はじまり 2
巴と別れて、藤花は市立図書館まで寄り道をする事にした。
元々、今日で図書の返却期限が切れるので、行こうと思っていたのだ。
小高い丘の上にある図書館には、急な坂道を上らなくてはいけない。
急角度をヘアピンカーブで緩やかにしている。
そのカーブの先端に、草木の茂った獣道のような小道がある。
よくよく見れば、土に埋もれた木の階段が見え、かつては整備されていたと分かる。
あまりに細いその道は、ともすれば見落としてしまうような暗く、目立たない道だった。
藤花自身、生まれてからずっとここに住んでいたのに、つい先日気付いたくらいだ。
木漏れ日が反射して硝子のように光るので『硝子の小道』と名づけた。
同時にそれは、触れれば崩れてしまいそうに微かな、別世界への入り口のようにも見えたからだった。
密かに胸を躍らせて小道に踏み込んだ藤花は、当然のようにがっかりとした。
『硝子の小道』は、ヘアピンカーブの先にある道に繋がっているだけの、ただの道だった。
「でも、近道発見、だわ」
そう呟いて自分を励ましたものの、実際には舗装のされない歩きにくいその道は、舗装された道を歩くよりも時間を要する。
それでも、丘の上の図書館に向かう時、藤花はいつもこの道を使った。
ただし、誰かが一緒の時には通らない。
ひとりきりの時、もしかしたら、違う道が開けるのではないかと期待して通るのだ。
「今日も、駄目」
当然の事を呟いて、藤花は嘆息する。
それから、何気なく周囲を見回した。
チカリ、とわずかな光が藤花の瞳を捉える。
「……何?」
目を細めて、藤花はそちらに向き直った。
藤花の視線の先にあったのは、道をはさんだ向かい側に建った、古ぼけてくすんだ家だった。
――否、家ではない。店、である。
木製の扉以外のすべての壁面を覆う、白茶けたショウ・ウィンドウの中から、藤花の瞳にちらちらと光を運ぶ物がある。
引き寄せられるように、藤花はショウ・ウィンドウの前に立った。
日に焼けて黄ばんだ繻子の中央に恭しく鎮座するのは、光沢のある木製の箱。
宝石箱か何かなのだろうか。
なぜか側面に穴が開いている。
蓋の部分には繊細な螺鈿細工が隙間なく施され、見ていると眩暈すら起こるよう。
その螺鈿細工の部分が、光を反射していたのだった。
規則的な模様はひとつもなく、不規則に円環を描くように、螺鈿が配置されている。
吸い込まれるように中央に視線が行き、そこからまた放射状に細工が続く。
無造作に見えて、計算しつくされた配置。
じっと見ていると、何かの模様が読み取れそうで、けれどそれは決してつかまえられない、蜃気楼のように霧散する。
強いて言うならば、大極図に少し似ているかもしれない。
そう思って見ると、もう、そうには見えなかった。
『優しさの手がかり』
不意に、そんな言葉が藤花の脳裏を掠める。
……どうして?
と、この時に限って、普段は疑問に思わない自分の『名づけ癖』に問いかけた。
なぜ、自分は、この箱を見て「優しさ」なんて単語を思いついたのだろう、と。
藤花の見る限り、不規則な円を描くその意匠は、むしろ不気味で得体のしれない感がある。
そして同時に、強く心惹かれた。
目が離せない。
延々と、螺旋を描く紋様を追い続けてしまう。
"欲しい"という衝動的な感覚に押されて、藤花は店内へと踏み込んでしまった。