第七話: 車窓から見える風景は?
ガタン、ゴトン……。ガタン、ゴトン……。
古びた電車は、単調なリズムを刻みながら走り続けていた。どれくらいの速さで進んでいるのか、見当もつかない。
窓の外に目をやっても、比較対象になるようなものが何一つない。
きさらぎ駅で迎えた、朝靄のような薄暗い空間は直ぐに消えて、今やそこにあるのは、ただの闇。
インクを限界まで煮詰めて、さらに光を吸い込む性質でも加えたかのような、底なしの黒。星一つ、建物の明かり一つ見えない。
まるで、世界から切り取られたこの電車だけが、巨大な無の中に浮かんでいるかのようだった。
車内の天井でチカチカと頼りなく点滅する蛍光灯の明かりが、この宇宙に許された唯一の聖域であるとでも言いたげに、俺たちの姿をぼんやりと映し出していた。
「……本当に、何もないんだな」
窓ガラスに額を押し付けんばかりにして外を眺めていた俺は、ぽつりとそう呟いた。ガラスの向こうの闇に、疲れ果てた自分の顔が幽霊みたいに浮かんで見える。
「景色という概念が存在しないかのようだ。こんな場所を、この乗り物はどこへ向かって走っているというんだ……」
俺の隣で同じように窓の外を見ていたセレスが、苦々しげに言った。
「少なくとも、あの『きさらぎ駅』よりはマシでしょう。あのまま留まっていても、事態が好転するとは思えませんでしたから」
リフィが、静かな口調で言った。彼女はライフルを膝の上に置き、いつでも撃てる体勢を崩していない。
俺たちが逃げ込んだこの車両は、幸いにも無人だった。だが、扉一枚隔てた隣の車両には、あの顔のない乗客たちが、今も冒涜的なノイズを撒き散らしながら座っている。
その存在が、壁を通してじわりと伝わってくるようで、どうにも落ち着かなかった。
「そりゃまあ、そうだけどよ。前の車両にいる『アレ』も不気味なら、窓の外も不気味。まさに前門の虎、後門の狼ってやつだな。あ、いや、この場合は前門の電波系、後門の虚無か?」
「よくもまあ、そんな軽口が叩けるものだな、お前は」
セレスが、心底呆れたという顔で俺を見た。
「いやいや、こういう時こそ、笑ってないとやってらんねえんだよ。シリアスな顔してても、状況が良くなるわけじゃなし」
「……それも、一理あるかもしれんが」
セレスは納得いかない様子で口をへの字に曲げたが、それ以上は何も言わなかった。
俺たちは、ひとまず向かい合わせのボックス席に腰を下ろすことにした。クッションは薄っぺらく、座るとギシリと嫌な音がしたが、いつまでも立ったままでは体力がもたない。
「さて、と。とりあえず、状況を整理しようぜ」
俺は、努めて明るい声で切り出した。
「整理、と言ってもな……。我々は、訳の分からん場所に飛ばされ、訳の分からん化け物に追われ、訳の分からん駅で夜を明かし、今また、この訳の分からん乗り物で運ばれている。整理するまでもなく、八方塞がりではないか」
「うーん、そう言われると身も蓋もないんだけどさ。でも、いくつか分かったこともあるだろ?」
「分かったこと? 何がだ」
「この世界が、俺の知ってる『物語』に、やたらと影響を受けてるってことだよ」
俺の言葉に、セレスはぐっと押し黙った。『きさらぎ駅』での一件が、彼女の常識を大きく揺さぶったのは間違いない。リフィは、静かに俺の言葉の続きを待っている。
「草原にいた白いモヤモヤは、正直、俺の知識にはなかった。あれは、この世界オリジナルの、純度百パーセントの悪夢なんだろう。でも、『きさらぎ駅』は違った。片足で跳ねる『アレ』も、顔がノイズの乗客も、今こうして電車に乗っていることも、全部、俺が知ってる都市伝説の通りだ」
「……つまり、この空間は、お前の知識が具現化したものだと、本気でそう言うのか?」
「全部が全部、そうだとは言わない。でも、何らかの形で、俺の頭の中の情報が、この世界のルールに干渉してる可能性は、かなり高いと思う」
俺は自分の立てた仮説を口にしながら、内心でぞっとしていた。もし、俺の思考が現実を侵食しているのだとしたら、俺は歩く災害みたいなものではないか。俺が何か不吉なことを考えただけで、それが新たな悪夢として、この世界のどこかに生まれてしまうのかもしれない。
「……にわかには信じがたい話です。ですが、リュウイチさんの知識が、我々の危機を救ったのも事実。駅での立ち回りや、この電車に乗るという判断も、貴方の知識がなければ不可能でした」
リフィが、冷静に分析する。
「現時点では、リュウイチさんの持つ『情報』こそが、我々がこの世界で生き延びるための、最も有効な情報であると、そう結論付けるのが妥当でしょう」
「情報、ねえ……。行き先が地獄だと分かってる情報なんて、何の役にも立たないと思うけどな」
俺は自嘲気味に笑った。
「だとしても、だ。リュウイチ。お前のその『物語』とやらは、どうやって終わるんだ?この電車は、どこへ着く?そこへ行けば、ここから出られるのか?」
セレスが、藁にもすがるような思いで問いかけてくる。その問いに、俺は首を横に振ることしかできなかった。
「……分からない。俺が知ってる話じゃ、この電車に乗ったやつは、二度と帰ってこれなかった。連絡が途絶えて、それで終わりだ」
「……なんだと?」
「つまり、この電車の行き着く先なんて、誰も知らないってことさ。もしかしたら、終点なんてなくて、永遠にこの闇の中を走り続けるだけなのかもしれない」
俺の言葉に、車内の空気が、ずしりと重くなった。
希望的観測を口にすることもできた。だが、この世界で、根拠のない希望ほど残酷なものはない。俺たちは、最悪を想定して、次の一手を考えなければならなかった。
「……永遠に、か」
セレスが、力なく呟いた。その横顔には、これまで見せたことのないような、深い疲労と、諦めに似た色が浮かんでいた。
「なあ、セレス。あんたはさ、元の……っていうか、ここに来る前の世界に、帰りてえよな?」
俺は、柄にもなく、そんなことを尋ねていた。
「……当たり前だ。私には、共に戦った仲間たちがいた。守るべき国があった。こんな、道理の通じぬ場所で、犬死にするために生まれてきたわけではない!!」
セレスは、吐き捨てるように言った。その言葉には、失われた日常への強い執着と、現状への憤りが込められている。
「……騎士団にいたんだっけか。やっぱ、ファンタジーの王道だよな、女騎士ってのは」
「茶化すな。……そうだ。私は、王家に仕える騎士団の一員だった。誇り高い仲間たちと共に、国の平和を守るため、日々剣を振るっていた。あの頃は……それが続くと、信じて疑わなかった」
セレスは、遠い目をして語り始めた。彼女の脳裏には、かつての仲間たちの顔が浮かんでいるのだろう。訓練場で汗を流した日々、酒場で酌み交わした酒、共に戦場を駆け抜けた記憶。その一つ一つが、彼女にとって、かけがえのない宝物なのだ。
「だが、あの日……あの『白いモヤモヤ』の群れに遭遇して、全てが変わった。私の仲間たちは、次々と……精神を壊されていった。私だけが、偶然、生き残った。いや、見捨てて、逃げたんだ」
セレスの声が、かすかに震えていた。鎧の下で、彼女がどれほど自分を責め続けてきたのか、その声色だけで痛いほど伝わってくる。
「……だから、私は帰らなければならん。生き残ってしまった者として、あいつらの無念を晴らすためにも。そして、何よりも、あんな冒涜的な存在が、私の故郷を蹂躙するのを、見過ごすわけにはいかないからだ」
彼女の瞳に、再び強い光が戻っていた。それは、後悔と悲しみを乗り越えた先にある、鋼のような意志の光。こいつは、本当に強いやつなんだな、と俺は改めて思った。
「……リフィは、どうなんだ? あんたにも、帰りたい場所があるんだろ?」
俺は、今まで黙って話を聞いていたリフィに、視線を移した。
「……私の故郷は、深い森の奥にある、小さな里です」
リフィは、ぽつり、ぽつりと語り始めた。
「そこは、とても静かで、美しい場所でした。木々は空高くそびえ、清らかな川が流れ、いつも優しい風が吹いていました。私は、そこで生まれ、仲間たちと共に、穏やかな時間を過ごしていました」
彼女の無表情な顔に、ほんの一瞬だけ、柔らかな光が差したように見えた。それは、郷愁という感情なのだろうか。
「ですが、ある時から、森の様子が少しずつおかしくなっていったのです。動物たちの姿が消え、植物は枯れ、川の水は淀んでいきました。そして、あの『白いモヤモヤ』が現れるようになったのです」
「……あんたの故郷にも、あいつらが?」
「はい。里の者たちは、抵抗しました。ですが、結果は……セレスの騎士団と同じでした。多くの仲間が、心を失いました。私も、故郷を捨てて逃げるしかなかったのです。この銃は、その時に、里の長から託されたものです。いつか、この世界を蝕む元凶を断ち切るために使え、と」
リフィは、膝の上のライフルを、そっと撫でた。その指先には、俺が今まで見たことのないような、優しい色がこもっているように見えた。
「ですが、この世界を旅するうちに、分かってきました。この世界の異常は、あまりにも根が深い。そして、私の記憶の中にある美しい故郷の光景すら、本当に正しいものだったのか、自信がなくなってきています。もしかしたら、私の記憶そのものが、この世界の狂気に汚染され、都合よく書き換えられたものではないのか、と」
リフィの言葉は、俺の背筋を凍らせた。
記憶の汚染。それは、ミーム汚染の、さらに先にある段階なのかもしれない。自分の過去すら信じられなくなる。それほどの恐怖が、この世界には満ちている。
「……二人とも、結構、ヘビーなもん背負ってんだな」
俺は、天井の蛍光灯を見上げながら、力なく笑った。
国のため、仲間のため、故郷のため。彼女たちには、戦う理由がある。帰るべき場所がある。
それに比べて、俺は、どうだ?
「……俺なんて、大した理由、ねえんだけどな」
俺は、頭を掻きながら言った。
「異世界に行きてえなって、ずっと思ってたんだよ。毎日、同じ時間に起きて、満員電車に揺られて会社に行って、上司に怒られて、夜遅くに帰ってきて、寝るだけ。そんな、色のない毎日が、嫌で嫌で仕方がなかった。だから、剣と魔法の世界で、何かすごいことができるんじゃないかって、夢見てたんだ」
「……」
「でも、いざ来てみたら、これだ。夢見てたファンタジーなんて、どこにもなかった。あるのは、意味不明なルールと、命懸けの鬼ごっこだけ。正直、思ってたのと全然違う。こんな地獄、望んでたわけじゃねえよ」
俺の本音が、ぽろりとこぼれた。
「でもさ」
俺は、言葉を続けた。
「でも、あんたたち二人と会って、一緒にここまで来た。訳も分からず引きずられて、死にそうになって、わけのわかんねえ駅で夜を明かして。……正直、最悪だけど、元の世界にいた時より、よっぽど『生きてる』って感じがするんだよな」
それは、偽らざる本心だった。
この狂った世界で、俺は初めて、自分の意志で、生きるか死ぬかの選択を迫られている。それは、途方もなく恐ろしいことであると同時に、どこか、倒錯した興奮を伴うものだった。
「だから、俺も、帰りたいかな。元の世界に。あんな退屈な毎日だったけど、今なら、もう少しマシな生き方ができるような気がするんだ。……まあ、帰れたらの話だけどな」
俺がそう言って笑うと、セレスとリフィは、黙って俺の顔を見ていた。
セレスの表情は、いつもより少しだけ、柔らかい。
リフィの瞳には、ほんのわずかだが、温かい色が灯っているように見えた。
ガタン、ゴトン……。
電車は、相変わらず、闇の中を走り続けている。
俺たちは、それぞれの思いを胸に、しばらくの間、ただ、その単調な揺れに身を任せていた。
過酷な旅の中で、ほんの少しだけ、俺たちの心が通じ合ったような、そんな気がした。
その、穏やかな錯覚を打ち破ったのは、唐突な出来事だった。
――バチッ!
突然、けたたましい音を立てて、車内の蛍光灯が、一斉に消えた。
完全な暗闇が、俺たちを包み込む。
「な、なんだ!? 停電か!?」
「落ち着け! 二人とも、私の側に!」
セレスが叫び、俺とリフィは、声のする方へ、手探りで身を寄せた。
だが、暗闇は、ほんの一瞬のことだった。
バチチチ……!
蛍光灯が、激しく点滅しながら、頼りない光を取り戻す。
これ、絶対にやばいって!
頼りない人工光の下、俺たちはどうすることもできずに、その場で警戒するほかになかった。




