プロローグ
残酷描写があります。
苦手な方はご注意ください。
人の声、足音、信号機の音や車の走行音が混ざり合い渦を巻いて騒音となり頭の中を侵食していく。
硬いハンマーで頭をガンガン殴られているようなひどい頭痛。
痛い。
苦しい。
どうして周りの人は平気な顔をして歩いていけるのだろう。
音の洪水がものすごいうねりをもって襲い掛かってくる。
だんだん足元がおぼつかなくなってきた。
体が上下左右にゆすられているような感覚に視界がぼやける。
遠のいたり近づいたり、更には白く澄んできた。
いたい…。
こんなにも苦しいのに、周囲の人間はまるで何かに追われているようにせわしなくすれ違って行く。
どうして私ばかり…どうして。
不意に綺麗な髪が目を引いた。
艶のある長い髪。
血行の良い白くてやわらかそうな顔の輪郭にはニキビなんてひとつもなくて、きちんと手入れされた眉毛の下にはぱっちりとした大きな瞳。
潤った赤い唇が視界に入った瞬間、横道へと入っていくその後ろ姿に引き寄せられるようにふらふらとついていく。
女は鞄から取り出したスマートフォンを見ている。
時折笑っているのか肩が軽く揺れている。
意味のないクスクスという耳障りな音に自分の顔が自然と歪んだのがわかった。
そのうち鼻歌か聞こえてきた。
その衝動は突然だった。
憎い。
こいつが憎い。
私はこんなにも苦しいのに、こいつはなんでこんなに楽しそうなんだ。
早足で女を通り越して立ち止まり振り返る。
女は驚いて踏鞴を踏んだ。
驚いた顔でもそのきれいな顔は変わらない。
私には手にすることができないものをこいつは全てもっている。
何食わぬ顔をして当然のように享受している。
憎い。
こいつが憎くてたまらない。
伸ばした手で華奢な肩を鷲掴みにして力を入れてやれば、美しい顔は苦痛にゆがんだ。
やっと醜い顔をしたことに愉悦が走る。
あとほんの少し力を入れてやれば簡単に折れる肩にじわじわと圧力をかけていると、何か喚いていた女の喉が震えた。
叫ぶつもりだとわかったからもう片方の手で女の長い髪をつかんで思いっきり引っ張って揺さぶってやった。
不発に終わって女はむせている。
いいきみだ。
でも女の口から耳障りなソプラノが聞こえてくるのが不快だったから出せないようにしよう。
目の前にさらされた喉笛を噛み千切ってやった。
鮮血が飛び散る。
あふれ出る鮮やかな生命の色が私を興奮させた。
背筋をのぼる快楽に震えながらそれを貪るために女の痙攣する首筋に顔を埋めた。
苦しい。
悲しい。
抗えない慟哭に体中がみしみしと歪む。
誰も助けてくれない絶望の先に狂気が腕を広げて私に微笑んでいる…。
目を覚ました瞬間飛び起きた。
でも身体に力が思うように入らず、ベッドから転げ落ちる羽目になった。
這いつくばったまま息を吐く、吸って…噎せた。
うまく息が吸えない。
過呼吸一歩手前だった。
生理的な現象で滲む涙が視界を遮り、げほげほと噎せる音だけが部屋を支配していた。
ようやく呼吸が落ち着いてきたころには涙も止まっていた。
膝に力を入れて体を持ち上げるのも一苦労で、狭い部屋なのに流し台までの道が遠く感じた。
ようやくたどり着いた台で身体を支えたまま蛇口をひねり、そのまま顔を近づけて水道水を飲み込んだ。
乾ききった喉が潤っていく。
全力疾走した後のように激しい鼓動を奏でていた心臓が冷たい水の感触でようやく失速してきた。
震えが止まらない手のひらを見つめながらもう一方の手で蛇口を閉めた。
目を閉じようとすれば瞼の裏にこびりついたかのように真新しく鮮明な残像が脳裏をかすめた。
思わず握った拳を情動のまま叩きつけた。
鈍い音が響く。
じんじんと痛む拳を額に押し付ける。
こんなことをしても意味はない。
強烈な虚脱感に襲われて、その場にずるずると座り込む。
しばらくして遠くの方からサイレンが鳴り始めた。
それ以外は静かな夜だった。
でももう眠りは訪れない。
これから悪夢が始まるのだ。