カーラヴァス 2
父の言った結界とやらは、感じる事すらできなかった。
父の言ったとおり、人間ではないカーラヴァスには効力のないものなのだろうか。
街を囲む三重の城壁を乗り越え、王宮の中に忍び込む。
高い壁も並外れた膂力と恵まれた体格、そして尽きる事のない体力を持ち合わせたカーラヴァスにとっては、何の障害でもなかった。
体格に似合わぬ素早い動きで、松明の灯りの届かない場所を駆け抜ける。
そこは逆に闇が暗く、カーラヴァスと違い暗闇で物を見る能力の低い人間には、見つかる事はなかった。
今夜は満月であったが、雲が多く、月がほとんど隠された闇夜だった事も幸いした。
たどり着いたのは、果樹垣に囲まれた沈床式庭園であった。
中央に噴水を配し、周囲を色々な形の花壇で覆い尽くす。
最奥に、東屋があった。
隅々まで人の手が入り、整然と整えられた庭園は、美しい鳥籠に見えた。
その最奥の東屋から、人の声がしている。
紅い鞠、白い鞠、追いかけて、天高くまで
転がった先はおてんとうさまの鼻先で
白い光で鞠は弾かれ、次に行ったのは銀色の
冷たい冷たい、おつきさまのまんまえさ
西の童謡だった。
それが、パタンという何かの閉まる音と共に途切れる。
「そこに居るのは誰?」
聞こえたのは、先刻の歌を歌っていた男の声とは違う、老女の声だった。
「北の言葉は分からない? 西ならば分かるかしら? それとも、南? 東かしら? どの言葉でも良いわ。分かるかしら?」
その女性はゆっくりとして、それでいて威厳のある声で、あらゆる言語をたくみに使った。
「……北か西……の言葉なら……分かり、ます……」
カーラヴァスはそう答える。
父は、カーラヴァスに粗野な南の言葉と、父自身の知らない東の言葉を除き、西と北の言葉を教えてくれた。
「では北の言葉で話しましょう。貴方はどなた? どちらからいらしたの?」
声だけのまま、老女は尋ねる。
「……俺は……カーラヴァス……と、言います。……貴女は、どなた……です……か?」
「わたくしは、フェニス・R・リンク。この国の女王よ」
あまりにあっさりとした名乗り様に、カーラヴァスは思わず思考を止める。
元々あまり血のめぐりのよくない頭では、北で最も権力のある女性がひとりきりで東屋にいるなど考えられなかった。
「貴方は、どちらからいらしたの?」
女王がそう尋ねた。
その瞬間、偶然にも、雲が晴れた。
月明かりにカーラヴァスの姿が浮き上がる。
「………………っ」
父が醜悪だと言い切った姿が、おそらく、女王の目に入ったのだろう。
彼女が息を呑む声が聞こえた。
再び、月に雲がかかり、暗闇が戻った。
「こんな事を聞いてごめんなさいね。……貴方は、人間なの?」
女王は、ゆっくりと、動揺を押し殺した声で尋ねた。
「……いいえ……」
カーラヴァスは、そう答えた。
「そう。カーラヴァスといったわね。貴方は何故ここに来たの?」
女王の次の質問はこれだった。
カーラヴァスは驚いて、思わず問いかける。
「……俺を……恐ろしい……と、思わ……ないの……ですか……?」
「何故?」
女王は尋ねた。
カーラヴァスは答えられなかった。
「そうね、貴方は大きな体だし、腕も太くてとても力がありそうね。わたくしはただの老婆ですもの。貴方が襲ってきたらきっと逃げられないわ」
なら、どうして、と尋ねかかったカーラヴァスを制して、女王が続ける。
「でも貴方は襲ってこないわ。とても紳士的な侵入者ね」
悪戯っぽくそう言う。
「……でも……襲う……かも、知れない……」
「そうね、だとしたら貴方がそこにいる時点でわたくしの命は終わっているわ。そうと分かっているなら何を恐れる必要があるの?」
最後に、笑い声と共に付け加える。
「第一、襲うようなら襲うかもしれない、なんて言うはずがないわ」
「……俺は……父の……望みを……適えるために……ここに……来ました……」
東屋の中は暗く、カーラヴァスの視力を持ってしても、女王の姿はよく見えない。
カーラヴァスは、なぜか女王の姿を目にしたいと思った。
「貴方のお父様の望みとは何かしら?」
「……宝石箱……螺鈿の、宝石箱を……持ってくる……事……」
尋ねられるままに言う。
「あら、困ったわね。わたくしは持って行って欲しく無いわ」
女王がそう言うので、カーラヴァスの方こそ困ってしまった。