はじまり 4
あわただしく図書館に本を返して、自宅まで一直線に帰る。
住宅街の一軒家。
「蓮見」と「長野」という二種類の表札の掲げられた家が、藤花の自宅だった。
「ただいま……」
父がまだ帰らないのを承知で、家の中に声をかける。
ただし、小声で。
そのまま足音を立てないように仏間に顔を出し、四年前に亡くなった母の写真にも帰宅を告げた。
藤花が十才の時母が亡くなった。
小学生のうちは、近所に住む伯母が家政婦めいた事をしていてくれたが、藤花が中学に上がってからは、そういった家事のあれこれは藤花がやっていた。
でも、今現在、藤花が家事をする必要は、ない。
そのまま静かに自室に直行しようと踵を返した瞬間、台所の方から女性が出てきた。
「おかえりなさい、藤花ちゃん」
そう言ってにっこりと微笑むのは、檀あずさという名前の女性。
藤花の父と、再婚予定の女性。
「ただいま帰りました」
視線を合わせず、会釈だけしてさっと立ち去る。
他人は「もう四年」というけれど、藤花にとっては「まだ四年」だ。
まだ、四年なのに――。
何事か言いかけたあずさを締め出すように、藤花は強く自室の扉を閉めた。
扉を閉めるなり、その場に座り込む。
制服のスカートから出ている素足の部分が、フローリングの床に触れて冷たい。
見上げれば、時計の指差すのは四時半。
巴と別れてから四十五分。
何時間も経ったと思ったのに、まだそれだけしか経っていないのか、と思った。
老夫と話して、『優しさの手がかり』を見ていた時間はとても長く思えたのに。
手にしていた『優しさの手がかり』を床に置く。
ぐるぐると渦巻く模様が、ことさら気味悪く見えた。
藤花の母は、病死だった。
藤花は未だに、母の亡くなった原因である病気が何なのかをよく知らない。
亡くなったその時に聞いたような気がするのだが、当時は原因なんてどうでもよかった。
けれど、今更父には聞けない。
父は、不自然なまでに母の死を口にしなかった。
父は、母の死に目に間に合わなかった。
親戚の間では、その事を随分悪しき様に言う人が多かったが、藤花は、それが誰より悲しかったのは父本人に違いないと思っていた。
その証拠のように、父は母の一周忌が終わると同時に、糸が切れたように体調を崩し、入院までしてしまった。
帰ってくれば、母が死んだ事を口に出さなくなった。
それも今から思えば、本当に母が理由だったのか分からない、と皮肉気に藤花は思う。
父が、再婚相手であるあずさと知り合ったのは、入院したその病院だというのだから。
彼女は看護士として、その病院に働いていた。
人の顔色をうかがうように、父が再婚の話を藤花にしたのは二週間前。
藤花の答えは、「否」だった。
――まだ、四年なのに――。
けれど、彼らは藤花にはまだ母親が必要という大義名分を振りかざして、彼女は家にやってきた。
他人の弱みにつけこんで。
卑怯にも。
そんな人を、母だなんて呼べない。
ぎゅっと目をつむって、嫌な気持ちを追い払う。
光を反射して煌めく『優しさの手がかり』を手に、ベッドの上に寝転がった。
留め金のついていたらしい跡があるのに、その時はじめて気付く。
元は綺麗な留め金がついていたのだろう。
金の瀟洒な細工の名残があった。
思いながら蓋を、開ける。
中は、空だった。
ただ、紅天鵞絨が敷詰められている。
「嘘……ネジは?」
どんな曲が入っているのかも聞けないのか、と藤花は嘆息する。
明日、例の骨董品屋に行かなくては。代金とネジと――。
内心で数え上げて、『優しさの手がかり』の蓋を閉めようと、蓋に手をかけた。
その瞬間、『優しさの手がかり』から音楽が零れ落ちる。
箱の表面に施された螺鈿のような煌びやかで繊細な音。
触れれば硝子細工のように脆く崩れ去ると思わせる音であった。
何も触っていないのに、と藤花が思うより早く、さらに驚いた事に音楽に乗せて女性の声が聞こえてくる。
伸びやかで、優しげなメゾ・ソプラノ。
若い女性の声が、物語を歌いあげる。
――ゆったりと、歌いあげた。