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登が勤務している会社は、同族企業だった。そして猫柳家の者が要職を務めてきた。
登が幼少期を過ぎて物心ついた頃、民子は正規雇用の社員ではなかった。だからと言って、非正規雇用の社員でもなかった。既に常務になり、会社役員だった。雇用される側の人間ではなく、雇用する側の人間だったのである。
民子が若くして会社役員になったことには、3つの要因があった。会社が同族企業であったこと、民子が入社2年目から大きな実績を残して高い評価を得たこと、仕事が出来る女性をどんどん管理職に昇進させる社風だったことである。
カグオスのプレゼンを終えた登は、その日の夜7時に帰宅して自室に入り、ベッドに体を横たえた。
「(やっとここまで来た。長かった……)」
今までのことが走馬灯のように頭を駆け巡った。
登は社長の息子であるため、社内では腫れ物に触るように扱われてきた。そして、登の目の前で社長のことを批判する者はいなかった。そんなことをすれば登が社長に告げ口するかもしれない、と周囲の者は考えていたからだ。稀に登の目の前で社長の悪口を言った者がいても、すぐに弁解または謝罪してしまうのだった。牛丼屋で登と会話していたときの犬山のように。
また、登の能力に疑問を持つ者もいた。『社長の息子だから入社することが出来たんじゃないか?』という目で見られているのを、登は感じていた。
「(この前もそうだった……)」
登は先週の金曜日に蛇沢課長と並んで廊下を歩いていたときのことを思い返した。あのとき廊下で若い女性社員2人が立ち話をしていて、登と蛇沢が近付いてきたことに気付くと、逃げるように立ち去った。
「(……あのとき、あの2人が逃げていったのは、蛇沢課長に怒られると思ったからじゃあない。僕の姿に気付いたからだ)」
そのときの2人の会話の内容を思い返す。
『……後継者が育ってないからねえ』
『社長も大変ねえ』
あれは登のことを話していたのだった。そこへ当の本人が現れたため、慌てて逃げ去ったのだった。
「(僕だって、やれば出来るはずだ。それを証明するには、仕事で結果を出すしかない)」
登は今回のプロジェクトでどうしても結果を出さなければならなかった。周りの人たちの偏見を払拭するために。
「(今の僕よりも、お母さんの方が苦労してきたはずだ。若い頃から会社役員だったから、責任が重くて苦労が絶えなかったはずだ。僕も負けていられない。カグオスを大ヒット商品にするぞ)」
そう心に誓ったとき、階下から父・玄造が呼ぶ声が聞こえてきた。
「おーい登、ご飯だよ」
食堂に入ると、既に民子が椅子に座っていた。登も椅子に座った。食卓には料理が並べられている。
玄造は席に座らず立ったまま、歯切れの良い声で言った。
「今日は新鮮なサーモンが手に入ったから、マリネにしてみたよ」
そう言うと、登と民子のグラスに白ワインを注ぎ始めた。
「このワインは何?」
登が訊いた。
「ソーヴィニヨン・ブランだよ」
玄造が答えた。
「産地は?」
民子が訊いた。
「ロワールだよ」
玄造はそう答えると、自分のグラスにも注ぎ、席に着いた。
そして3人は食事を始めた。
民子がマリネとワインを味わいながら言った。
「やっぱり魚料理には白ワインが合うわね」
「そのワインは昨日買ってきたんだ。近所の酒屋で買える安物じゃないから遠くまで買いに行って、そのせいで家に帰って来たのが夕方になっちゃったよ」
登も玄造に話し掛けた。
「お父さんは料理とワインの相性を熟知しているよね」
「これも専業主夫の務めだからね。30年も家事をやってれば、詳しくもなるよ」
「それにしても、お父さんの作るマリネは最高だね」
登がそう褒めると、民子が口を挟んだ。
「登、マリネの味を褒めすぎると、お父さんは暫くマリネばっかり作るようになるわよ」
「そうなったら、『今日もマリネ? マンネリネー』なんてね」
一家の談笑は続いた。




