カーラヴァス 3
「……宝石箱……を……貴女も……必要……なので、す……か?」
「そうよ。この宝石箱はわたくしの支えなの」
そう言って、女王が何かを持ち上げた。
それが宝石箱だろうか、とカーラヴァスは考える。
「この宝石箱の中に、北の英雄の物語というのが入っているのよ。この話を知っていて?」
女王がそう尋ねるのに、首を横に振る。
「あら、残念だ事。聞いてみて、わたくしの大好きなお話なのよ」
女王が言い終わるのとほとんど同時に、蝶番の軋む音が聞こえた。
そしておもむろに、早口で音程の外れた声が聞こえる。
何を言っているかは分からない。
「この次からよ」
弦楽器の音が聞こえた。
次いで、男の声が。
歌い上げるのは、伝説の物語だった。
ただの人の中から生まれ、何の力も持たない伝説であった。
ただ己の力のみで、ただその胸に希望を抱いて、伝説になった少年の物語であった。
誰ひとり信じず、ただ子どもだけが信じる、そんな伝説の物語だった。
「わたくしは、挫けそうになるとこの話を聞くの。聞くと、アルカードお兄様を思い出して、また頑張れるのよ」
「……あるかーど……お、にいさ……ま……?」
「わたくしのたった一人のお兄様よ。とても賢くて強い方だったの。わたくしの目標で、ずっと追いつきたかった人。そして、伝説になってしまった人よ」
女王は声のトーンを落としてそう言った。
「……伝説……?」
意味が分からなかったので、そう尋ねる。
「亡くなってしまったの。わたくしが十六の時よ」
「…………………………」
何と言って言いか分からなくなって、カーラヴァスは黙り込む。
なぜこういう時に自分の頭は上手くまわってくれないのだろうか、と思った。
女王は哀しんでいる。
それを慰めようにも、言葉ひとつ出てこないのである。
「アルカードお兄様が亡くなって、わたくしは女王になった。アルカードお兄様は、この国を守ろうとなさったの」
女王が宝石箱を机に置く。
「お兄様はこの国を愛してらした。この国に住む人を、この国に根付く文化を。そしてそれを何人の手からも守ろうとなさった。そのための武器として、多くの知識を必要とされた」
女王が一歩前に出る。
「わたくしは、そのお兄様の遺志を継ぎたい。お兄様の愛した国を。お兄様の愛した人々を。お兄様の愛した文化を守りたい。お兄様のように、知識とこの身ひとつを武器にして」
女王がもう一歩進み出る。
「でもわたくしは弱い。すぐに意志が揺らいでしまうわ。幾度挫けてもわたくしが立ち直れたのは宝石箱のおかげ。宝石箱の物語を聞いて、百度挫けても百一度立ち上がれる。千度挫けても、千一度立ち上がれるの。宝石箱がわたくしの希望。胸に掲げた折れない旗印。わたくしを包む黄金の翼。すべての闇を切り裂く銀の剣」
もう女王は、上半身しか東屋の影に沈んでいない。
「わたくしには宝石箱が必要なの。わたくしが死んだらどうしても構わないわ。だから、今だけは、持って行かずに済ませる訳には行かないかしら」
そう言って、女王が最後の一歩を踏み出した。
女王の姿があらわになる。
どこを締める事もないハイウェストの服は、寝巻きなのだろう。
普段ならば貴婦人方と同じようにきちんと整っているであろう髪は、今はゆるやかに背に下りている。
女官たちが丁寧に櫛を入れるその髪は、見事なまでの白銀だった。
ところどころに残っている亜麻色が、彼女の本当の髪色を知らせた。
こちらを見据える瞳は青。
ゆるやかに弧を描く眉と、白く、彫りの深い皮膚。
そして、彼女の歩んだ人生そのもののように、深く深く、全身に皺が刻まれていた。
カーラヴァスはめぐりの悪い頭で必死に考えた。
「……その……生き方は……辛く、ないですか……」
「辛いわ」
女王が答える。
「……その……生き方は……苦しく、ないですか……」
「苦しいわ」
それから、女王は右手を胸にあてた。
「私は弱い。だから宝石箱が必要なのよ」
カーラヴァスは、頭を殴られたように目の前がぐらぐらした。
――この強い女は、初めから強かった訳ではないのだ。
そうあろうと強く強く願って、ひたすら努力をして、挫けそうな気持ちを宝石箱で慰めて、それでも苦しみながら、それでも逃げ出さずに、ここに立っている女なのだ。