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本編44と45のあいだのお話です
誰もいない部屋に帰って来るのは久しぶりだ。
お嬢はさっき王都でばったりとあってしまったシオンに預けてしまったから。
「ふー」
蛇口から水を出してカップについでゴクリッと喉をひとつ鳴らして勢いよく飲む。
本当だったら酒を飲みたいところだが、お嬢が帰ってきて飲んだのがばれたら叩かれる。シオンはモキュッとしてて可愛いなどと言っているが、あの尻尾は充分に凶器だ。身体が小さいから当たり所が悪いだけなのかもしれないが、叩かれると三十分は何もする気が起きなくなる。ひたすら叩かれたところを抑えつけるはめになるから。
「気付かれないのも少し寂しい気もするな」
家の中に唯一ある鏡の前に立って眼帯を外す。
右目の色は紫紺。初めてシオンに会ったときに自分の名前の漢字っていうのと同じ色だとか言っていたけど、未だに良くわからない。
怪我をしたといって、ここ数年絶対に外さなかった眼帯のその下に見えるのは紅。
「あんなに一緒に遊んでたってのによ」
**
「お兄様!」
それは外から聞こえてくる声で、読んでいる本から頭をあげて外を見ると私をそう呼んだだろう子どもの姿が目に入る。
「ああ、カルス。今日は来て大丈夫なのですか?」
王宮の今いる名もなき園から出ることの叶わない自分のために弟はよくこの場所に来る。
父に連れられた弟を初めて見た時は、あまりに自分と似てないと思ってびっくりしたが、母が違うのだからしょうがない。
読んでいた本にしおりを挟んで庭の窓から入ってこようとする弟の両脇に手を差し込んで部屋の中にいれてやると、無邪気にもニコニコと微笑んでいる私の義弟。
「今日はね、お母様がお出かけになってるから」
そう言っては何もないと言っても過言ではないこの部屋を楽しそうに駆けまわる。
「そうですか」
「だから、お兄様、遊んでください」
駆けまわっていたと思ったら急に私の膝の上にひょいっと上って、下から上目づかいで見てくる。
ここにカルスが来るまで私は自分以外の子どもを見たことがなかった。
縦横無尽に理解不能な行動を繰り返すということも、握った手がこんなにもぷにぷにとしていることも本では知っていたが、本当のことだとは思わなかった。
「良いですけど、この部屋には本当に何もないんですよ?」
「やった~!!」
両手をあげて喜ぶカルスに「なにもない」という言葉が聞こえているかは定かではない。
「今日は、おにごっ…」
そこまでいってカルスは口をつぐむ。
建物の中しか出歩くことが出来ない私に外での遊びは提案してはいけないと思ったのだろう。この名もない園は規模自体は大きいものの、私以外にも庶子とされた子どもが数人。会わないようにと父王の配慮だということで、その場所は完璧に区切られ声すらも届かない。
「おにごっこでいいですよ。ただし、そんなに激しくし遊ばないでください」
父によって送られてくる本が所狭しと積まれていて、下手に触ると雪崩の様に崩れ出す。
おにごっこなどという遊びはカルスが来てから初めて知った。それまでの私の一日はただひたすらに本を読むこと。
その日常にこうして義弟のカルスが加わり、次いで婚約者だというアーリアが入って来る――。
**
「口調は変わってたとしても、髪の色も右の目もかわってねぇぞ」
――今日は何にもする気なくなっちまったかも。
「すいませーん」
ドンドンッと扉の叩かれる音とともに聞こえてくる声。
「っ!今行くからちょっとまってろ」
もう一生他人に見せることはないだろう左目をもう一度眼帯の奥に隠して、扉を開けると、自分と良く似たモノを持っている子ども。
「お久しぶりです。明日シオンがここにくるらしくって、ルークから話をしろって言われて来たんです。」
「ん~」
「お邪魔していいですか」
「いいよ」
それだけ言うと、一つお辞儀をして「おじゃまします」と丁寧に入ってくる。
「それに、個人的にも色々と積もる話もありますし」
「俺にはないけどな…」
俺は今、リチャード・デイルというただのファクリスだ。
「父に聞いたんですよ。貴方が、カルスの義兄であると…その眼帯の下の瞳は紅いんでしょう?」
「さぁ、俺はお前の親父さんなんて知らないからな」
確かに俺にこの職業進めてくれたのじいさんだし、名前もその時貰ったから知ってて当然なんだけど、今利用されたくはないんだけどな。
「ま、今回はラディスラス・ディル=フィリスト・スタンフォード・ルカディアに用があって来たんです」
「そうか…」
カルスの母、先王の王妃様がお亡くなりになってから新たに父から貰った名前。それまでは、ラディスラス・ディルというだけだったのに国名と、父の姓。そして、紅い瞳のオッドアイの者にだけ受け継がれる名前が入ってやたらと長くなった名前。
「その話は明日シオンが帰ったら聞く」
今日は何もするつもりはないんだから
「そのつもりですよ」
「あっ…お前の寝る場所ないからソファーだぞ、サリエ」
一生聞かないと思っていた名前を堂々と言ってくれたお礼だ。
これぐらいのいじわるは許してくれよ。