第九話: 視線を逸らすな
そこは、だだっ広い巨大な空間だった。
俺の頭上、はるか高い天井からは、無数のダウンライトが、床を白々しく照らし出している。視線を上げれば、何階にもわたって吹き抜けになっており、その両脇には、銀色に輝く手すりを備えたエスカレーターが、上階へと続いている。今は誰も乗せていないそのエスカレーターは、ゆっくりと、しかし確かに動き続けていた。
正面には、大きなガラス張りの自動ドアが見える。その向こうは、やはり真っ暗で外の様子はうかがえない。だが、ガラス自体は磨き上げられており、ひび一つなかった。
どこからともなく流れてくる、気の抜けたメロディ。一定の温度に保たれた、乾いた空気。
ただただ、人の気配だけが、きれいさっぱりと抜け落ちていた。
「……どこだ、ここは」
セレスが、警戒を解かないまま、低い声で言った。彼女の声が、静かな空間に妙に大きく反響する。
「魔法……か?空気がひとりでに流れ、奇妙な調べが鳴り続けている。もしや、これは何かの罠か……!」
「……デパート、だな」
俺は、呟いていた。
そうだ。この光景には、見覚えがあった。いや、実際にこの場所に来たことはない。断じてない。
だが、俺は、この場所を知っていた。
子供の頃、親に手を引かれて連れてこられた、地元のでっかい商業施設。少し古臭い、クリーム色がかった壁の色。床にワックスが効きすぎている感じ。どこまでも続く、当たり障りのないBGM。それら全てが、俺の記憶の中にある『懐かしいショッピングモール』のイメージ、そのものだった。
まるで、俺の頭の中から設計図を抜き出して、そのまま建ててしまったかのようだ。
ただ、一つだけ、決定的に違うことがある。
人が、一人もいない。
無人なのだ。
「でぱーと? リュウイチ、それは何だ」
「ああ……。色んな店が集まった、でっかい建物だよ。服を売ったり、食い物を売ったり……」
説明しながらも、俺の視線は落ち着きなく周囲をさまよっていた。
おかしい。何もかもがおかしい。廃墟なら、まだ理解できた。だが、ここは違う。
照明は煌々と輝き、空調は完璧に作動し、BGMは途切れることなく流れ続けている。床には埃一つ落ちていない。まるで、数分前まで、ここで大勢の客が買い物を楽しんでいたかのような、完璧な『日常』の空間。
だというのに、生命の気配だけが、完全に消え失せている。
「かなりの光でありますが、炎の熱を感じません。もちろん、これは魔法ではない……。この建物全体が、一つの巨大な遺物なのでしょうか」
リフィが、天井の照明を見上げながら、いつも通りの冷静な分析を口にする。彼女のその動じなさが、今はひどく頼もしかった。
「遺物、ねえ……。俺にとっては、見慣れた光景なんだけどな」
俺たちは、警戒しながら、ゆっくりとホールの中央へと足を進めた。一歩進むごとに、俺たちの足音が、オルゴールのメロディに重なって、カツン、カツン、と場違いに響く。
その時だった。
俺は、見てしまった。
いや、最初から、そこにあったのだ。ただ、この空間のあまりの広大さと、非現実的な清潔さに、俺の意識がそこに向いていなかっただけで。
ホールの、ちょうど真ん中あたり。
ぽつんと、一体だけ。
白い、つるりとした材質でできた、一体のマネキンが、こちらに背を向けて立っていた。
「……なんだ、あれは」
セレスが、俺の視線に気づき、訝しげに呟いた。
マネキン。元の世界では、見慣れたものだった。だが、この、完璧に維持された無人の空間の中で、それだけが、まるで異物のように、そこにあった。
それは、ごく一般的な、女性の形をしていた。だが、そのポーズが、どこかおかしい。右腕を不自然な角度に曲げ、左足だけを妙に高く上げている。まるで、前衛的なダンスの、一番盛り上がる瞬間で停止したかのようだった。
「装飾品……でしょうか。それにしては、随分と趣味の悪い場所に置いてあるものですね」
リフィが、感情のこもらない声で言う。
俺は、なぜか、そのマネキンから目が離せなかった。言いようのない、ざらりとした感覚が、背筋を撫でていく。
風邪のひき始めみたいな、嫌な予感がする。
「はは、なんだよ。俺たちを出迎えてくれてるのか? 随分とアーティスティックな歓迎だな」
俺は、努めて軽く、冗談めかして言った。
そうとでも言ってないと、本当に気が狂いそうだったからだ。
「ふん。下らんことを言っている暇があるなら、とっとと食料を探すぞ。わたしは右翼側の商店を調べる。リフィは左翼側を頼む。リュウイチ、お前は……」
「……」
「おい、聞いているのか、リュウイチ!」
セレスの咎めるような声で、俺ははっと我に返った。
いかんいかん。たかがマネキン一体に、何をそんなに意識を奪われているんだ、俺は。
「あ、ああ、悪い。分かってるって。じゃあ俺は、この中央ホールを……」
俺が、セレスの方へ向き直り、そう言いかけた、ほんの一瞬。
本当に、ただ、視線をマネキンから外し、セレスの顔を見た、コンマ数秒のこと。
――ズズッ。
オルゴールのBGMを突き破って、その音は、鼓膜を直接、爪で引っ掻かれたかのように、鋭く、そして不快に突き刺さった。
硬くて重い何かを、磨かれた床の上で、無理やり引きずったような音。
「……! 今の音はなんだ!?」
セレスが、即座に反応し、剣の柄に手をかけた。
リフィも、ライフルの銃口を、音のしたであろう方向へと向ける。
俺は。
俺は、何も言えなかった。
分かってしまったからだ。
今、何が起きたのかを。
俺は、ゆっくりとマネキンがあった方を見直した。
「……あ……」
乾いた、カラスの鳴き声みたいな声が、喉から漏れた。
マネキンは、そこにいた。
相変わらず、こちらに背を向けて。
相変わらず、あの前衛的なダンスのポーズのままで。
だが。
場所が、違った。
さっきまで、俺たちから、少なくとも十数メートルは離れていたはずだ。
それがどうだろう。
今や、五メートル、いや、もっと近いかもしれない。
俺たちが、ほんの一瞬、目を離した、ただそれだけで。
マネキンは、音もなく、その距離を詰めていたのだ。
「……おい、リュウイチ。どうした。なぜ、黙っている」
セレスの、いぶかしむような声が、遠くに聞こえる。
俺の頭の中は、今、それどころではなかった。
真っ白になった思考の中で、無数の情報が、猛烈な勢いでスパークしている。
そうだ。
こういうのが、あった。
俺が、元の世界で、寝る間も惜しんで読みふけっていた、あの匿名の電子掲示板に投稿されていた、怖い話。
あるいは、世界中で大ヒットした、あの有名なフリーゲーム。
ルールがあったはずだ。
この手の動く彫像系の怪異における、絶対のルール。
破れば、即死。
最悪の、たった一つのルールが。
「……リュウイチさん? 顔が、真っ青ですよ」
リフィの心配そうな声すら、今の俺には届かない。
脳が、答えを弾き出していた。
思い出したくもなかった、最悪の禁忌。
俺は、ほとんど痙攣するように、口を開いた。
「……だめだ」
「は? 何がだめだと言うんだ」
「見るな、じゃない……。逆だ……。見続けろ……!」
「リュウイチ? 何を訳の分からんことを……」
セレスの言葉を、俺の絶叫が遮った。
「視線を逸らすなッ! 絶対に、あのマネキンから、目を離すな!瞬きもするなァッ!!」
俺の、半狂乱の叫び声だけが、気の抜けたオルゴールのBGMが流れる商業施設に、空しくこだましていた。
セレスとリフィは、何が起きたのか理解できないといった顔で、俺とマネキンを交互に見ている。
そして、その間にも。
白いマネキンは、ただ、静かに。
俺たちの返事を待つかのように。
そこに、立っていた。
さっきよりも、ほんの少しだけ、俺たちに近づいて。




