空の欠片のような色をして。その深い悲しい蒼色をした花に強く魅かれて、一株分けてもらって自分の家に持ち帰って庭に植えたのです。


・・・・・・お気づきになられましたか?

ええ、この手紙と一緒に差し上げた、その紫陽花の花です。綺麗でしょう?


あなたにはその蒼い色は、何の色に見えますか? 優しい空の色、それとも、悲しい海の色ですか。


寄り集まった花の中に、泣きそうな顔をして笑う女の顔は見えませんか。

そしてその顔はあなたには、晴恵の顔には見えませんか。


すみません、不謹慎なことを書きましたので訂正します。失礼しました。



私はあの子を産んでから、ずっと心の中で気づいていました。

この娘は、泡となって消える人魚姫なのだと。

生きたい、幸せになりたいと願った。けど、私はきっと幸せにはなれない。愛した人が消えてしまった喪失感を抱えているのだから。

だったらこの子を幸せにしてあげよう。私の代わりに。それこそがきっと私が犠牲と引き換えに望んだ代償だったのだと。

そう思いました。

ですが、所詮は偽りなのです。はかない泡の上に描かれた幸せなのです。弾ければ消えてしまうばかり。

私が本当に望んだ未来はもうどこにも無いのです。



生きるとは何なのでしょう。

こんなに苦しくとも、人は、生きねばならないのでしょうか。



晴恵は、あの子は・・・・・・

私の気のせいだとは思えません。

あの日紫陽花の中に見た、死にかけていた私を見つめて哀しく笑っていた女の顔と、よく似ているように思えました。

晴恵は私の娘です。私の愛するたった一人の娘です。

しかし、あの子の存在そのものが、幻であるような気がしてならなかったのです。いつか夢から覚めたら消えてしまうような、私の手の中から影も残らずいなくなってしまうようなそんな気がしていたのです。

あのときと同じ正体の無い喪失に、私はずっとと怯えていたのです。



私は私の幸せを願ったはずでした。

あの子は私の幸せでありました。ですが同時に・・・・・・その実は、私の憎しみでもあったのです。

私は我が娘に、きっと、心の奥でひそかに嫉妬していたのでしょう。

この子を産むために私は死の淵から生き返り、その代償として私の愛した人は存在を無にしたのだと。

そして私の幸せを代償としてこの子は私の過去を何も知ることも無く、私からもそして他人からも多く愛されて幸せに育つのだと。

できることならば考えたくなかった。こんなことはもう忘れてしまいたかった。本当に心の底から、あの子の幸せが私の幸せだと言うことができたならば、それは本当に「私の幸せ」だと私は心から誇らしく申し上げることができたはずでしょう。

ですが、とうとうそれはできませんでした。

紫陽花の花が・・・・・・六月の空の下で、真っ蒼に深く染まり色づくたびに、私は・・・・・・悲しい人魚に嘲笑われるのです。

 くすくすくす くすくすくすくくすくくすすす 

と。さざなみのような。すすり泣きのようなあの忍び笑いの声を、梅雨の寂しい雨音の中に聞くのです。耳を塞ぐことはできませんでした。

まるで。

泡が弾けて消えてしまうような、ざわざわと寂しい声。


消えてしまう。

きっと消えてしまう。


あの子も。

私の幸せも。


そしてきっと、私自身も。

私が求めたもの、何もかも。


それは私の確信となっていました。

なぜなら、紫陽花の、蒼いうろこのようにひしめく花の中に浮かんで見える、泣き出しそうに笑っている女の顔は・・・・・・。

ああ、幻覚だったらいいと思います。幻覚なのでしょうか。もうわからなくなってしまいました。


それから。もう一つ、こんなこともあったのです。

以前、街中であの女に偶然出会いました。名前は結局聞いていませんが、顔を忘れるはずはありません。雨の夜に私を呼び出したあの女性でした。

あの人はもちろん私を知りません。当然です。私が・・・、私と、そしてその女性が、たまたま同時に愛してしまったあの人は、完全にこの世から消えてしまったのですから。

彼女と私が出会う理由はありません。私を殺したことも、無かったことになっているはずです。本来出会うはずの無い人だったのです。私の愛したあの人さえいなくなってしまったならば。

しかし私は覚えていました。あの人のことが記憶から消えても、自分が殺されかけたときのことは忘れられなかった。だって私は、雨が降るたびに、あの時の、息苦しい湿った泥の匂いを思い出すんですもの。胸がふさがって、気が遠くなりそうなほどに。


道端で偶然見かけたその女性は、幸せそうな顔で家族連れで歩いていました。夫と、子供でしょうか。私の愛したあの人が、存在したことさえも知らず、あなたの所為で彼の存在が消えてしまったのだということも知らず、彼女は、他の誰かを普通に愛して、普通に幸せに過ごしていたのです。狂うはずの無い、普通の未来の中に居たのです。

私のことさえ、何も知らずに。


気づけば私は、彼女を殺していました。私の何処にそんな恐ろしい力があったのでしょう。

ええ、これは果たして偶然でしょうか。私がひそかに彼女の後をつけていった、その時も、暗い雨の夜でした。六月の梅雨の季節ではなく、とても寒い日だったのですけれど。この手で力の限り、女を引きずり、その首を絞めていました。

あの女性は、やはり私のことは何も知りませんでした。彼女にとって私は完全に他人でした。私はずっと忘れられなかったというのに。

そして彼女は、何も知らないまま、赤の他人のはずである私に殺されました。

女の遺体は、紫陽花の根元に埋めました。

暗黒に呑み込まれてしまいそうな底の見えない夜の色を今も覚えています。


どうして、こんな恐ろしいことをしたのに、誰にも見つからなかったのでしょう。

誰かが私を見つけて、殺人者と罵ってくれたなら、誰でもいいから、人殺しとたった一声叫んで、私に憑いていた無音の闇を打ち破ってくれたのなら、私はあの深海の底から抜け出せたのではないかと思えます。この悪夢を終わりにできたような気がします。

それももう、今更の話ですけれど。



そんなことも、何も知らず、私の娘は優しい素直な子に育ちました。

私が望んだとおり、幸せに育ちました。何も知らない、美しい子に育ちました。

悲しみも憎しみも知らず、愛されて愛されて育ってくれました。本当に、私が望んだとおりに。

今どき珍しいほどに、真っ直ぐな心の、良い子だったでしょう。あの子は。

温かい笑顔で笑ってくれる子だったでしょう。

だから、あなたも娘を愛してくださったのでしょう。本当にありがとうございます。あの子はあなたに愛されて、本当に幸せだったはずです。

きっと、昔の私のように。

あの子は、私が失ったもののことは何も知らないままで、本当に幸せに育ってくれたのです。

自分の幸せが何かの犠牲の上に成り立っていたなんて、あの子は考えもしなかったでしょうね。



私が本当に失ったものは、何だったのでしょう。そしてそれと引き換えに私が得たものは・・・・何だったのでしょう。今でもよくわからないのです。

私の願いは、間違っていたでしょうか。それともこれで正しかったのでしょうか。

もし時間を過去に戻せるとしたら、私はどうしていたでしょう。同じことを願うのでしょうか。その自信はありません。でも、代わりに何を願えばよかったのかそれもわかりません。

誰かを、何かを犠牲にしてでも幸せになりたいと願ったことは、そんなにも罪なことだったでしょうか。

私はあの時、全てを諦めて死ぬしかなかったのでしょうか。



ずいぶん長くなってしまいました。

私はこれから、警察に行こうと思います。

そろそろ私が隠した薬の瓶が見つけられている頃でしょう。

どうして。

どうして私がそんなことをしたのかと。

あなたはお思いになりますか ?

私が流した愛する娘を失った涙と、気の狂わんばかりの痛みの叫びは、偽りだったのかとお思いになりますか ?

いいえ。

何一つとして、嘘も偽りもございません。私の心からの叫びです。

この手紙の冒頭でつづりました、娘を亡くした憤りと悲しみは、すべて私の本心からの言葉です。

どうして。どうして。どうして。

本物の幸せは手に入らなかったのでしょう。

しかし、こうしなくてはならなかったのです。

本当に全てが消えてしまう前に。


あの子を泡にしてしまいたくなかったのです。

きっとあの子は消えてしまう運命でした。


娘の、幸せそうな花嫁姿を見たときに、ああ、私の役目は終わったのだと心のどこかで悟りました。

過去に夢見た、私がたどりつくことのできなかった未来に、私の代わりに私の娘がたどりついてくれたのです。


だから。

あの子も。

消えてしまうのだと。


思いました。


そうなる前に私は、歯止めをかけておかなければならないと思ったのです。

幸せにたどりついたら消えてしまうと思ったのです。その前に、自ら手折ってしまわないと・・・・・・。そう、泡になってしまう前に。

私はあの人が、あの人が消えてしまった世界で過ごした虚無感をずっと覚えています。

繰り返したくはなかったのです。

消えてしまうよりは、”存在”そのものが夢か幻のように無くなってしまうよりは、心に遺したままであったほうがどんなに良いか。


そんな恐怖に駆り立てられて、娘を・・・あなたの愛する結婚相手を、あなたの妻となるはずだった子を、殺したこの私を、

どんなに憎んでくださってかまいません。すべては私の妄想であると、私を精神異常者と見なして蔑んでくださってかまいません。

ですが、どうか、これだけは、あなたに覚えていてほしかったのです。

あの子が幸せだったことを。

あの子がこの世に生まれてきて、私の娘として存在していたことを。

そして、あなたが私の娘をかけがえのない存在として愛してくださったことを。

どうか。

忘れないでください。

消えさせてしまわないでください。

あの子のことを忘れないでください。

晴恵が幸せだったことを忘れないでください。



通夜が過ぎ、葬儀が過ぎ、こうして数日が立ちました。

あの子は、消えはしませんでした。

私の記憶からも、誰の記憶からも、あの子が無くなったりはしていません。


安堵すると同時に、消えることの無い悲しみが私を苛みます。

すべては私の夢か妄想だったのでしょうか。

娘に、消えて欲しくなかった。

しかし、生きていて欲しかった。

私の代わりに、本当に幸せになって欲しかった。この先ずっと。

そうすれば、娘だけではなく、私もきっと、本当に幸せになれたでしょうに・・・・・・。



この手紙をお読みになっている今、空は見えていますか。蒼い色をしていますか。

六月なのに、天気の良い日が続きますね。

暗く重い梅雨空の下に咲くからこそ、空と同じ色をした紫陽花の花は、これほどまでに魅惑的で美しいのだとずっと思っておりました。

それは私の思い違いだったのですね。

青空の下でも十分、紫陽花の花は美しいのですね。

七月になれば、梅雨の曇り空も晴れて、透き通った本当の蒼い空が広がるでしょうか。

そうなれば、紫陽花の季節もそろそろ終わりを告げることでしょう。


紫陽花を見ると、晴恵のことを思い出しておつらいでしょう。

どうかこの手紙を読み終えた後は、庭にある紫陽花の木は切り倒してくださいませ。

そして、できれば、その下の根元の土の中から、骨を掘り起こして弔ってやってくださいませんか。



それでは、どうか今後も、お体にお気をつけてお過ごしください。

もう二度とあなたとお会いすることもないことでしょう。



                                          敬具


2008年に執筆の短編。「六月に枯れる花」改題。

評価をするにはログインしてください。
この作品をシェア
Twitter LINEで送る
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ