第7話:それでも私は、できることをする
出立の準備は整っていた。
馬車はすでに中庭に用意され、最低限の荷物も積み込まれている。
護衛も、数は少ないが選び抜かれた者たちだ。
すべてが、静かに、速やかに進んでいた。
本来であれば、ありえない速度。
けれど今の私は、“急いで消えるべき存在”なのだろう。
「リシェル様、いつでも出発できます」
ミリアが告げる。
私は小さく頷き、歩き出す。
この場所を去る。
その事実は、もう受け入れている。
未練は、ない。
……そう思っていた。
だが。
中庭へと出た瞬間、空気が変わった。
ざわめき。
張り詰めた緊張。
人の声が、どこか切迫している。
「……何かあったの?」
私が問うよりも早く、ひとりの騎士が駆け寄ってきた。
「リシェル様!」
見覚えのある顔。
王宮警備の副隊長だ。
「失礼いたします、今しがた、南門付近で──」
言いかけて、言葉を切る。
視線が、わずかに揺れる。
躊躇。
それはつまり、私に報告すべきか迷っているということだ。
当然だろう。
私はもう、王妃候補ではない。
報告の対象ではない。
「構いません。続けて」
私は淡々と促す。
彼は一瞬迷った後、意を決したように口を開いた。
「南門付近で、突風が発生しました」
「……突風?」
「はい。ですが、ただの風ではありません」
騎士の表情が、明らかに強張る。
「風の流れが、不規則すぎるのです。渦を巻き、突然止まり、また逆方向へと吹き出す」
私は目を細める。
やはり。
症状が、進行している。
「負傷者は?」
「軽傷が数名。ですが、このままでは被害が拡大する可能性が」
「聖女様は?」
「すでに呼び出されています」
その言葉に、私はわずかに息を吐いた。
間に合わない。
おそらく。
彼女では。
この現象の“原因”に触れられない。
だから。
対処もできない。
私は、視線を上げる。
空は、わずかに歪んでいる。
昨日よりも、確実に強く。
広く。
広がっている。
そして。
その歪みの流れが。
南門方向へと収束していることに気づく。
「……行くわ」
「え?」
ミリアが驚いた声を上げる。
騎士も同様だ。
「ですが、リシェル様はもう──」
「ええ、そうね」
私は、静かに頷く。
私はもう、この国の“役職者”ではない。
命令権も、責任もない。
だから。
行く必要は、ない。
関わる理由も、ない。
それでも。
私は、一歩踏み出した。
「それでも、できることがあるなら」
それだけを、言う。
理由は、それで十分だった。
騎士は一瞬だけ言葉を失い、すぐに道を開けた。
「……ご案内いたします」
私たちは、急ぎ足で南門へと向かう。
廊下を抜け、外へ出る。
空気が、明らかに違う。
重く、乱れている。
風が、一定しない。
肌に当たる流れが、方向を持たない。
そして。
南門が見えた瞬間。
それは、はっきりと“異常”だった。
風が、渦を巻いている。
目に見えるほどの密度で。
砂塵が巻き上がり、空気がねじれている。
人々が距離を取り、騎士たちが必死に制御しようとしている。
だが。
抑えられていない。
「……これは」
ミリアが息を呑む。
無理もない。
自然現象ではない。
魔術でも、ここまで不安定にはならない。
これは。
“流れそのもの”が壊れている。
私は、ゆっくりと歩み寄る。
「危険です!」
騎士が止めようとする。
だが。
「大丈夫」
私は短く答える。
根拠はない。
けれど。
分かる。
この異常は。
私に、関係している。
だから。
私には、触れられる。
そう確信していた。
渦の中心へと、手を伸ばす。
風が、暴れる。
衣服が揺れ、髪が乱れる。
それでも、私は手を引かない。
指先が、空気に触れる。
その瞬間。
──違和感。
流れが、ない。
あるべき方向が、失われている。
だから、暴れている。
なら。
やることは、ひとつ。
私は、ゆっくりと息を吸う。
そして。
“思い出す”。
かつて教えられた感覚。
王と王妃の“循環”。
流れを整えるということ。
それを。
そのまま。
なぞる。
指先で、空気の“向き”を示すように。
わずかに。
本当に、わずかに。
整える。
その瞬間。
風が。
止まった。
完全ではない。
だが。
確かに。
一瞬だけ。
渦が、消えた。
「……っ!」
周囲が、息を呑む。
次の瞬間、風は再び乱れ始める。
だが。
先ほどまでの暴走ではない。
明らかに、弱まっている。
「今のは……」
騎士が呆然と呟く。
私は、ゆっくりと手を下ろす。
理解した。
確信した。
これは。
私にしか、できない。
完全には、無理だ。
今の私では。
だが。
“触れること”はできる。
整えることも、少しなら。
「……やはり」
小さく、呟く。
すべてが、繋がる。
婚約破棄。
加護の不安定。
空の歪み。
そして、この風。
原因は、ひとつ。
私は、静かに振り返る。
ミリアと、騎士たちが、信じられないものを見るような目でこちらを見ている。
当然だ。
彼らにとって、私はもう。
“役目を終えた存在”なのだから。
それなのに。
「……リシェル様」
ミリアが、かすかに震える声で呼ぶ。
私は、少しだけ考えて。
そして。
言葉を選ぶ。
「これは、偶然ではないわ」
はっきりと。
告げる。
「そして……」
一度、言葉を切る。
視線を、空へ向ける。
歪んだ空。
崩れかけた流れ。
それを見つめながら。
「このままでは、止まらない」
静かに、断言する。
それは、予測ではない。
確信だった。
第7話まで読んでいただきありがとうございます。
ここでようやく、
「主人公にしかできないこと」が少しだけ見えてきました。
ただ強いのではなく、
“この世界の仕組みに触れてしまっている存在”として描いています。
次の話では、
この行動が周囲にどう見えるのか、
そして主人公自身の内面にどう影響するのかを描いていきます。
もし少しでも続きが気になったら、
ブックマークしていただけるととても嬉しいです。




