昔語りと輩
この世界は、まだ安定しておらず、また、神の力も弱く、人々は困窮していた。
けれど、人は、自分達にも出来ることがあるのだと知っていたから、今日もまた、供物とともに神に巫女を捧げる。
「巫女の方が供物なくせに」
供物などと言えば聞こえが悪いから、神の元へ巫女を送るのだと皆は言う。
それはそれでいいだろう。世界が無くなれば、生きていくことすら出来ない。生きていくための犠牲はやむを得ないものだ。
彼女はそれが分かっているから、大人しく巫女装束を着せられている。逃げ出すことも考えないではなかった。今、ここを生きたところで意味がないことに気が付き、結局逃げるのを止めたのだ。
「さあ、準備はよいか?」
村長が声を掛ける。
そこには、一変の後ろめたさもない。繰り返していることに罪悪感を感じていたら、やっていけるはずもないから、彼らは自分に言い聞かせるのだ。これは神に対する供物。巫女は神の御許に行くのだと。
それが、この世からの離脱。死を意味するものであるということをあえて気が付かない振りをする。
実に利口なやり方だ。
「はい」
彼女は静かに返事をし、村長の後に続いた。
神は大地にあるのだという。だから、巫女は山の火口から身を投げるのだ。いったい何人の巫女がここから落とされたのだろうか。
彼女は、逃げられないようにと足を縛られ、輿に担ぎ上げられ、山道をのろのろと供物とともに登っていく。
あまり、良い人生ではなかった。振り返ると、やはりそう思ってしまう。痩せた土地は、作物が育たず、何時も何時も飢えていた。兄妹もなく、親は彼女を育てることを放棄した。だから今、巫女として輿に乗っているのだ。
むけど、本当に神がいて、この体が、力になるというのなら、今、この死は意味のないものではない。誇れるとまでは言わないが、この後に生まれてくる者達が少しでも飢えなければいいのにと、彼女は静かに願った。
放って置いても、飢えて死ぬだけだったのだ。それならば、少しでも。
「ばっかだな」
必死に綺麗事を並べて、自分を誤魔化そうとしてみたところで、本質は皆一緒なのだ。
「死にたくない。死にたくない」
山の火口に近づき、汗ばむほどの熱さになるにつれて、かたかたと体が震える。
死は痛いだろうか。死は苦しいだろうか。
「死にたくない」
閉じ込められた輿という名の箱の中で、彼女は藻掻く。
「死にたくないっ」
辿り着いたらしく、足が止まったのを感じ、彼女は絶叫していた。
「いやだ。いやだっ。私はまだ死にたくないっ」
けれど、そんな彼女の声など聞こえないとばかりに、輿はそのまま火口に向かって投げ出された。
一瞬の無重力の後の落下。
死ぬんだと、彼女は絶望とともに落ちていった。
「すまない」
静かな静かな声が、そう言った。
どれくらい意識を失っていたのだろう。いや、死んだはずだと思いだし、彼女は慌てて体を起こす。
ふわりとした手応えのない感覚。声は聞こえるのにその人の姿は見えない。
「私に力がないばかりに、すまない」
そう言われて、やっと彼女は理解する。この人が神様なのだ。なんだか思っていたよりもずっと情けなくて頼りなくて。
「謝るより、力付けてください。私、もう死にたくないから」
こんな風に、神に捧げられるために死ぬのはいやだ。
「す、いや、分かった」
神様は、彼女にそう言うと、立ち上がったように感じた。
「おいで」
厳かな声が、彼女に掛けられる。その声に呼ばれ、彼女はその場所まで移動すると、巫女装束の自分が横たわっていた。
「え?」
火口に投げられたのだ。燃え尽きているだろうと思っていたのに、その体には傷一つ残っていなかった。
「人が人を供物にするのは、人の魂の力が高いからだ。けれど、魂を丸ごと取らずとも、力を蓄えることが出来る」
悲しそうに神様は言う。
神様は、世界を愛しているだけじゃない。世界の上に生きているものも全て愛している。だったら、自分のせいで命を摘まれるものを見ていることは、どれほど苦痛だったろう。神様も苦しんでいたのだと、それを感じて、彼女はほんの少しだけ心が軽くなった。
「お前には、今一度この体に戻り、世界から、力を私に寄越してはくれないか?」
いやだと言えば、きっとこのまま形をなくして、生まれ変わるのだろう。神様は、決してこうしろとは言わなかった。選ぶのは彼女だからと。
「良いですよ」
あっさりとした了承の言葉に、神様は慌てたように付け加えた。
「この体は死体だ。決して生き返ることはない。動いていられるのは、私の力の及ぶ場所のみ。生きているように見えるだけで、死んでいることには変わりない。まして、お前の魂の持つ力は、私が全て吸収してしまった」
今ここにあるのは、彼女の意識だけなのだと、神様は言う。
全てを奪った上に、まだ奪うことを恨んで良いのだと神様は言う。
「恨んでないって言ったら嘘かも知れないけど。それでも、あの世界に戻れるのは嬉しいよ。私バカだから、きっと、神様が心配してるところとか分かってないんだと思うけど。嬉しいよ」
柔らかに神様は笑う。いつの間に神様は姿が出来たのだろうと、ほんの少しだけ彼女は不思議に思ったけれど、神様なのだから、そんな不思議があっても良いのだろうとそう思い、彼女も笑った。
「ありがとう」
「それは私たちの言葉だよ。世界を愛してくれてありがとう。私たちを愛してくれてありがとう。優しい優しい神様」
「まあ、はじまりは何時だって、語ればそれ相応の感動じみたものを呼び起こすものですよね」
冷めた瞳で、巫女は言う。
「四百年も生きると擦れるものだな」
寂しげな神の声に、巫女は笑う。
「それでも私はあなたとともにありますよ」
この体が無くなって、この意識が摺り切れて、自分の全てが無くなってしまうその時までと、巫女は笑って言った。
「一人でないことが嬉しいだけだと言ったら、怒るか?」
そのために巫女を巫女にしたのだと、神ははじめて言葉にする。
一人は寂しいのだ。愛しくてたまらないこの世界で、孤独だったのだと。
「そんなこと、誰だって当たり前ですよ」
ぶっきらぼうな巫女の言葉に、神は柔らかに笑う。
共にあって欲しいと選んだのは神だけれど、共にあることを選んでくれたのは彼女。
一人だった世界に、輩を。