第6話:王都の空が、歪む
出立の準備は、驚くほど静かに進んでいた。
本来であれば、王妃候補の移動には多くの人手がかかる。
護衛、侍女、馬車、物資。
だが今回は違う。
最小限。
必要最低限の人員と荷物だけ。
それが、今の私の“価値”を示しているようだった。
「リシェル様、こちらの確認を」
ミリアが書類を差し出す。
私は受け取り、目を通す。
辺境領への移動経路。
宿泊予定地。
同行者の名簿。
どれも、問題はない。
完璧に整えられている。
それが逆に、現実味を帯びていた。
──私は、本当にここを去るのだ。
「問題ありません」
そう言って書類を返す。
そのとき。
外が、ざわついた。
最初は小さな気配だった。
けれど、それはすぐに広がる。
人の声。
足音。
何かを見上げるような、ざわめき。
「……何かしら」
私は視線を上げる。
ミリアも同じ方向を見る。
「確認してまいります」
「いいえ」
私は首を振る。
「一緒に行きましょう」
そのまま部屋を出る。
廊下を進む。
すでに数人の侍女や従者が、同じ方向へ向かっていた。
不安げな顔。
落ち着かない足取り。
そして。
誰もが、上を気にしている。
中庭へと出る。
そこには、すでに人だかりができていた。
皆、空を見上げている。
私も、視線を上げる。
そして。
息を、止めた。
空が。
歪んでいた。
青いはずの空が、ところどころで揺らいでいる。
まるで、水面のように。
波打つように。
光が、歪む。
景色が、わずかにずれる。
「……これは」
誰かが、呟く。
驚きと、恐れが混ざった声。
当然だ。
こんな現象は、見たことがない。
自然ではありえない。
魔術でも、説明がつかない。
これは。
もっと根本的な。
世界の“基盤”に関わる異常。
「聖女様をお呼びしろ!」
誰かが叫ぶ。
すぐに数人が駆け出す。
混乱が広がる。
だが。
私は動かなかった。
ただ、空を見つめていた。
理解していたからだ。
これは。
“症状”だ。
原因ではない。
そして。
原因は、すでに知っている。
私は、静かに目を細める。
歪みは、ゆっくりと広がっている。
まだ、小さい。
けれど。
確実に、拡大している。
このまま放置すれば。
どうなるか。
想像は、容易だった。
「……リシェル様」
ミリアの声が、わずかに震えている。
「これは、一体……」
「まだ、分からないわ」
私はそう答える。
事実としては、そうだ。
確定ではない。
だが。
ほぼ、間違いない。
私は一歩、前に出る。
空を見上げたまま。
その歪みを、目で追う。
そして。
気づく。
歪みの中心。
その位置に。
微かに。
“何もない場所”があることに。
空白。
そこだけ、色も、光も。
わずかに、欠けている。
「……欠けている」
思わず、呟く。
それは。
あまりにも。
私自身の感覚と、似ていた。
胸の奥にある、空洞。
失われた、何か。
それと。
同じ。
「……そういうこと」
理解が、確信に変わる。
私は、ゆっくりと息を吐く。
もう、迷いはない。
これは。
偶然ではない。
そして。
聖女では、止められない。
なぜなら。
彼女は。
この“欠けた部分”を、知らないから。
「ミリア」
「はい」
「予定通りではなく、今すぐ出発します」
はっきりと、言う。
迷いはない。
「ですが、まだ準備が──」
「問題ないわ」
私は遮る。
「ここにいても、何もできない」
それは事実だった。
今の私は。
この場所では、何の役割も持たない。
だが。
だからこそ。
外に出る必要がある。
この異常を。
正しく理解するために。
「……承知いたしました」
ミリアは深く一礼する。
周囲では、まだ混乱が続いている。
誰もが空を見上げ、原因を求めている。
けれど。
その答えは。
ここにはない。
私は、最後にもう一度だけ空を見上げる。
歪んだ空。
欠けた世界。
それはまるで。
今のこの国そのもののようだった。
「……これは、偶然じゃない」
小さく、呟く。
誰にも聞こえない声。
けれど。
その言葉は、確かな重みを持っていた。
これは。
始まりだ。
静かに進行する。
崩壊の。
第6話まで読んでいただきありがとうございます。
ここで「異常が可視化」され、
“偶然ではない”ことがはっきりしてきました。
第1章前半の山はここで一区切りになります。
次の3話では、
・主人公の能力の片鱗
・周囲とのズレ
・「なぜ主人公だけが気づけるのか」
が描かれていきます。
ここまで読んで少しでも気になっていただけたら、
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