第八話: 終点、あるいは新たな地獄の入り口
さっきまで、扉の向こうの車両から絶え間なく聞こえていた、あの、ジー……という蛍光灯から聞こえるようなノイズ音すらも、完全に消え去っている。それだけじゃない。この電車をこの電車たらしめていた、あの無機質で単調な走行音。
ガタン、ゴトン、という、あの音すらも、どこにも聞こえなくなっていた。
電車は、止まっている?
いや、違う。窓の外の闇は、相変わらず流れて……いない。まるで、窓にこびりついたドロドロの個体みたいに、闇はただそこにあるだけだ。
俺たちの乗ったこの鉄の塊は、今、音という概念を完全に喪失していた。まるで、真空の宇宙を、ただ惰性だけで進んでいるかのような、絶対的な無音。気持ちの悪い浮遊感が、全身を包み込む。
「……音が、ない?」
セレスが、信じられないといった様子で呟いた。リフィは無言でライフルを構え直し、その銃口をゆっくりと扉の方へ向けている。
この異常な静寂が、次なる地獄への前触れであることだけは、嫌でも分かった。俺はゴクリと唾を飲み込み、次の異変がいつ、どこから襲ってくるのかと、全身の神経を針のように尖らせた。
その時は、本当に、唐突にやってきた。
――キイイイイイイイイイイイイイイイイイイイイイイイイッ!
「うわあああっ!?」
「な、なんだ!?」
耳を突き破るような、けたたましい金属の摩擦音。それは、黒板を爪で引っ掻く音を、巨大なスピーカーで何百倍にも増幅させたかのような、耐え難い絶叫だった。無音からの急転直下。鼓膜が破れるかと思った。
それと同時に、今まで感じなかったはずの慣性が、暴力的に俺たちの体を襲った。
ガッコン! と、腹の底から突き上げるような衝撃。
「きゃあっ!」
「ぐっ……!」
俺たちはなすすべもなく、床に叩きつけられた。俺は咄嗟に頭を庇い、セレスはリフィを庇うように覆いかぶさる。車体が大きく軋み、連結部分が悲鳴を上げる。何かに衝突でもしたのか? いや、これは、急ブレーキだ。ありったけの力で、無理やりこの鉄の化け物を止めようとしている。
数秒にも、数分にも感じられた金切り音が、やがて、ブツリと途切れた。
ガタン、と最後にもう一度だけ大きく揺れて、電車は完全に動きを止めた。
そして、再び、しん、とした静寂が戻ってくる。
今度の静寂は、さっきまでの無音とは違う。そこには、はっきりとした『停止』の意思があった。
「……い、ててて……。二人とも、大丈夫か?」
俺は、打ち付けた尻をさすりながら、なんとか上半身を起こした。
「ああ、なんとか……。リフィ、怪我はないか?」
「問題ありません。ですが、今のは……尋常ではありませんでした」
リフィが冷静に答える。彼女は体勢を崩しながらも、ライフルだけはしっかりと握りしめていた。
俺たちは、互いの無事を確認し合うと、ゆっくりと立ち上がった。
「……着いた、のか?」
俺が、誰に言うでもなく呟いた。
「終点、というわけか。だが、どこに」
セレスが、警戒を解かないまま、窓の外に視線を向けた。俺とリフィも、それに倣って、汚れた窓ガラスに顔を近づける。
そして、俺たちは、言葉を失った。
「……うそ、だろ……」
喉から、乾ききった声が漏れた。
窓の外に広がっていたのは、未知の風景ではなかった。
古びたホーム。錆びついた鉄のフェンス。その向こうに広がる、絶対的な闇。ぽつんと立つ、小さな木造の待合室。
そして。
ホームの端で、ぼんやりとした照明に照らされている、あの青い鉄板の駅名標。
「……きさらぎ、えき……?」
リフィが、俺の言葉をなぞるように、静かに呟いた。
そうだ。間違いなかった。そこは、俺たちが命からがら乗り込んできた、あの忌まわしい『きさらぎ駅』だった。寸分違わぬ、悪夢のスタート地点。
「な……! どういうことだ! 我々は、あの場所から離れたはずだろう!?」
セレスが、怒りと混乱の入り混じった声で叫んだ。
「ただ、闇の中をぐるっと一周して、戻ってきただけだってのか……? そんな馬鹿な話があるかよ!」
俺も、目の前の光景が信じられなかった。あれだけの時間をかけて、闇の中を走り続けた結果が、これか? すごろくで『ふりだしにもどる』のマスに止まった時みたいな、最悪の気分だった。いや、もっと悪い。賽を振る権利すら、こっちにはないんだから。
俺たちは、呆然と、見慣れてしまった絶望の風景を眺めることしかできなかった。
◇
どれくらいの時間が経ったのか。
電車は、ぴくりとも動かなかった。扉が開く気配も、発車を告げるアナウンスが流れる気配も、まったくない。前の車両にいたはずの、あの顔がノイズの乗客たちの気配も、今はもう感じられなかった。まるで、運転手も乗客も、この電車のことなんか忘れて、どこかへ消えてしまったみたいだった。
俺たちは、再びボックス席に、今度はもっと深く、力なく体を沈めていた。
「……どうする。このまま、ここで夜が明けるのを待つか?」
沈黙を破ったのは、セレスだった。その声には、すっかり疲労の色が浮かんでいる。
「冗談だろ。また、あの片足野郎と睨めっこなんて、ごめんだぜ。こっちの精神が持たねえよ」
「では、どうしろと? このまま、この鉄の棺桶の中で、助けを待てとでも言うのか? 来るはずもない助けを」
「……」
セレスの言う通りだった。このままここにいても、状況は悪くなる一方だろう。食料も、リフィが持っていたレーションの残りがわずかにあるだけだ。
「……一つ、気になることがあります」
それまで黙って窓の外を観察していたリフィが、静かに口を開いた。
「なんだ、リフィ?」
「あの駅、本当に、私たちがいた場所と『同じ』でしょうか」
「同じに見えるけどな。あの忌々しい駅名標も、ベンチも、そのまんまじゃないか」
「いいえ。よく見てください。ホームの、私たちが座っていたベンチの上です」
リフィに促され、俺はもう一度、目を凝らしてベンチを見た。
そして、気づいた。
「……ない」
「何がだ、リュウイチ?」
「俺たちが食った、レーションの包み紙が……ない」
そうだ。俺たちは、あのベンチで、リフィのレーションを分け合って食べた。その時、空になった銀色の包み紙を、置きっぱなしにしてきてしまったはずなのだ。だが、今、窓から見えるベンチの上には、何もない。まるで、最初から誰もいなかったかのように、綺麗さっぱりとしていた。
「……つまり、ここは、我々がいた駅と、限りなく似ているが、全く同じ場所ではない、ということか?」
「その可能性が高いと、私は判断します。一種の複製、あるいは再現された空間……」
リフィの冷静な分析が、俺の背筋に冷たいものを走らせた。同じだけど、違う場所。じゃあ、俺たちがいたあの駅はどこへ行ったんだ? この電車は、俺たちをどこに連れてきたんだ?
考えれば考えるほど、頭がぐちゃぐちゃになりそうだった。
「……もう、いい」
俺は、頭をガシガシと掻きながら、立ち上がった。
「何がいいんだ」
「考えてても、答えなんか出ねえよ、こんな世界で!一つだけ確かなことがある。このまま、この電車の中にいても、俺たちは飢え死にするだけだ!だったら……」
俺は、車両の扉の方へ歩いて行った。
「行くしかねえだろ。あの、クソみたいな駅に、もう一度」
「正気か、リュウイチ! あれほど危険な場所だと分かっていながら、自ら戻ろうというのか!」
「ああ、正気じゃねえかもな。でもな、セレス。俺の知ってる『きさらぎ駅』の物語じゃ、電車は『迎え』に来てくれるんだ。そして、乗客を次の場所へ連れて行く。だとしたら、今、俺たちがやるべきことは一つだ。この電車を『降りる』こと。それが、このゲームの、次のフラグを立てるための、唯一の条件なんじゃねえか?」
俺の、根拠も何もない、ただのオタク的推論。だが、セレスは、俺の目を見て、何かを感じ取ってくれたようだった。彼女は、深い深いため息をつくと、やがて、静かに頷いた。
「……まあ、言わんとすることは分かった。お前の、その訳の分からん与太話に、もう一度だけ乗ってやろう。だが、もし何も起きなかったら、その時は……」
「その時は、俺を殴ってくれて構わねえよ」
俺は、そう言ってニヤリと笑ってみせた。
俺は、車両の扉に近づいた。
プシュー……。
気の抜けた音と共に、扉がゆっくりと開いていく。
それはまるで駅が俺たちを呼んでいるかのようだった。
扉が開くと同時に、ホームのひんやりとして、カビ臭い空気が車内に流れ込んできた。
「……よし。俺が先に行く。二人は、援護を頼む」
「待て、リュウイチ。ここは私が」
「いや、こういうのは、言い出しっぺの役目だろ」
俺はセレスを制すると、意を決して、ホームへと一歩、足を踏み出した。
コンクリートの、硬い感触が、靴底を通して伝わってくる。何も起きない。俺は、ゆっくりと周囲を見回した。やはり見覚えのある、あの駅だ。
俺は、後ろの二人に手で合図を送った。
「……よし。次は、リフィ」
セレスに促され、リフィが音もなく、軽やかにホームへと降り立つ。彼女は、すぐに周囲を警戒し、ライフルを構えた。
「問題ありません」
「分かった。……行くぞ」
最後に、セレスが、ガシャリと鎧の音を立てながら、ホームに降り立った。
これで三人全員が電車から降りたことになる。
俺は、振り返って、俺たちが乗ってきた電車を見上げた。古びて錆びついた、鉄の塊。
さあ、どうなる。俺の予想通りなら、何かが起きるはずだ。扉が閉まって、発車していくのか?
それとも……。
俺が、固唾をのんで見守っていた、まさにその瞬間だった。
三人が、ホームに足を揃えた、まさに、その刹那。
プシューウウウウウッ!
背後で、今までで一番大きな空気の抜ける音がした。
俺が、はっとして振り返ると、俺たちが開けたはずの電車の扉が、猛烈な勢いで閉まっていく。
「あっ……!」
それは、まるで、俺たちが降りるのを、待ち構えていたかのようなタイミングだった。
ガチャン! という、無慈悲な音を立てて、扉は完全に閉ざされた。
――そして、その時だった。
瞬き。
本当に、ただ、一度、まぶたを閉じて開いただけのような、ほんの一瞬の出来事。
視界が切り替わった。
いや、それはもはや視覚とは呼べるものではなく、俺の意識と呼べるものが、すべて完全に切り替わってしまっていた。
だからだろう、俺たちの周囲にあった光景は、完全に姿を変えていた。
一瞬のうちに。
「……え?」
間抜けな声が、自分の口から漏れた。
目の前に、あったはずのものが、ない。
あれほど、圧倒的な存在感を放っていた、古びた電車が。
まるで、最初から幻だったかのように、音もなく、跡形もなく、消え失せていた。
いや、それだけではない。
「な……!?」
隣で、セレスが息をのむ気配がした。
俺は、信じられない思いで、周囲を、もう一度、見回した。
電車だけではなかった。
俺たちが立っていたはずの、駅のホームが。
あの忌まわしい駅名標が。
夜を明かしたベンチも、待合室も。
世界を区切っていた、あの錆びついたフェンスも、その向こうの絶対的な闇も。
すべてが、きれいさっぱりと消えてなくなっていた。
俺たちは、今、どこに立っている?
足元は、どこまでも続く、磨き上げられた大理石の床。
肌を撫でるのは、ひんやりと乾いた、人工的な風。
そして、耳に届くのは、どこかのスーパーで流れているかのような、単調で明るい調子の環境音楽――。
ショッピングモールにいた。




