第六話: 沈黙の乗客と電車
どれくらいの時間が経ったのか、もう分からなかった。
この『きさらぎ駅』には、昼も夜もない。ただ、駅の照明が照らし出す狭いホームと、その外側に広がる絶対的な闇があるだけだ。体感的には、もう何時間も、この冷たくて硬いベンチに座り続けているはずだった。
「……おい、リュウイチ」
隣に座るセレスが、ひそめた声で話しかけてきた。俺の右隣には彼女が、左隣にはリフィが、まるで凍える夜に身を寄せ合う雛鳥みたいに座っている。もっとも、俺たちが対峙しているのは寒さではなく、線路の上で片足立ちを続ける、あの人の形をした得体の知れない存在だが。
「なんだよ」
「お前、本当にこのままでいいと思っているのか?夜が明けるのを待つと言ったが、そもそも、この場所に『朝』が来る保証など、どこにもないんだぞ」
セレスの言う通りだった。彼女の言葉は、俺が考えないようにしていた最悪の可能性を、的確に抉り出してくる。このまま、永遠にこの状況が続くとしたら? 俺たちは、じわじわと正気をすり減らし、やがてあの『アレ』の思う壺にはまってしまうのかもしれない。
「……分かってるよ、そんなこと。でも、他にどうしろって言うんだ? 攻撃は効かない。近づけばどうなるか分からない。今は、あいつのルールに従って、何もしないのが一番マシな手なんだ」
「……それは、そうかもしれんが」
セレスは苦々しげに言い淀んだ。騎士である彼女にとって、目の前の脅威に対して、ただ沈黙を貫くというのは、耐えがたい屈辱なのだろう。その気持ちは、痛いほど分かる。だが、この世界では、剣を抜く勇気よりも、何もしないで耐える勇気の方が、よっぽど必要とされるのだ。
「リュウイチさんの言う通りです、セレス。現状、私たちが取りうる最善の策は、このまま待機すること。下手に動けば、予測不能なリスクを呼び込む可能性が高いと判断します」
リフィが、静かだがきっぱりとした口調で言った。彼女はライフルのスコープ越しに、ではなく、肉眼でじっと『アレ』を観察し続けている。ミーム汚染の危険を避けるため、おそらくは焦点を合わせず、周辺視野で捉えているのだろう。その冷静さが、今の俺たちにとっては唯一の救いだった。
「……しかし、腹が減ったな」
不意に、俺の口からそんな言葉が漏れた。緊張と恐怖で麻痺していた感覚が、少しずつ戻ってきたらしい。そういえば、この世界に来てから、まともな食事どころか、水一滴すら口にしていない。
「……言われてみれば、確かに。最後に食事をしたのは、いつだったか……」
セレスも、自分の腹のあたりをさすりながら呟いた。彼女の声には、深い疲労の色が浮かんでいる。
「食料ですか。残念ながら、私の装備の中には、これまでに見つけてきた緊急用らしき非常食しかありません。それも、残りわずかですが」
「マジか……。いや、あるだけマシか」
リフィが背中のバックパックを探り、手のひらサイズの固形食料を三つ取り出した。ビスケットを圧縮して固めたような、味も素っ気もなさそうな代物だ。俺たちはそれを一つずつ受け取ると、無言で口に放り込んだ。
パサパサとした食感が口の中の水分を根こそぎ奪っていくが、今は文句を言える状況じゃない。俺はそれを無理やり飲み下しながら、ふと思った。
「なあ、二人とも。元の世界……っていうか、この異世界に来る前は、何を食ってたんだ?」
唐突な俺の質問に、セレスとリフィはきょとんとした顔で俺を見た。
「何を、とは? 普通に、パンや干し肉、それに野営の時は、狩った獲物の肉などを焼いて食べていたが」
「私の故郷では、主に森の恵みをいただいていました。木の実や、茸、薬草などですね」
ファンタジー世界のお手本のような答えが返ってきて、俺は少しだけ、気分が和んだ。
「へえ、いいなあ。俺なんて、ここに来る直前まで、コンビニの弁当ばっか食ってたぜ。プラスチックの容器に入った、冷たい唐揚げ弁当。あれはあれで、まあまあ美味かったんだけどな」
「こんびに? からあげ?」
セレスが、不思議そうな顔で首を傾げる。異世界の単語が、彼女の知識にはなかったのだろう。
「ああ、なんて説明すりゃいいかな。ええと、前もって作られた料理を売っている、便利な店があってだな……」
俺は、元の世界の食生活について、拙い言葉で説明を始めた。二十四時間営業の店、ボタンを押せば温かい飲み物が出てくる機械、世界中の料理が手軽に食べられること。話しているうちに、自分でもなんだか、それが遠い夢物語のように思えてきた。
「……信じられんな。お前の世界には、そんな便利なモノがあるとは」
「ええ。まるで、魔法のようですね」
セレスは呆れたように、リフィは純粋に感心したように、相槌を打つ。そんな他愛もない会話を続けているうちに、俺たちの心に張り詰めていた氷が、少しだけ溶けていくような気がした。
腹を満たし、少しだけ気持ちが落ち着くと、今度は強烈な眠気が襲ってきた。
「……少し、眠ってもいいか?」
俺が言うと、セレスが「馬鹿者」と一喝した。
「この状況で眠るなど、正気か! もし、眠っている間に、あいつが動き出したらどうするつもりだ!」
「分かってるよ。でも、このままだと、体力が持たない。交代で見張りをしながら、仮眠を取るんだよ。三人いれば、なんとかなるだろ」
俺の提案に、セレスはぐっと言葉を詰まらせた。リフィが、静かにそれに同意する。
「合理的な判断です。私が最初に見張りをしましょう。お二人は、少しでも休んでください」
「いや、それなら私が……」
「いいや、俺がやるよ。あんたたちの方が、よっぽど疲れてるだろ。草原での鬼ごっこでも、ほとんどあんたたちに助けられてただけだしな、俺は」
俺はそう言うと、無理やり背筋を伸ばした。
セレスとリフィは顔を見合わせたが、最終的には俺の申し出を受け入れてくれた。
二人は、ベンチの両端に体を預け、すぐに静かな寝息を立て始めた。よほど、心身ともに消耗していたのだろう。セレスは鎧を着たまま器用に体を丸め、リフィはライフルを抱きしめるようにして眠っている。
しん、と静まり返ったホームに、俺は一人、取り残された。
線路の上では、相変わらず、『アレ』が片足で立ち続けている。
俺は、眠気を追い払うように、自分の頬を軽く叩いた。
絶対に、眠るわけにはいかない。
この二人の命は、今、俺の双肩にかかっているのだから。
そんな、柄にもないことを考えながら、俺は闇の奥を、じっと見つめ続けた。
◇
ふと、何かの気配を感じて、俺は顔を上げた。
いつの間にか、うつらうつらしてしまっていたらしい。慌てて周囲を見回すが、セレスとリフィは、まだ静かに眠っている。
そして、線路の上。
『アレ』がいたはずの場所は、もぬけの殻だった。
「……消えた?」
いつの間に。なぜ。
分からない。だが、あの不気味な圧迫感が消え失せていることだけは確かだった。
それだけではなかった。
駅を囲んでいた、あの絶対的な闇が、少しだけ薄らいでいる。いや、闇の向こう側が、ぼんやりと白み始めている、と言った方が正しいか。夜明けだ。この絶望的な空間にも、朝は来るらしい。
「おい、二人とも! 起きろ! 朝だ!」
俺は、二人を揺り起こした。
「……ん……。なんだ、騒々しい……」
「……リュウイチさん……?」
寝ぼけ眼の二人も、周囲の変化に気づき、はっとしたように体を起こした。
「あいつは……消えたのか?」
「ああ。理由は分からないが、な」
悪夢のような時間が、ようやく終わったのだ。俺たちは、顔を見合わせ、安堵のため息をついた。張り詰めていたものが切れ、どっと疲れが押し寄せてくる。
だが、俺たちの休息は、長くは続かなかった。
――ゴオオオオオ……ガタン、ゴトン……。
唐突に、地響きのような音が、どこからともなく聞こえてきた。錆びついた鉄がこすれ合うような、耳障りな音。そして、その音は、どんどんこちらに近づいてくる。
「な、なんだ!? 今度の音は!」
「……来ます。線路の上からではありません」
セレスが叫び、リフィが冷静に告げた。
リフィの言う通りだった。音は、線路が伸びているはずの方向からではない。むしろ、ありえないはずの、駅の真横の闇の中から、直接響いてきている。
そして。
闇の中から、ぬうっと、巨大な鉄の塊が姿を現した。
それは、古びた電車だった。
塗装はところどころ剥げ落ち、車体には赤黒い錆が浮いている。窓ガラスは薄汚れ、中の様子をうかがい知ることはできない。そんな、博物館にでも飾られていそうな骨董品が、線路もない空間から、まるで幽霊船のように、ゆっくりとホームへと滑り込んできたのだ。
キイイイイイイイイッ!
耳を塞ぎたくなるような、けたたましいブレーキ音。
電車は、俺たちの目の前で、ぴたりと動きを止めた。
プシュー、という、気の抜けたような音を立てて、目の前の扉が開く。
俺たちは、呆然と、その光景を見つめることしかできなかった。
『きさらぎ駅』の噂話。その通りに、電車がやってきたのだ。
悪夢は、まだ終わっていなかった。むしろ、ここからが本番なのだと、告げているかのように。
「……あれが、お前の言っていた『電車』という乗り物か」
「ああ……。約束通り、迎えに来てくれたってわけか……」
俺は、乾いた笑いを浮かべながら言った。
セレスは剣の柄を握り、リフィはライフルを構え、電車を警戒している。
――俺たちは、見てしまった。
車内の様子を。
「……な……」
セレスが、絶句した。
車内には、乗客がいた。ボックス席に何人も。皆、きちんと座席に座り、進行方向であろう闇の先を、じっと見つめている。
だが、その姿は、あまりにも異様だった。
彼らの顔があるべき場所。
そこが、まるで古いアナログテレビの放送が終わった後の画面のように、ザーザーと絶え間なく蠢く、白と黒のノイズで塗り潰されていたのだ。
ジー……という、微かな、しかし耳障りな音が、車内から漏れ聞こえてくる。
顔のない乗客たち。彼らは、俺たちに気づいた様子もなく、ただ、そこに座っている。動かない。喋らない。ただ、存在している。
「……なんだ、あいつらは……」
「……見るな! 顔を、まともに見るな!」
俺は、咄嗟に叫んだ。
脳が、また、あの嫌な感覚を訴え始めている。情報を『認識』することの危険性。あのステータス画面を見た時と同じ、ミーム汚染の兆候。
こいつらは、あの白いモヤモヤと同じ、あるいはそれ以上に危険な存在だ。直視すれば、精神が汚染される。
「リュウイチさんの言う通りです。あれは、危険です。脳が情報の処理を拒絶しています」
リフィも、顔をしかめながら言った。彼女ですら、あのノイズの顔には、危険を感じ取っている。
「……だが、リュウイチ。どうするつもりだ。これに乗る以外に、この場所から脱出する術はないのだろう?」
セレスが、俺に問う。その通りだった。
この駅に留まり続けるか。それとも、この得体の知れない電車に乗って、未知の場所へ向かうか。
どちらも地獄であることに、変わりはない。
だが。
「……乗るしかない。この電車は、次の場所へ進むための、唯一のチケットなんだよ」
俺は、覚悟を決めた。
これは、きっとそういうルールで出来た悪夢なのだ。だったら、そのルールに従って、クリアしてやるしかない。
「……正気か?」
「とっくに捨てたよ、そんなもん。いいか、二人とも。電車に乗るぞ。でも、絶対に!あいつらの顔を見るな。床だけを見て、慎重に進むんだ。分かったな?」
俺の言葉に、セレスは一瞬ためらったが、やがて、大きく頷いた。リフィは、無言でそれに続く。
俺たちは、意を決して、電車へと足を踏み入れた。
一歩、車内に足を踏み入れた瞬間、空気が変わった。
カビ臭さと、古い機械油の匂い。そして、あの、ジー……というノイズ音が、よりはっきりと耳に届く。
俺は、言われた通り、床の一点だけを見つめて進んだ。視界の端に、あのノイズの顔が映り込む。そのたびに、頭の奥がズキリと痛んだ。
「……こっちだ」
俺は、小声で二人を導いた。
幸いなことに、この古い電車は、車両と車両の間が扉で仕切られていた。そして、俺たちが乗った車両の、さらに奥。連結されていた客車は、無人だった。
「ここなら、大丈夫そうだ……」
俺たちは、そそくさと隣の車両へと移動し、乱暴に扉を閉めた。
扉一枚を隔てた向こう側に、あの顔のない乗客たちがいる。その気配が、壁を通してじわりと伝わってくるようで、気持ちが悪い。
だが、直接見なくて済むだけでも、精神的な負担は段違いだった。
俺たちが車両を移り終えたのを、見計らったかのように。
プシュー……。
外の扉が、ゆっくりと閉まっていく。
そして。
ガタン、と大きな揺れが、俺たちの体を襲った。
電車が、ゆっくりと動き出したのだ。
俺は、恐る恐る、窓の外を見た。
『きさらぎ駅』のホームが、少しずつ、後ろへと遠ざかっていく。あの忌まわしい駅名標も、俺たちが夜を明かしたベンチも、やがて、朝靄のような薄明かりの中にかき消されて、見えなくなった。
俺たちは、走り出した電車の中で、ただ、呆然と立ち尽くしていた。




