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扉をくぐったその先に

石ころだらけのおれの世界に、

作者: 貴遊あきら

前作「時代遅れのBGMが流れる店で、」の続きです。

 通りを歩いて石に躓く。人との出会いなんてものは所詮そのくらいの些末な出来事だと冷めきっていたおれに、あの人は開口一番、「そのとおりだ」と楽しそうに笑ってみせた。隣に立つ執事の顔がこわばって、おれは喜色を露わにした。するとあの人は、まるで石ころでも眺めるかのような目でおれを見て、


『その石を拾い上げて確かめもしないあんたは、原石さえ知らずにくだらない人生を送るんだろうね』


 そう嗤った。





 深夜、ソファから起き上がったおれは、忍び足であの人の部屋に向かう。隙間なく締め切られた引き戸の前にしばらく立ち止まり、向こう側にいるあの人へ思いを馳せる。目を閉じて思い浮かぶのは、もう数年も昔になってしまった幼い自分の記憶だ。隣で寝ろとベッドに引きずり込んだおれに、あの人は嫌がる風でもなく体を寄せて、おれの顔をジッと覗き込んだ後、その両手で抱きしめてきた。あのとき独り言のようにあの人が言った言葉は、おれの心の奥底に留まり、おれという存在をより確かなものにした、と大げさにもそう思わずにはいられなかった。


『これが私の存在理由だろう?』


 あの人がどういう気持ちでそう言ったのかは分からない。有無を言わせずおれの世話係をあてがわれ、傍にいることが役目だと思ったからかもしれない。そうだとしても、あの人の存在理由がおれをこうして抱きしめることならば、おれはこの先もなんとか生きていけるのではないかと、やけに興奮した。



 おれという子供は、あの人に「悪い子」と言われるずっと前から“悪い子”だったのだろう。誰もかれも、おれを視界に入れるとすぐ顔を背け、そそくさとその場をあとにした。父は、『皆おまえが怖いのだろう』と呑気に言った。おれの力は兄弟たちを軽く凌駕するもので、父だけがそれを嬉しがり、吹聴し、おれを指して、この子が指をはじくだけで頭がはじけるぞと笑ったのがそもそもの原因だった。そのせいか、おれの世話係はなかなか決まらなかった。財産狙いの貴族の子女が取り入る相手としては、おれには力がありすぎた。平民の女をつけるには、おれは身分が高すぎたし、父の期待も大きかった。

 平民の世話係を従えた兄弟たちは、一人廊下を歩くおれを見て得意げな笑みを浮かべていた。奴隷のように扱われる女たちを横目に、兄弟たち(あいつら)とおれと、どちらが“悪い子”だろうと疑問に思った。視線を交わした女たちがおれを見て怯えたように顔を背けたので、きっとおれだと判断した。





「……眠れないの?」


 引き戸の向こうから聞こえた声に、おれはハッと我に返った。氷のように冷たくなった心が、春の訪れのようにじわりと溶け出す。引き戸に触れて、そのまま床に膝立ちになり、小さな声で「うん」と返した。あの人はしばらく無言だった。その沈黙は心地よい。今このとき、あの人はおれのことばかり考えている。おれがあの人の心を占領し、おれとあの人は今繋がっているのだと胸が高鳴った。



 世話係が決まった、と父に呼び出されたその日、おれは朝から頭痛に襲われていた。おれを生んだ女が、最近父の渡りがないと喚いており、傍付の者がなんとかできないかと文を送ってきたからだった。あの女の子供はおまえひとりで十分だ。父はそう言っていたし、おれを視界に入れることすら放棄した女が父の気に入るはずもない。父は狂っていたけれど、おれを誰より愛していた。今から考えれば、10にも満たないおれに、父に何と言ってとりなしてほしかったのだろうと疑問が浮かぶ。今のおれなら、適当に返事を書いて済ましていただろうけれど、あのときは良くも悪くも自分の感情に素直な子供でしかなかった。ぱちんと指をはじいて――狙った相手が随分遠くにいたのだろう――力を遣い過ぎて、ひどい頭痛に襲われた。


『ようやくおまえの世話係が決まったぞ』


 喜色満面の父は、そう言っておれの言葉を待ったが、はじめからそんなもの期待していなかったおれは、億劫そうに『ありがとうございます』と頭を下げただけだった。気分屋で落ち着きがなく、おれよりずっと感情の波が不安定な父は気分を害し、唇を突きだして部屋に戻ってしまった。困った様子の執事がしゃしゃり出てきて、おれを世話係の居る部屋に案内した。そこでおれは、あの人に出会った。



 突然引き戸が開いて、おれはすぐに我に返る。ぼんやりと暗い部屋の中、あの人がじっとこっちを見つめていた。おれはにへらと緩んだ笑みを浮かべて両手を床につき、四足になってのそのそと敷居をまたぐ。あの人は境界を侵害したおれを咎めなかった。


「ソファでいいっていったの、誰だっけ」


 あと一歩で布団に触れるというところで、あの人は呆れたように呟いた。


「ナナカと一緒じゃないと眠れないよ」


 あのころは、こうして甘えて、この人を放さなかった。




 はじめてあの人に対面して、あの人がおれを嗤ったとき、抑えていた頭痛がぶりかえした。おれは顔を顰め、両手で覆って呻く。執事が横で動揺も露わにおろおろと落ち着かない気配がした。あの人が立ち上がり、こちらに歩いてくるのが分かったけれど、おれはその場に座り込むだけでどうすることもできなかった。痛みは取り繕った壁が崩れかけた証拠だった。石ころのような周りの人間。それを蹴り飛ばして歯牙にもかけなかったおれ。視点を変えれば、おれは一人、嫌厭されて生きてきたただの子供だった。くだらない人生。それが俺を待ち受ける未来。指をはじくだけで頭もはじけると自慢げに言った父の顔が、酷く歪んで頭の中に浮かび、消えた。ふと、おれの頭に誰かが触れる。ゆるゆると頂をなぞり、優しく触れるのは人の指だった。僅かに感じたのは性質の違う透明な力の流れ。


『……どう?』


 とそれだけ訊かれて、おれは頷いた。すっと痛みが引いていった。あとから訊けば、そうしている世話係を見たから自分もやってみた、とそれだけのことだった。そうしてくれる人がいなかったなんてことは、恥ずかしくて言えなかった。




「ナナカさん、でしょう」


 とあの人は盛大なため息をつく。その吐息さえ愛しいと手を取って口づけを落とせば、少しでもおれを男として見てくれるだろうか。その華奢な腕を引き、この胸に寄せて首筋に顔を埋めれば、あの小さな子はもういないと気付いてくれるだろうか。あのとき、はじめて会った時から、その指がおれの頭に触れたときから、おれはあなたに惹かれ、そして二度と放せないと思い知ったことを打ち明ければ、その形の良い唇はどんな言葉を形作るだろう。

 その手が、その声が、その存在全てが、石ころだらけだったおれの世界に鮮やかな色を施し、冷たさ以外知らなかった人との関わりに、手放せない温かさがあることを教えてくれた。別離の扉の向こうに消えたこの人を、どんな気持ちで見送ったか。寂しかったし、辛かった。泣きたくもあったし、実際泣いた。けれども根底に湧いたのは、いつか世界を越えて、あの人をこの手に掴む、そんな強い決意だった。



 おれはゆっくりとあの人に手を伸ばす。途中叩き落とされるのではないかと不安がよぎったが、あの人はおれの行為を防ごうとはしなかった。この人の中で、おれは子供なんだ。たまらず内心苦笑する。しかしあの人の次の言葉で、おれは一時思考停止した。


「――私はあのときも、今も、女であることに変わりはないけど。あのとき私は、女としてあんたを愛していたわけじゃない。それは分かってるの?」

「え……?」


 突如酸素を失って喘ぐ。まるでそんな感じだった。瞠目し、伸ばした手は力なく墜落する。


「その手が私に触れるのは、あのときとは違う重みがある。あんたは男になる。私は、そうだね、異世界に飛んだことも知らず、これからどうなるのか先も見えず、不安がるただの女になる。あんたの愛した私は、私じゃない。幼心に抱いた気持ちは、きっとあとで、愚かな自分を責めることになる。それは分かってるの?」


 そう言ったあの人の唇は、僅かに震えていた。ああ、とおれは天を仰ぎたい気分になった。かつておれを慈しみ、唯一愛してくれた人は、おれを今でも想っている。おれの変化を知って、おれの気持ちをくみ取ってくれている。きっとおれはもう、彼女にとって見知らぬ男にほど近い存在となってしまっているのだろう。彼女の腕にすっぽりと収まる少年の身体は失われた。声も変わった。きっと、この人に触れて感じる温度も、違っているのだろう。初めて重ねた唇はこの身の内に熱を生み、いまだじりじりと燃え続けている。触れようとすれば期待に胸が高鳴った。

 そして目の前のこの人は、俺の知るあの人であって、まるきり同じというわけではない。おれを生んだ女に罵られ、殴られた後も毅然として立っていたあの人とは違う、この身だからこそ感じることのできる弱さが垣間見えた。おれはあの人の手を取って、強く握った。


「あのときのナナカがおれを愛してくれていたのなら、それはおれの思い出の中で十分だよ。だから今のナナカは、昔のおれに決別して、ただナナカに恋い焦がれて世界を渡った愚かな男をみて」


 心臓が嫌に煩い。おれはあの人の返答を待つ。


「……悪いがそれはできそうにないな」


 一世一代のおれの告白は、すげなく一蹴された。さすがに泣きそうになって、涙は見せまいとおれは俯く。そうしたら、頭の頂にゆるゆると何かが触れた。あの手だ。


「決別はできない。私はあの子供をひどく愛していたし、ずっと幸せであれと思ってきた。たとえ本人に忘れろと言われても無理だね」


 意地悪く言ったあの人が、おれの頭を撫でる。


「それでも、こうして大きくなったあんたを見て何も思わないわけじゃない。あの時とは違う。きっとそれはお互いに変わったはず。あんたは男になって、女として私を求めてる。そう理解するのならば、私はとても―――なんていうか、どうしたらいいか分からない。あんたをあの頃のように甘やかせばいいの? あんたの前で、どう女になればいいのかわからない。異世界で執事みたいな男に、お仕着せを押し付けられてこれに着替えろって言われたときくらい、困惑している。それが正直な所」


 弱気な発言をしたせいか、あの人は視線をさまよわせたあと、救いを求めるようにおれを上目遣いに見やった。うねるような熱源が体内を駆け巡り、おれは一瞬意識を飛ばしかける。おれはもう昔には戻れそうにない。


「……じゃあ、さ、その。おれ、今迄みたいにナナカにしてほしいこと言って、甘えるから。ナナカはそれに応えてくれたいいんじゃないかな」


 はにかんでそう提案したおれに、あの人はひどく強張った顔で一言「寝言は寝て言え」とすげない反応を返してきたが、月明かりで見えた耳は僅かに赤く染まっていた。さすがに調子に乗りすぎたと反省して、ようやく気付く。


「……あの、ナナカ?」

確かめるように名前を呼ぶ。


「なんだ?」と聞き返すだけで、何も注意はされなかった。


「……………なんでもないよ。えっと、好き」


 誤魔化すように言いつつも、カカカカと顔中に熱が集まるのは隠しようがなかった。


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