おわり 1
〜優しさの手がかり〜
耳元で音楽が鳴る。
――リダールの音だろうか?
ぼんやりとした頭で藤花は考える。
――リダールかもしれない。だって、こんなに聞き覚えがあるのだ。次のメロディ・ラインも分かる。次の音は――。
「違う!」
そこまで考えて、ようやく藤花は飛び起きた。
藤花はリダールなどという楽器を知らない。
鳴っていたのは携帯電話だった。
聞き覚えがあるのも道理である。
知らない間に眠ってしまっていたらしい。
慌てて開いた携帯のディスプレイに表示されているのは、巴の名前。
「はいっ!」
急いで、通話ボタンを押す。
『あ、もしもし藤花? 留守番電話サービスにつながったから鳴ってるの気付かなかったのかと思った』
「うん。ごめん……寝てたみたい……」
言いながら時計を見る。
時刻は四時半。
時計が止まっているのだろうか。
全然時間が経っていない。
「……ねぇ、巴。今、時間四時半であってる?」
『えっと……うん。四時半だよ』
時間はあっていた。
眠っていたと思しき時間は、ほんの一瞬の事だったらしい。
「それにしちゃ密度の濃い夢だったけど……」
『は? 何言ってんの?』
無意識の呟きに律儀に反応する巴。
「あ、ごめんごめん、で何?」
『買出し結構早く終わってさ。今ならいつものミスドで約束のハニーディップおごっちゃうぞ。来る?』
「本当? 行く行く!」
それから付け加える。
「私も巴に話したい事があるの」
『優しさの手がかり』の事を。そして、『優しさの手がかり』の語った物語の事を。
巴は表情まで想像できるような、にやにやした声で聞いてくる。
『えー何? 好きな人でもできた?』
「残念でした〜。違います」
『なーんだ』
答えると、巴は心底残念そうな声を出した。
もちろん冗談なのは分かっている。
「じゃあ今からミスド行くね」
『うん、待ってる』
言って通話を切る。
『優しさの手がかり』を見た。
あんなに引き込まれたはずの上蓋が陳腐に見えた。
はじまりもおわりもないと思った螺旋には、ちゃんとはじまりもおわりもあった。
緻密に計算されたと思った紋様は、無造作に置かれているだけだった。
妖しく煌いていたと思った螺鈿は、蛍光灯を反射しているだけだった。
円環かと、螺旋かと、あるいは大極図であるかと思った模様も、よく見ればただの円の連なりだった。
確かに力あると思ったソレは、ただの箱だった。
試しに蓋を開けてみる。
何の音もしなかった。
ただ中に敷き詰められた紅天鵞絨だけが変わらない。
静かに蓋を閉じる。
留め金は壊れていた。
ネジもなかった。
『優しさの手がかり』は、物語を語り終えたその瞬間に、一切の力を失っていた。
『優しさの手がかり』を鞄に入れて、藤花は家を出た。