カーラヴァス 5
ベイス・スターシアの住処は、西国の果ての果て、最も北に近い、不毛の地にあった。
誰ひとりとして踏み込まない奥地である。
カーラヴァスが帰った時、ベイスは喜んで彼を迎えた。
「よく帰ってきたなカーラヴァス!」
「……ただいま……戻り――」
「それより!」
カーラヴァスが言い切らないうちにベイスが声をあげる。
「宝石箱だ! 宝石箱はどこだ? 今頃、氷の女王も文字通り凍り付いてるだろうよ!」
哄笑をあげるベイスを見つめながら、静かにカーラヴァスは告げる。
「……宝石箱は……持って……きません……でした……」
しん、と沈黙が落ちた。実験台に置かれたフラスコの中の液体から、ぷくりと空気が浮き上がり、はじける。
その音が殊更に響いた。
「なぜだ」
冷ややかに、ベイスが尋ねる。
「お前でも結界を通れなかったか」
「……いいえ……通れま――」
「では、衛兵に見つかったか。お前の力ならば簡単に蹴散らせるはずだろう」
今度は質問がふたつあったので、カーラヴァスは少し考えた。
「……確かに……簡単に……殺せ……ます……。……でも、違い……ます……衛兵には……見つかって……ませ――」
「ならなぜだ! 宝石箱の在り処が分からなかったか。そんなもの女王を締め上げてはかせろ! 氷の女王なぞと言われても所詮女だ。お前の醜い顔を見れば怯えて何でもしゃべりだすだろう!」
「……フェニスは……怯え……ません……でした……。……宝石箱は……俺の……意志で……持って……きません……でした……」
「――意志!」
ベイスが叫ぶ。
「意志だと?」
吐き棄てるように続けた。
「そんなものがお前に存在するものか!」
「……あり……ます……俺は――」
「錯覚だ! 女王に何を吹き込まれた。お前も愚かな人間と同じ事を言うのか。私が間違っていると!」
ヒステリックにベイスが声をあげる。
「……俺は……自分の……意志で……フェニスを……護ります……」
そのために、ここに帰ってきたのだ。
もう、二度と、ベイスが、フェニスに手を出さないように。
フェニスが人生を全うする、あと数年か、十数年をひねり出すために。
カーラヴァスは思った。
そのために、自分は喜んで伝説になろうと。
意志を持ち、創造主に逆らい、運命に抗う。
夢幻のような伝説になろうと。
「――――カーラヴァス!!」
ベイスが高圧的に怒鳴りつける。
カーラヴァスは平気だった。
人形のような自分も、意志を持てる事が分かった。
人を尊敬して、愛して、そのために何かができる事が分かった。
他人は自分を愚かと呼ぶかもしれない。
そんな者はいなかったと、語らないかもしれない。
それでも構わなかった。
ベイスが何事かを早口で言った途端に、全身が千切れそうになった。
みしみしと体が軋む。
痛覚は元よりない。ただ、胸が痛いだけだった。
フェニスに二度と会えない事が悲しいだけだった。
手を延ばす。
ベイスの表情が驚愕と、そして恐怖に変わる。
「……俺は……貴方も……嫌いじゃ……なかった……」
ただ、護るべきものが違っただけ。
手を、延ばして、つかむ。
ベイスの右の――効き手の――腕。
ろくに力の入らない指先に、全神経を集中する。
力を籠めると、バターか何かのように、それが裂ける。
もう聞こえない耳に、ベイスの悲鳴が聞こえた気がした。
視界が狭まり、暗くなる。
最期に、カーラヴァスは考える。
――ごめんなさい。
――でも、これで、時間が稼げる。