第三話: 暴走、そして静寂の駅へ
……ん。
冷たい。そして、硬い。
頬に感じる、ざらりとしたコンクリートの感触。それが、深い水底に沈んでいた俺の意識を、無理やり現実へと引きずり上げた。鼻の奥を刺激するのは、古い地下道みたいなカビ臭さと、雨に濡れて錆びついた鉄の匂い。スキル暴走の残滓か、不快な耳鳴りが頭の奥でまだ続いている。
重たいまぶたを持ち上げる。
薄暗い天井、今はもう点いていない蛍光灯。ぽつり、ぽつりと間隔をあけて立つ駅灯が、ぼんやりとコンクリートを照らしている。視界が徐々にはっきりしてくると、自分がどこにいるのかを理解した。
「……駅のホーム……?」
まだ完全に覚醒しきらない頭で、俺はのろのろと上半身を起こした。途端に、全身のあちこちがギシギシと悲鳴を上げる。まるで大型トラックにでも轢かれたかのような、全身打撲の痛み。
……ああ、そういえば、本当に轢かれたんだったか、俺。
「リュウイチ! 気が付いたか!」
「リュウイチさん、ご無事ですか」
すぐ側から聞き慣れた声がした。顔を向けると、セレスとリフィが心配そうに俺の顔を覗き込んでいた。二人とも服のあちこちが土埃で汚れ、少し擦り傷も見えるが、大きな怪我はなさそうだ。
「二人とも……無事だったのか……。よかった……」
心の底から、安堵のため息が漏れた。一人じゃなかった。それだけで、どうしようもない不安が少しだけ和らぐ。
「よかった、ではない! 貴様、一体何をしたんだ!?」
安堵したのも束の間、セレスがガシャリと鎧を鳴らしながら詰め寄ってきた。
「あの光の後、我々は一瞬でこの場所にいた……。ここは一体どこなんだ!? 何かの遺跡か……?」
セレスの問いに答えず、俺は改めて周囲を見渡した。
そこは、想像していたよりもずっと小さな、田舎のローカル線にありそうな無人駅だった。ホームは短く、端から端まで見渡せてしまうほどだ。古びた木造の待合室らしき小屋が一つあるきりで、他には何もない。そして、その駅全体が、古びて錆の浮いた鉄製のフェンスでぐるりと囲われていた。
異様なのは、そのフェンスの向こう側だった。
森でも、山でも、町明かりでもない。そこにあるのは、ただ、底なしの『闇』。インクをぶちまけたかのように、あらゆる光を吸収してしまう、絶対的な黒。見上げても、星はおろか、月の姿すらなかった。まるで、この駅だけが宇宙に浮かぶ孤島であるかのように、心細い駅灯の明かりだけが、俺たちのいる場所をかろうじて照らしている。
「……なんだ、あそこは」
セレスが、フェンスの向こうの闇を指して呟いた。その声には、歴戦の騎士である彼女ですら隠せない、戸惑いの色が浮かんでいた。
「分かりません。ですが、あの領域に足を踏み入れるのは、賢明ではないように思えます」
リフィが静かに言う。彼女の言う通りだった。あの闇は、ただ暗いだけじゃない。見つめていると、吸い込まれそうな感覚に襲われる。あの中に入ったら、二度と戻ってこれない。そんな、本能的な恐怖が背筋を駆け上った。
とても、中から外の『駅の敷地外』へ出ることはできない。
「とにかく、ここから出る方法を探そう。まずは、あの小屋からだ」
俺たちは、駅舎の中を調べ始めた。しかし、とくに何もこれといって手がかりとなりそうなものはない。
「くそっ、どうなってるんだ!」
セレスが苛立ち紛れに、駅舎の壁を蹴るが、鈍い音が響くだけでびくともしない。
俺は錆びついたフェンスに目をやった。その向こう側には、ただただ黒い虚無が広がっている。
「こっちもだめか……。このフェンスを越えたとして、あの闇に飛び込むなんて正気の沙汰じゃないしな」
口に出して、ぞっとした。あの闇に足を踏み入れたらどうなるか、考えたくもなかった。
「ええ。物理的な手段でこの場所から脱出するのは、不可能と判断すべきでしょう」
リフィが静かに同意する。
俺たちの頭には、ここに来る前に彼女たちが言っていた言葉が蘇る。この世界では常識なんてものは気休めにもならない、と。
今、俺たちは完全に手詰まりだった。
短いホームを文字通り何度も往復し、コンクリートのひび割れの数まで覚えてしまうほど調べたが、すべて徒労に終わった。俺たちは、この光の孤島に完全に閉じ込められてしまったのだ。
万策尽きた、という言葉が頭をよぎった、その時だった。
俺のすぐ横に、ぽつんと立つ駅名標が目に入った。青い鉄板に、白いペンキで、俺にとっては見慣れた文字が書かれている。これまでも何度か見ていたはずなのに、なぜか、今になるまで意識に上らなかった。
そこに書かれていた文字を、俺は、無意識に、声に出して読んでいた。
「……きさらぎ、えき……?」
その言葉を口にした瞬間。
まるで、頭の中で、錆びついたスイッチがカチリと入ったかのような感覚があった。
忘れていた、いや、思い出す必要もなかった、元の世界の、どうでもいい知識。それが、鮮明に蘇ってきた。
この名前だけは、絶対にあってはいけない名前だった。
「リュウイチ? 今のは何だ? お前の世界の言葉か?」
セレスが、訝しむように俺の顔を覗き込む。
「この模様に、何か意味があるのですか?」
リフィも、俺が読んだ文字を指さして尋ねる 。彼女たちの目には、日本語のひらがなは、意味不明な記号の羅列にしか見えていないのだろう。
俺は、彼女たちの問いに答えることができなかった。
元の世界にいた頃。
暇つぶしで見ていた、匿名の電子掲示板。そこで語られていた、数えきれないほどの都市伝説の一つ。ある投稿者が、リアルタイムで自分の身に起きている出来事を書き込んでいった、あの話。
『今きさらぎ駅に停車中ですが、降りるべきでしょうか』
――きさらぎ駅
一度そこに足を踏み入れた者は、二度と、元の世界には戻れないという、異界。
「……嘘だろ……」
喉から、絞り出すような、乾いた声が漏れた。
背中を、氷水でも流し込まれたかのように、冷たい汗が一筋、つうっと伝っていく。
「どうした、リュウイチ? 顔色が悪いぞ」
セレスが、心配そうに俺の肩に手を置く。
だが、俺は、それに答えることができなかった。
ただ、駅名標に書かれた『きさらぎ駅』という、間の抜けたような、それでいて冒涜的な響きを持つ文字から、目を離すことができなかったのだ。
白いモヤモヤがうごめく、あの草原から、命からがら逃げ出した先に待っていたもの。
闇に浮かぶ光の孤島。
そのしんとした暗闇が、俺たちの存在を、ただただ、音もなく飲み込んでいくようだった。




