眼鏡で見た宇宙
まず最初に、なぜ私がこのような手記を取っているのかについて記しておきたい。それはこれから私がかつて誰もなしえたことのない探索に出かけるからであり、それには命の保証が一切存在しないからだ。
それと本題に入る前に、私がここに記すことはすべて私が実際に体験したことであって、この手記を読んだ者を驚かせようとして書いているのではないということを申し添えておく。とはいうものの、私が味わった一連の出来事は、余りにも現在の一般社会を取り巻く常識から逸脱したものなので、これを読む人が後述する出来事を完全に信じてくれるかどうか、甚だ怪しいものである…。
さて、まずはこれを読む者たちに我々の属する宇宙がどういう場所なのか、全て正確に知っている者はいるのだろうか?と、問うてみたいと思う。私は答えを聞くことはできないが、それでもこの問いに答えることが出来るものはいないと私は思う。何故なら宇宙について我々が認識していることのほぼ全ては誤りであり、そこあるのは宇宙学者やロケットの専門家が謳うような神秘や希望に満ちたフロンティアではなく、ただ我々の常識を嘲笑い、見る者の正気を悉く破壊していく破滅の世界なのだ。
だが今、私は再びその狂った大地にに向かおうとしている。何故そのような事をしようとしているのか、ここで改めて自分で確認するためにも、そうなった経緯から記していきたいと思う。
私は新宿の大学で学生たちに宇宙についての講義を行っていた。自画自賛するような形になって甚だ恥ずかしいものがあるのだが、私の講義は生徒たちには概ね好評で、中には私がまるで宇宙のすべてを知っていると思っている者もいた。
だが私が全てを知っていることなどある筈もなく、それ故に私はこの宇宙の全てを知りたいと常日頃から思っていた。それは子供の頃から抱いていた夢であり、五歳の時望遠鏡から光瞬く星空を見てから抱いていものだった。同僚にこの話をすると決まって子供じみていると返されるのだが、そう言われる度に私の中の情熱は冷めるどころかますます大きくなっていった。
学生になってから今に至るまでずっと、私は休みの日になると書店に繰り出して本や資料を見つけては貪るように読みふけっていた。しかしそこに書いてあるのは刺激的でこそあれ、私が知りたいものとは遠くかけ離れたものだった。
そうやって何も得るものがないまま時間だけが過ぎていき、齢五十になってもその熱意が削がれることは無かったが、同時に焦りのようなものも感じ始めていた。何も知ることが出来ないままに死ぬのではないか?そう思うようになり、そしていつしか宇宙を直接この目で見たい、宇宙の果てを直接見てみたいという思いにかられ始め、その思いが病的なまでに高まっていった。
だが何のパイプも持たない、どこにでもいる一教授にそんなことが出来る筈もなく、次第に諦念が心を蝕み始めたある日、あの男に出会ったのだった。
その男と出会ったのは朝、自宅から大学へに向かう途中にある大通りの交差点であり、私が信号待ちをしている時に向こうから近づいてきたのだった。男は茶色いコートを羽織り茶色い帽子を被っていた。
正確に言うと、その時出会った人間が男かどうかはわからなかった。帽子を目深にかぶり、表情を隠していたからだ。私が男だと思ったのは肩幅が広く私よりも背が高かったからだ。その体躯と服装ではとても目立つと思われたが、周囲の人はそれが見えていないとでもいうかのようにまるで意に介さなかった。
男は肩が触れるほど足音も立てずに近くによると、耳元でぞっとするほど低い声で話しかけてきたのだった。
宇宙を見たくないかと。
いきなりのことにびっくりして何も答えずにいると、その男がため息を一つ洩らしながら黒いケースを内ポケットから取り出し、無理やり私のスーツのポケットにねじ込んできたのだ。私はねじ込もうとする手を引き剥がそうとしたが、相手の力は恐ろしく強く両手を使ってもビクともしなかった。
あまりのことに私が混乱し棒立ちになっていると、男は向きを変え、それ以上何をするでもなく人ごみの中に消えていった。
そして私の手元には、男に無理やり持たされたケースがあった。
深夜零時、講義も終わり、家に帰って例のケースを開いてみると、中には縁の細い長方形型の黒眼鏡が入っていた。私はバカバカしいと思いそれを机の横に置いたまま暫くの間放置して、次の講義に向けての準備やレポートの採点をしたが、次第にその眼鏡が気になり始め横目で見たりつついてみたりした。そしてついに好奇心が警戒心に打ち勝ってしまい、作業を中断しておずおずと眼鏡を手に取ってみた。
今にして思えば全くばかなことをしたと思っている。得体の知れない人間から受け取ったものをやすやすと使ってしまったのだから。
しかしその時の私は前にも述べた通り自分の夢に対して半ば諦めかけており、何か新しい希望を求めて藁にも縋りたい気分だったのだ。たとえそれが得体の知れない奴がもたらした物であっても。
眼鏡をかけてレンズ越しに見えた物は、半分は全く予期していなかったものであり、半分はそれでも心の隅で期待していたものだった。
それは端的に言うならば、まさに「宇宙」だった。強弱様々な光を放つ大小様々な星星が辺り一面に広がった広大無辺の暗黒空間、それが視界いっぱいに広がっていたのだ。それだけでなくレンズの端からジャガイモのような形をした小惑星が突如として現れ、音も立てずに向こう側へと遠ざかっていき、やがて背景と同化して全く見えなくなることも一度や二度ではなかった。星の輝きも、ある所で光が消えたかと思うと別の所を起点にいきなり目を焼かんばかりの閃光が視界いっぱいに広がり、その後でその場所を見ると新たな星が誕生し弱弱しく光を放っているのが見えた。この宇宙は今も「生きている」のだ。私は生きている宇宙をこの目で見つめている――。
ここまできて私は思わず眼鏡を両手でむしり取り机に放り投げた。心臓の鼓動が高まり、肩で息をし、全身から汗が噴き出ていた。興奮のあまり失神してしまいそうだった。気持ちを落ち着かせるために呼吸を整え、暫くしてようやく気分が落ち着いてくると、後から散々探し回ってようやく目当ての物を見つけた時のような満足感と幸福感に満たされた。
呼吸を整えてから、私は躊躇うことなく再び眼鏡を手に取った。時計は深夜二時を差していたが、あの今まで味わったことのない恐怖さえ感じる荘厳な光景を目の当たりにした今、眠ることなどできなかった。
そして私はあのまだ見ぬ宇宙を求めて再び眼鏡をかけなおした。
それからというもの、私は眼鏡を使った宇宙探検にすっかり没頭するようになっていた。もはや講義や研究もその時の私にはほんの些細なことでしかなく、夕方早く家に帰ってから夜が明けるまで、日によっては一日中眼鏡をかけていた。それほどまでにこの宇宙の光景は私にとって驚異的なものであり、心の中の畏怖を掻き立てる神秘的なものであった。
そして眼鏡をかけている内に、私はこの眼鏡にいくつかの機能が備わっていることが分かった。まず一つは視界の移動である。眼鏡に移る宇宙は、いわば無限に広がる宇宙の中のほんの一部を切り取って写しただけであり、故にこちらが頭で右に動けと念じると、眼鏡の視界も右に動き、それまでとは違う新たな光景を見せてくれるのだ。
またこの視点移動は上下左右だけでなく奥行きにも対応していることが分かった。私が奥に進めと念じると、周りの光の粒が細長い糸を引きながら視界の外へと消えていく。そのワープを行っているような様を見た時、私はまたしても興奮せざるを得なかった。
やがて私はこの眼鏡の魅力に完全にとり憑かれ、大学にも顔を出さなくなり、家の外に出ることさえ無くなっていった。大学からの抗議にも似た催促の手紙が来ても全く意に介さなかった。資料を漁っているよりも、この眼鏡を使う方が遥かに魅力的だったからだ。
そして気付いた時には家もゴミだらけであちこちにハエがたかり、鏡で見た自分の顔は頬骨が見える程に痩せ細り眼の下に濃いクマも出来ていたが、さして気にはならなかった。
そしてある時、私はふとあることを思いついた。宇宙の果てまで進めと念じれば、この宇宙の果てまで本当にいけるのだろうかと。今思えばバカな考えだろうとは思うが、この時はこの選択について、これが果たして実現できるかどうかのみを案じており、これが間違っているとは欠片ほども思っていなかった。真実を知るために、自分の欲求に素直になって何が悪いというのだろう?
早速眼鏡をかけ、宇宙の果てに向かって進めと念じた。だがここで私は、眼鏡の力に過信して愚かにも自分が宇宙を意のままに操れると思いこむあまり、宇宙の広大さを失念していた。
昼過ぎから始めたこの計画は、日が暮れ、月が昇り、朝日が昇り始めてもなお到達することは無かったのだ。見渡す限り所々に大小の光点を散りばめた、漆黒の空間が広がるのみであった。
しかしそれでも私は諦めずにその闇の中で前進を続けた。そうする内に外の時間の感覚が段々となくなっていき、そして五感の全てをレンズの中に向けていく内に、私自分の存在が霞のような、体の輪郭があやふやなものになり始めていくのを感じた。やがて肉体の感覚そのものが無くなっていくのを感じたが、だがそれでも眼鏡を外す気は無かった。
あれからどれ程の時間が経ったのか、正確には思い出せない。しかしその光景は、突如として私の前に現れ、私の心に今も消えない傷を残していった。
まず私が件の無謬の宇宙をひた進んでいると、次第に眼前の宇宙が外から内へ、手前から奥へとと泡立ち、地球にある色彩の法則をあざ笑うかのような言いようのない不気味な輝きを放つ霧のようなものが視界を遮っていった。そしてその霧の一部が一つ所に集まり形を具え始め、やがてそれは闇の中でゆがんだ虹の光を放ちながら不気味にのたうつ、軟体動物のような存在へと姿を変じていった。
何本もある蛸のような腕をだらしなく振り回し、体のあちこちに見える縦に裂けた歯の無い口のようなものを絶えずわななかせている、歪な楕円状の球体を目の当たりにし、私は息をのんだ。そしてそれは視界に入るあらゆる場所で同時に誕生していたのだった。
更にその見ているだけで気が狂いそうになる者共は、誰一匹として乱れることなく左右に縦一列ずつ、ある程度の間隔をあけて並んでいるのだった。まるで私を奥へと迎え入れるかのように…。
と、その内の一体が周囲に残っている霧を骨のない腕で器用にかき集め、捏ね回し、一つの細長い管のようなものを作り上げた。よく見るとそれにはいくつもの穴が穿たれていた。周囲では同じような動作を他の者共も行っていた。
そしてあらかた作業が終わると奴らはその道具の先端を口のような裂け目の一つに持っていき(持っていく裂け目の場所はバラバラであり、頭頂部に差し込む奴もいれば背中に持っていってるやつもいた!)、一斉に音を鳴らし始めた。それは楽器だったのだ!
低くもなく高くもなく、そのあらゆる音程を無視した闇色の音色は私の脳髄を揺さぶり、私の魂を破壊しつくそうとするかのように私に襲いかかった。この時私は、奴らは私を狂わせようとしていたのがはっきりとわかった。まるでこの先は正気を持っていては進めないとでも言うように。
だが私はここに来て自分を見失い、全てを台無しにすることなど考えられなかった。音楽は止まることなく直接脳に響いてくる。それでも意地でなんとか平静を保ちながら奴らの作った道を、おっかなびっくり進んでいった。視線を奥の方へまっすぐに固定し、奴らの姿を見ることも控えた。唾液をまき散らし、生きているかのように見るたびに形を変える歪な楽器を掻き鳴らしながらのたうちまわる奴らの姿を見るだけで発狂しそうだったからだ。互いの裂け目を重ね合わせている者さえいた!
やがて奴らの列が途絶え、その音楽も消え失せていくと、周囲には光一つない完全な闇が広がっていた。構わずに前に進んでいくと、ふと、視界の奥の方、目をじっと凝らさなければ見えないほどの彼方遠くに、豆粒ほどの大きさの何かが見えた。
それを見た途端、私は猛烈な吐き気を催した。吐き気だけではない。視界が明滅を繰り返し、耐えがたいほどの頭痛が襲った。私の全てが遥か遠くに見える存在を拒絶していた。
それでも私はそれを見続けた。私の心の奥底に眠る動物の本能―全ての生物に太古から備わっている、真に危険なものを避けようとする本能―を執念と好奇心で押し潰し、私を苦しめるその存在を凝視した。
それは動いていた。決まった形を持たず、スペクトルを無視したあらゆる色を撒き散らし、全身の輪郭は酷くぼやけ、絶えず膨張と収縮を繰り返し、飢えているかのように自身を齧り続けていた。その周囲にはかつて私を狂わせようと頻りに音色を奏でていた者共が浮かび、幼子をあやしているかのように件の音色を奏でていた。そしてその狂った集団の中にいる何かが、名状しがたい二つ(三つだったかもしれないし、百個だったかもしれない)の眼で、私をじっとねめつけていたのだ。
その姿を見て私は驚愕するとともに、漸く身の危険を悟った。眼鏡を外そうとしたが、しかしこの宇宙に時間を忘れるほどにどっぷり漬かり込んでいた私には、腕はおろか体の感覚すらもはやわからなくなっていた。あの存在がゆっくりとこちらに近づいてくる。指の無い腕で宇宙を踏みしめながら、ゆっくり這い寄ってくる。かつて諦念が支配していた心を、今では恐怖と狂気が蹂躙し、破壊しつくしていた。悲鳴も出せない、今自分は脳と眼球と一体になってしまっている。この二つの器官が私の全てと化していたのだ。叫ぶこともままならず、ついには目をいっぱいに開き、全身の水分を出し尽さんほどに涙を流していた。
奴が近づいてくる。従者を引き連れながら。狂った音色を響かせながら。この時不意に腕の感覚が、全身の筋肉の感覚を取り戻したのを感じ、力いっぱいに眼鏡を引き剥がした。
そして眼鏡を引き剥がし、何千億光年もの彼方から一気に現実の地球へと引き戻される寸前、私はあるものを見た。そしてそれを見た刹那に私は私の自宅に戻っていることを認識し、その直後意識を失った。
誰が担ぎ込んだのかは知らないが、気付けば私は病院のベッドの上にいた。今まで暗黒の中に身を置いていた自分にとって、その漂白された天井は私にはとてもまぶしかった。その後医師からは栄養失調で自宅に倒れていた所を隣の人に発見され、ここに運び込まれたと説明を受けた。
数日後、家に帰った私はこうしてこの手記をしたためている所存だ。そしてこれを書き終えたのち、私は冒頭に記した通り再びあの宇宙の果て、死よりも恐ろしい運命が待ち構えているやもしれぬ冒険に赴く。
ここに書いた恐怖を少しでも理解出来る者なら、再びかの地に行こうとする私の正気を疑うだろう。実際私は狂っているのかもしれない。だが私は行かねばならない。そう、私が最後に見たものについて、行って確かめねばならないのだ。ではなぜそうも拘るのか?その問いに対する答えと言う意味でも、私が最後に見た物について記しておこうと思う。
あの狂気の世界から現実の世界に引き戻される直前、あの不気味に蠢く物体の中心に私はある人間を見た。私をねめつけていた人間。茶色いコートと茶色い帽子をかぶり、胡坐をかき、戻って来いと手招きをしているようにも見えるその人間は、まるで、交差点で私に眼鏡を強引に渡した男に瓜二つだったのだ。




