第9話:あなたがいなくなってから、崩れ始めた
「……数値が合いません」
低く抑えた声が、執務室に響いた。
王宮財務局。
その一室で、数人の文官が書類を囲んでいる。
机の上には、報告書が積み上げられていた。
農業生産。
流通。
税収予測。
どれも、日常的に処理されるはずのもの。
それなのに。
「昨日の報告と、今日の数値が一致しないのです」
「誤差の範囲ではないのか?」
「いえ……誤差というには、大きすぎます」
紙をめくる音。
ペン先が机を叩く音。
落ち着かない空気が、部屋を満たしていた。
「風の影響だという報告は上がっている」
「ですが、それだけでここまで変動するとは……」
議論は平行線をたどる。
原因が、分からない。
説明が、つかない。
それが、何よりも不安を煽っていた。
そのとき。
扉が開く。
「……何が起きている」
低い声。
全員が振り返る。
そこに立っていたのは。
王太子、アルトリウスだった。
「で、殿下!」
文官たちが慌てて立ち上がる。
彼は一瞥し、机へと歩み寄る。
積まれた書類に目を通す。
眉が、わずかに寄る。
「……説明しろ」
短く、命じる。
文官のひとりが前に出る。
「は、はい。現在、各地で風の乱れによる影響が報告されておりまして……」
「それは聞いている」
言葉を遮る。
「問題は、その程度ではないはずだ」
鋭い指摘。
部屋の空気が一段と張り詰める。
「……はい。実際には、風だけでは説明のつかない数値のズレが発生しております」
「ズレ?」
「生産量、流通速度、さらには人員配置の効率に至るまで……すべてが、わずかに噛み合っておりません」
アルトリウスは黙って聞いている。
だが、その目は明らかに苛立っていた。
「具体的には」
「はい。例えば、本来であれば同時に処理されるべき案件が、微妙に遅れたり、重複したりと……」
文官は言葉を探す。
うまく説明できない。
それも当然だ。
これは。
“目に見えないズレ”なのだから。
「……まるで」
別の文官が、ぽつりと呟く。
「歯車が、少しずつ噛み合わなくなっているような」
沈黙。
誰も否定しない。
それが、最も的確な表現だったからだ。
アルトリウスは、ゆっくりと顔を上げる。
そして。
ひとつの名を、思い浮かべていた。
──リシェル。
完璧に整えられた調整役。
表に出ることは少なかったが。
裏では常に、全体を見ていた。
流れを整え。
無駄を削り。
最適な配置を維持していた存在。
それが。
いなくなった。
「……関係ない」
小さく、呟く。
誰に聞かせるでもない言葉。
だが。
その声には、わずかな迷いがあった。
「殿下?」
文官が不安げに問いかける。
アルトリウスはすぐに表情を戻した。
「聖女はどうしている」
「現在、加護の再調整を……」
「ならば問題ない」
言い切る。
その言葉に、文官たちは安堵したように頷く。
だが。
ひとりだけ。
別の視点を持つ者がいた。
老齢の書記官。
長年、王宮に仕えてきた男。
彼は静かに、書類を見つめていた。
そして。
ぽつりと、呟く。
「……調整、ですか」
誰も、その言葉に気づかない。
あるいは、気づいても、無視した。
アルトリウスは踵を返す。
「原因を特定しろ。報告は逐一上げるように」
「はっ!」
返事を背に、部屋を出る。
廊下を歩く。
足音が、やけに大きく響く。
思考が、まとまらない。
違和感が、残る。
だが。
それを認めるわけにはいかない。
自分の選択は、正しい。
そうでなければならない。
そうでなければ。
──あのときの決断が、間違いだったことになる。
「……ありえない」
低く、吐き捨てる。
だが。
その言葉は。
自分自身に向けられているようでもあった。
その頃。
王宮の外では。
ゆっくりと。
確実に。
歪みが、広がっていた。
誰にも止められないまま。
第9話まで読んでいただきありがとうございます。
ここで初めて「主人公不在の影響」を
王宮側から明確に描きました。
“風”だけではなく、
国全体の流れがズレ始めていることが見えてきたと思います。
また、元婚約者も「ただの愚か者」ではなく、
自分の選択を信じている側として描いています。
ここからさらに物語は大きく動いていきますので、
続きが気になったらぜひブックマークしていただけると嬉しいです。




