第四話: 陰鬱なホームと時刻表の囁き
「どうした、リュウイチ? 顔色が悪いぞ」
セレスが、心配そうに俺の肩に手を置く。だが、俺は、それに答えることができなかった。
ただ、駅名標に書かれた『きさらぎ駅』という、間の抜けたような、それでいて冒涜的な響きを持つ文字から、目を離すことができなかったのだ。
「リュウイチさん。何か、この場所についてご存じなのですか?」
セレスの心配そうな声と、リフィの探るような視線が俺に突き刺さる。俺はゴクリと乾いた喉を鳴らし、なんとか言葉をひねり出した。
「ああ……いや、なんでもない。ちょっと、昔聞いた与太話を思い出しただけだ。気にするな」
今、この場で正直に話したところで、混乱を招くだけだろう。
俺は自分にそう言い聞かせ、無理やり思考を切り替えた。
「それより、何か見落としがあるのかもしれない。もう一度、もっと注意深く調べてみようぜ。あの待合室とか、フェンスの根元とか……」
俺が努めて明るい声でそう言うと、セレスはまだ納得いかないような顔をしていたが、「……まあ、そうだな」と頷いてくれた。
俺たちは三度、この小さな監獄の隅々まで調べ始めた。待合室の壁を一枚一枚叩いて隠し通路を探したり、リフィがライフルのスコープでフェンスの向こうの闇を覗いたりもした。だが、スコープのレンズはただただ漆黒を映すだけで、何一つとして捉えることはできなかったという。
俺も、フェンスに近づき、その向こうの闇に手を伸ばしかけた。
しかし、指先が闇に触れる寸前、全身の細胞が警鐘を鳴らす。
これ以上はだめだ、と。まるで、熱した鉄に手を近づけるような、本能的な拒絶反応が、俺の腕を引っこませた。
「だめだ……。やはり、出口もなければ、隠し通路もない」
すべての試みが無駄に終わり、出発点であった駅名標の前に戻ってきたセレスが、忌々しげに吐き捨てた。この閉鎖された空間が放つ、じっとりとした圧力が、俺たちの体力を確実に奪っていく。
物理的な脱出が不可能だと、誰もが悟った。その時だった。
「……ん?」
俺は、ふと、待合室の壁に取り付けられた一つの掲示板に気づいた。
これまでも何度か目の前を通り過ぎていたはずなのに、なぜか意識が向かなかった。それは、電車の発車時刻を示すための、いわゆる『発車案内板』だった。古いタイプの黒いボードに白いプラスチックの文字をはめ込んでいく形式のものだ。
俺は、何かに引き寄せられるように、その案内板に近づいた。
「どうした、リュウイチ?」
「いや、これ……」
案内板には、いくつかの文字列が並んでいた。当然、日本語で書かれている。
【方面】 【種別】 【時刻】 【行先】
やみ 普□ 23:44 □□
□□□ ■■ 0:0■ ■
□ □
文字のいくつかは欠けていたり、黒く塗りつぶされたようになっていて、まともに読むことができない。だが、時刻らしき数字だけは、やけにはっきりと見えた。
「おい、これ……時刻が書いてあるぞ。ってことは、ここに電車が来るってことだよな?」
俺の言葉に、セレスとリフィが顔を寄せてくる。
「これが、お前の世界の文字か。規則的に並んでいるようだが……」
「これらの記号が、時間を表しているのですか?」
俺は二人に頷きながら、案内板を指さした。
「ああ。ここにあるのは『23:44』、夜の11時44分って意味だ。もしこれが正確なら、あと少しで電車が来るのかもしれない」
それは、暗闇の中で見つけた、一本の細い蜘蛛の糸だった。この絶望的な状況から脱出できる、唯一の希望かもしれない。
だが、セレスは用心深くあたりを見回しながら言った。
「だとしても、その『電車』とやらが、我々を安全な場所に運んでくれるとは限らんぞ」
「それは……そうだけど。でも、このままここにいてもジリ貧だ。賭けてみる価値はあるんじゃないか?」
俺たちが議論している間も、リフィは黙って案内板をじっと観察していた。やがて、彼女は静かに口を開いた。
「リュウイチさん。先ほど、この場所を調べた時も、この案内板は確認しましたか?」
「え? いや、気づかなかったな。なんで?」
「……そうですか」
リフィはそれ以上何も言わなかった。だが、その沈黙が、かえって俺の不安を煽った。
俺はもう一度、案内板に視線を戻した。
そして、気づいてしまった。
「……あれ?」
さっきまで見ていたはずの文字の配列が、微妙に変わっている。
【方面】 【種別】 【時刻】 【行先】
やみ □通 23:45 □□
□□□ ■■ 0:0■ かたす
□ 側
「な……なんだこれ……。時刻が、1分進んでる……?」
それだけじゃない。さっきまで意味をなさなかった文字の欠片が、新しい意味を形成している。『行先』の欄に、『かたす』という、不穏な言葉が浮かび上がっていた。
ぞわり、と全身の肌が粟立った。
「おい、リュウイチ、どうしたんだ。また顔色が……」
「セレス!リフィ!これ、見てくれ!文字が変わってる!」
俺が叫ぶと、二人も驚いたように案内板を食い入るように見つめた。もちろん、彼女たちには文字の形が変わったことしか分からないだろう。だが、俺がこれほど取り乱しているのを見て、ただ事ではないと察してくれたようだ。
「……本当だ。先ほどとは、記号の形が違う」
「これが、この場所の仕掛けだというのか……?」
セレスが警戒しながら呟く。
俺は、自分の目を疑いながらも、その場に釘付けになった。息を詰め、案内板の文字を睨みつける。乾いた喉が、ゴクリと鳴る。すると、まるで俺の視線に応えるかのように、カタ、と乾いた音を立ててプラスチックの文字がひとりでに反転し、配列を変えたのだ。
――そこにあった文字列は、俺の最悪の予感を肯定していた。
【方面】 【種別】 【時刻】 【行先】
かえ
さな
い
「……ひっ」
情けない声が喉から漏れた。
時刻や方面の表示はすべて消え、行先の欄にだけ、たった一言。『かえさない』と、ひらがなで書かれていた。まるで、子供が書いたような、たどたどしい文字で。
それは、明確な意思表示だった。この空間からの脱出を、拒絶するという強い意思。
「はぁ……はぁ……。見たか……? 見たよな……?」
俺は震える指で案内板を指さしながら、二人に同意を求めた。
「ああ。また、文字が変わっているな」
「……これは、我々に対する、何らかのメッセージと捉えるべきでしょうね」
セレスの声は硬く、リフィは相変わらず冷静だったが、その手はスナイパーライフルのグリップを強く握りしめている。
正直、俺は悪寒が止まらない。
『きさらぎ駅』の都市伝説。それは、ただのネットの作り話じゃなかったのか?だとしたら、なぜ、俺の知っている情報と、今、目の前で起きている現象が、こうも不気味に一致するんだ?
まさか。
俺のスキルが暴走して、俺たちをここに飛ばしたんじゃない。
俺の頭の中にある『きさらぎ駅』という『情報』そのものが、この空間を形成した……?
「……ありえない」
自分の立てた仮説に、自分で鳥肌が立った。
俺のミーム汚染された知識が、現実を侵食している?
だとしたら、ここは俺の悪夢が具現化した世界ということになる。
その考えに至った瞬間、俺は言い知れぬ恐怖に襲われた。
もしそうなら、この先、俺の知っている他の都市伝説や、怖い話の怪物が現れないと、誰が保証できる?
「おい、リュウイチ。さっきからブツブツと何を言っている。お前が思い出したという『与太話』とやらは、これと何か関係があるんじゃないのか?」
セレスが、俺の肩を掴んで揺さぶった。その真剣な眼差しから、もう誤魔化しは効かないと悟った。
俺は、観念して、ゆっくりと口を開いた。
「……俺のいた世界で、昔から語られている、ある『噂話』があるんだ」
俺は、匿名の電子掲示板に投稿された、ある人物のリアルタイムの実況から始まったという、『きさらぎ駅』の物語を、二人にかいつまんで話して聞かせた。存在しないはずの駅に迷い込み、不可解な出来事に遭遇し、最後は連絡が途絶えてしまう、という話を。
「……馬鹿な。そんな、ただの物語が、現実に影響を及ぼすなど」
セレスは、俺の話を一笑に付そうとした。だが、その声にはいつものような力がなかった。目の前で起きている、案内板の変化という事実が、彼女の常識を揺さぶっているのだ。
「ですが、リュウイチさんの知識と、現状には、無視できない関連性が見られます。この空間が、リュウイチさんの記憶を元に構築された、あるいは、似た性質を持つ場所に、我々が引き寄せられたと考えるのが、現時点では最も合理的です」
リフィが、淡々と分析する。
その言葉は、俺の最悪の仮説を裏付けるものだった。
「だとしたら……。この話には、いくつかの『ルール』があったはずだ……」
俺は必死で、うろ覚えの記憶をまさぐった。
確か、いくつかの禁止事項があったはずだ。それを破ると、二度と戻れなくなる、という……。
「……そうだ。確か……」
俺が何かを思い出しそうになった、まさにその時だった。
――チリン
静寂を破り、どこからともなく、澄んだ鈴の音が聞こえてきた。
俺たちは、はっとして音のした方角を向いた。
それは、ホームの奥、線路が伸びていく先の、あの絶対的な闇の中からだった。
チリン……チリン……
音は、少しずつ、こちらに近づいてきている。
発車案内板の文字が、また、カタカタと音を立てて変わっていくのが、視界の端に映った。
もう、見る必要もなかった。
そこに何が書かれているかなんて、考えたくもなかった。
ただ、この鈴の音が、物語の次の展開を告げる、始まりの合図であることだけは、確信できた。
そして、それは、決して俺たちが歓迎できるようなものではない、ということも。
じっとりとした汗が、こめかみを伝った。




