エマ・リンゼル 4
数日後、海の女神号は他の商船の護衛船としてベルーシカを出港した。
帆を高々と掲げ、一路西国カラル・ベラルの港へ。
西国と南国とを経由するルートは二つある。
大雑把に言えば、陸路と海路だ。
南国で最も栄える地が王都でなく、ベルーシカをはじめとする南方諸島であるために、険しい山裙と、広大な砂漠を越える陸路よりも、海岸沿いを進む海路の方が栄えている。
ただし、海路には海路で危険がある。
ことにこの季節、世界を支える柱であるとされる霊峰ガラディオ山脈から吹き降ろす風は、帆船を外海へと押し流す。
外海から離れたところに、海の民が竜の吐息と名づける急激な海流がある。
その海流に乗ったが最後、生きて帰れないと噂される化物海流である。
海の民の子どもなら誰もが知る戯れ歌に、海流を歌った歌がある。
ガラディオの肩に凶星が光る。
気をつけろ、気をつけろ。
竜の顎はすぐそこだ!
逃げろ、逃げろ、逃げろ!
竜の牙につかまりゃ最期。
水底の神さんが待ってるぞ。
逃げろ、逃げろ、逃げろ!
ガラディオの西側に。
東に向かえば命はない!
「……凶星だァ!! 凶星が出たぞ!」
裏返った声で、見張りが叫んだ時、エマは即座に寝床を飛び出し、甲板に駆け上がった。
「凶星だ! 凶星が出た!! 流されちまってる!」
見張り台に上った見張りが金切り声を上げる。
陸地に沿って移動するので、夜には帆をたたみ、錨を降ろす。
ガラディオから吹き降ろす強風は、引き潮や離岸流とあいまって、知らぬ間に船を陸地から引き離してしまう事がある。
あたりの船員も真っ青だ。海に生きる彼らは、化物海流の恐ろしさを知っている。
エマは船のふちに飛びついて、ガラディオ山脈の方に眼を凝らす。
――見えない。
そのままするすると索具に昇ると、ようやく赤い不吉な星がガラディオの肩すれすれに見えた。
風が強い。
髪が吹き散らされて、初めてじかに見る凶星に、エマはぞっとして息を呑んだ。
戯れ歌が頭をよぎる。
ガラディオの肩に凶星が光る。
気をつけろ、気をつけろ。
竜の顎はすぐそこだ!
ランプをかざした船員が、せわしなく商船と合図を送りあっている。
エマも、索具を滑り降りて、忙しく動き回る船員に加わった。
逃げろ、逃げろ、逃げろ!
竜の牙につかまりゃ最期。
水底の神さんが待ってるぞ。
「嵐が来るぞ――――ッ!!」
誰かが――おそらく見張りだろうが――叫んだ。
背筋が冷えた。
それは多分、エマだけではない。
「西だ! 雨雲が広がってきやがる!」
逃げろ、逃げろ、逃げろ!
ガラディオの西側に。
東に向かえば命はない!
振り仰げば確かに、星空を遮る黒い何かがそこにある。
今更のように風が湿っている事に気付いた。
凶星に気を取られすぎていた――。
思ってエマは、下唇を噛む。
前には嵐、後ろは海流。
「負ける、もんか」
エマが呟く。
小さすぎるその声は誰にも届かなかったが、エマの決意そのものだ。
「負けるもんか。こんなところで死ぬもんか! 全員無事に、生き残ってやる!」
ザアァ、と雨雲の先端が海の女神号に水を降らせる。
雨にかすむ視界に凶星を睨みつけて、エマが叫ぶ。
「アタシが、全員無事に、生き残らせてやる!!」
ガラディオの肩に凶星が光る。
気をつけろ、気をつけろ。
竜の顎はすぐそこだ!
逃げろ、逃げろ、逃げろ!
竜の牙につかまりゃ最期。
水底の神さんが待ってるぞ。
逃げろ、逃げろ、逃げろ!
ガラディオの西側に。
東に向かえば命はない!