セイ・ディルナーク 4
翌朝、セイが食堂に行くと、昨夜の吟遊詩人がいた。
婚約者への土産話が手に入ったので感謝を、と声をかけると、なぜか彼は酷く悲しそうな顔をしている。
「どうかなさったんですか?」
「あぁ、いえ……それが、私の相棒から音が逃げてしまいましてね」
言いながら、リダールを爪弾くが、吟遊詩人の言う通り、確かにほんのひとかけらの音もしない。
「……それは、その……」
何と言うべきか迷って、セイは言葉を濁す。
ご愁傷様というのも何だか妙だし、かといって原因も分からないものにアドバイスも出来ない。
「どうしたのでしょう、昨日は――いや、昨日はどうだったかな?」
吟遊詩人が虚空に視線をさまよわせ言うのに、セイが破顔する。
「何をおっしゃってるんですか、素晴らしい演奏でしたよ!」
「そうですか……いや、酒を飲みすぎたのか記憶が曖昧で……普段はこんな事はないのに、妙だなぁ」
後半はほとんど独り言に近い吟遊詩人の嘆きに、セイは気軽に応じた。
「特に、北の英雄の話はすばらしかったですね」
「北の英雄?」
「ええ、今まで聞いた事のない話でした」
セイの答えに、吟遊詩人が渋面を作る。
「ご冗談を。それは私ではないでしょう。私はそんな話を知りません」
「まさか! 昨夜吟遊詩人の方はあなたしかいなかった。あなたがリダールを弾きながら語って下さったのに?」
「いい加減にしてください。私の態度が何かお気に触ったなら妙な嫌がらせなどせず、そう言ったらどうです?」
ついにはこちらに厳しい視線を寄越す吟遊詩人に、セイは初めて息を呑んだ。
――これは、何か様子が変だ。
「では、もうひとつ。ヴァルク王の王子でバキタ王后の子のジオール殿下の……その、本当の父親は大臣のデアグロ閣下だという噂はご存知ですか?」
昨夜、セイがこの吟遊詩人から聞いた話だ。
吟遊詩人が語らなければ、セイの知らずにいた出来事だろう。
が、吟遊詩人は、好奇の色を浮かべた目のまま、こう言った。
「ほう、それは初耳だ。ぜひ詳しく聞かせてくださいませんか? リダールは壊れていても、この通り、私には声がある。お返しに何か物語をひとつ、というのはどうですか?」
おそろしい予感が、セイの中を駆け抜ける。
「…………いえ、その――ただの、噂です。私もそれしか知りません」
やっとの事でそれだけを言うと、吟遊詩人の視線から逃げ出すように部屋に戻った。
部屋に戻ってやっと、抱えていた――荷物を手放せるほど、安全な場所ではない――自鳴琴の包みを必死に解く。
心なしか、自鳴琴が温かい気がした。
厳重な包みを解いて、現れた自鳴琴の、上蓋に描かれた螺鈿細工の模様が煌く。
輝かしいというよりは、妖しいその煌きに、セイは畏怖に近いものを感じた。
ただの箱にも関わらず、である。
――これを婚約者に渡す?
冗談ではない、とセイは思った。
こんな、得体のしれない物を渡すわけにはいかない。断じて、だ。
そう思うが、螺旋を描くその模様から目が離せない。
引き込まれるように、それを見入ってしまう。
手が吸い付いたように離れなかった。
震える手で、自鳴琴の側面にある螺子を巻いた。
蓋を開き、何も入っていない簡素な木の板でできた内側を覗き込む。
紅い鞠、白い鞠、追いかけて、天高くまで
転がった先はおてんとうさまの鼻先で
白い光で鞠は弾かれ、次に行ったのは銀色の
冷たい冷たい、おつきさまのまんまえさ
子供のころに聞き覚えた戯れ歌を、自鳴琴に吹き込む。
蓋を閉じて、もう一度同じ歌を歌おうと口を開いた。
「――……っ」
声が、出ない。
いや、何の音を出して良いのか分からない。
紅い鞠、白い鞠、追いかけて、天高くまで
鞠はおつきさまの顔をすべって、
くるりとまわっておほしさまのそばに
追いついて、鞠を取ったらすとんと落ちた
もう一度くり返し歌おうとする。
しかし、どう考えても歌の前半が思い出せない。
後半ばかりが頭をめぐる。
知っているはずなのに、分からない。
未だに震えの収まらない手指を無理矢理動かし、セイは螺子を巻かないままに蓋を開いた。
南訛りのダミ声。
北の英雄の話。
悪鬼バキタ王后の話。
そしてそれにまつわる噂話。
南の流行り歌。
最後に、セイの声で戯れ歌が流れた。
まったく聞き覚えのないメロディと歌詞。しかし、聞こえてくるのは確かにセイの声だ。
ついさっき歌ったはずなのに、自鳴琴にその声を盗み取られてしまった。
記憶の片隅にすら、子供のころから親しんだはずのその歌は残らない。
自鳴琴が鳴り止むと同時に、戯れ歌の後半を歌う。
メロディも歌詞もぴったりと合っている。
それでも、たった今歌ったばかりの前半だけ記憶になかった。
背筋が冷える。
自分は、大変なものを手にしてしまった。
捨て去るには抗い難いほどに、セイは自鳴琴に魅了されてしまっていた。
セイにできたのは、ただ深く深く、沈めるように自鳴琴をしまいこみ、もはや決して人目に触れぬところまで運ぶ事だけだった。