第二話: 命がけの鬼ごっこ(ハンデつき)
――死ぬ! マジで死ぬって!
「痛い痛い痛い! 腕! 俺の腕が引っこ抜ける!」
「黙れ! 男ならそれくらい我慢しろ!」
「無茶言うな! ていうか、あんたの握力、ゴリラか何かか!?」
俺の悲鳴は、ビュービューと吹きすさぶ風の中に虚しく吸い込まれていった。
白銀の鎧に身を包んだ女騎士――セレスは、俺の右腕を掴んだまま、草原を爆走している。その力は尋常じゃなく、俺の体はほとんど凧みたいに宙を舞っていた。足が地面についている時間の方が短いくらいだ。
背後からは、チュイーン、チュイーン、と断続的に甲高い音が聞こえてくる。ちらりと振り返る余裕はないが、エルフの少女――リフィが、あの黒くてゴツいスナイパーライフルで応戦してくれているのだろう。
何に対してかって? もちろん、俺たちを追いかけてくる、あの白いモヤモヤしたやつらに対してだ。
「くそっ、キリがないな! 次から次へと!」
セレスが忌々しげに吐き捨てる。
その言葉通り、俺たちの周囲には、いつの間にか無数の白いモヤモヤが出現していた。一体どこから湧いて出てくるんだ。あいつらは、コンテンポラリーダンスみたいな意味不明なくねくねした動きで、じりじりと俺たちとの距離を詰めてきている。
これは、もはや『戦い』なんてものじゃなかった。
セレスとリフィの言葉を信じるなら、あの白いモヤモヤを『鑑定』したり、まじまじと観察したりするだけで、俺の脳みそは二度と元に戻らない手遅れな状態になってしまうらしい。ミーム汚染、だっけか。
つまり、これは一方的な『鬼ごっこ』だ。しかも、鬼にタッチされたら、どころかじっと見ただけで、即ゲームオーバー、精神崩壊という名のバッドエンド直行便。冗談じゃない。
「リフィ!弾はまだ持つか!?」
「問題ありません。ですが、数が多い。このままではいずれ……」
冷静なリフィの声が、風に乗って俺の耳に届く。その声には、いつも通りの落ち着きがあったけれど、ほんの少しだけ焦りの色が滲んでいるように聞こえた。
まずい。非常にまずい状況だ。
俺が夢見た、ハーレム作ってウハウハな異世界スローライフはどこへ行ったんだよ!女神のやつ、まったく話が違うじゃねえか!
そんなことを考えていた、まさにその時だった。
集団から一体、ひときわ動きの素早い白いモヤモヤが、まるで予測不能な軌道を描くピンボールみたいに、くねくねと跳ねながら、俺の目の前に迫ってきた。
「うおっ!?」
セレスもそれに気づき、咄嗟に俺を自分の背後へと庇う。
だが、遅い。
あの白いモヤモヤは、すでに俺の目と鼻の先まで接近していた。
やばい。
見てはいけない。情報を『認識』してはいけない。
頭では分かっているのに、俺の目は固定されてしまったかのように、その白い存在から離すことができなかった。
そして。
俺の汚染されたスキルが、最悪のタイミングで、勝手に牙を剥いた。
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L̴o̷a̸d̸i̴n̴g̴ ̶f̷i̴l̶t̶e̸r̷s̸.̷.̵.̵ ̸[̶1̴2̸8̸/̸?̷?̷?̷?̸]̸ F̷A̸I̶L̶E̶D̷
B̸u̷f̴f̴e̴r̴ ̴O̸v̶e̷r̵f̷l̴o̶w̸ ̴i̶n̵ ̵P̷e̸r̵c̴e̴p̷t̴i̷o̶n̷ ̶C̶o̶r̵t̴e̸x̷
W̴A̴R̴N̶I̴N̵G̷:̷ ̴S̴a̷f̸e̴-̴m̷o̵d̵e̴ ̶e̷n̸g̷a̸g̸e̵m̸e̶n̵t̷ ̷f̷a̶i̴l̴e̸d̷.̸
I̶N̷I̴T̷I̴A̵T̵I̴N̵G̷_̸E̷M̷E̷R̵G̸E̷N̸C̶Y̴_̸P̴E̷R̷C̷E̷P̴T̸I̵O̴N̴_̸S̴H̷I̸F̸T̴
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――【認識外色彩の知覚】
瞬間、俺の世界から『色』という概念が吹っ飛んだ。
目の前の景色が、まるで古いテレビにあるチャンネルのつまみをガチャガチャと回した時の画面のように、ノイズまみれの世界へと切り替わり続ける。いや、違う。ノイズですらない。そこにあるのは、黒でも白でもない、人間の脳が『色』として処理することを拒絶するような、おぞましく冒涜的な『何か』だった。
ああ、頭が痛い!ああ!割れるように痛い!痛い!痛い!痛い!痛い!痛い!痛い!痛い!痛い!痛い!痛い!痛い!痛い!痛い!痛い!痛い!痛い!痛い!痛い!痛い!痛い!痛い!痛い!痛い!痛い!痛い!痛い!痛い!痛い!痛い!痛い!痛い!痛い!痛い!痛い!痛い!痛い!痛い!痛い!痛い!痛い!痛い!痛い!痛い!痛い!痛い!痛い!痛い!痛い!痛い!痛い!痛い!痛い!痛い!痛い!痛い!痛い!痛い!痛い!痛い!痛い!痛い!痛い!痛い!痛い!痛い!痛い!痛い!痛い!痛い!痛い!痛い!痛い!痛い!痛い!痛い!痛い!痛い!痛い!痛い!痛い!痛い!痛い!痛い!痛い!痛い!痛い!痛い!痛い!痛い!痛い!痛い!痛い!痛い!痛い!痛い!痛い!痛い!痛い!痛い!痛い!痛い!痛い!痛い!痛い!痛い!痛い!痛い!痛い!痛い!痛い!痛い!痛い!痛い!痛い!痛い!痛い!痛い!痛い!痛い!痛い!痛い!痛い!痛い!痛痛痛痛痛痛痛痛痛痛痛痛痛痛痛痛痛痛痛痛痛痛痛痛痛痛痛痛痛痛痛痛痛痛痛痛痛痛痛痛痛痛痛痛痛痛痛痛痛痛痛痛痛痛痛痛痛痛痛痛痛痛痛痛痛痛痛痛痛痛痛痛痛痛痛痛痛痛痛痛痛痛痛痛痛痛痛痛痛痛痛痛痛痛痛痛痛痛痛痛痛痛痛痛痛痛痛痛痛痛痛痛痛痛痛痛痛痛痛痛痛痛痛痛痛痛痛痛痛痛痛痛痛痛痛痛痛痛痛痛痛痛痛痛痛痛痛痛痛痛痛痛痛痛痛痛痛痛痛痛痛痛痛痛痛痛痛痛痛痛痛痛痛痛痛痛痛痛痛痛痛痛痛痛痛痛痛痛痛痛痛痛痛痛痛痛痛痛痛痛痛痛痛痛痛痛痛痛痛痛痛痛痛痛痛痛痛痛痛痛痛痛痛痛痛痛痛痛痛痛痛痛痛痛痛痛痛痛痛痛痛痛痛痛痛痛痛痛痛痛痛痛痛痛痛痛痛痛痛痛痛痛痛痛痛痛痛痛痛痛痛痛痛痛痛痛痛痛痛痛痛痛痛痛痛痛痛痛痛痛痛痛痛痛痛痛痛痛痛痛痛痛痛痛痛痛痛痛痛痛痛痛痛痛痛痛痛痛痛痛痛痛痛痛痛痛痛痛痛痛痛痛痛痛痛痛痛痛痛痛痛痛痛痛痛痛痛痛痛痛痛痛痛痛痛痛痛痛痛痛痛痛痛痛痛痛痛痛痛痛痛痛痛痛痛痛痛痛痛痛痛痛痛痛痛痛痛痛痛痛痛痛痛痛痛痛痛痛痛痛痛痛痛痛痛痛痛痛痛痛痛痛痛痛痛痛痛痛痛痛痛痛痛痛痛痛痛痛痛痛痛痛痛痛痛痛痛痛痛痛痛痛痛痛痛痛痛痛痛痛痛痛痛痛痛痛痛痛痛痛痛痛痛痛痛痛痛痛痛痛痛痛痛痛痛痛痛痛痛痛痛痛痛痛痛痛痛痛痛痛痛痛痛痛痛痛痛痛痛痛痛痛痛痛痛痛痛痛痛痛痛痛痛痛痛痛痛痛痛痛痛痛痛痛痛痛痛痛痛痛痛痛痛痛痛痛痛痛痛痛痛痛痛痛痛痛痛痛痛痛痛痛痛痛痛痛痛痛痛痛痛痛痛痛痛痛痛痛痛痛痛痛痛痛痛痛痛痛痛痛痛痛痛痛痛痛痛痛痛痛痛痛痛痛痛痛痛痛痛痛痛痛痛痛痛痛痛痛痛痛痛痛痛痛痛痛痛痛痛痛痛痛痛痛痛痛痛痛痛痛痛痛痛痛痛痛痛痛痛痛痛痛痛痛痛痛痛痛痛痛痛痛痛痛痛痛痛痛痛痛痛痛痛痛痛痛痛痛痛痛痛痛痛痛痛痛痛痛痛痛痛痛痛痛痛痛痛痛痛痛痛痛痛痛痛痛痛痛痛痛痛痛痛痛痛痛痛痛痛痛痛痛痛痛痛痛痛痛痛痛痛痛痛痛痛痛痛痛痛痛痛痛痛痛痛痛痛痛痛痛痛痛痛痛痛痛痛痛痛痛痛痛痛痛痛痛痛痛痛痛痛痛痛痛痛痛痛痛痛痛痛痛痛痛痛痛痛痛痛痛痛痛痛痛痛痛痛痛痛痛痛痛痛痛痛痛痛痛痛痛痛痛痛痛痛痛痛痛痛痛痛痛痛痛痛痛痛痛痛痛痛痛痛痛痛痛痛痛痛痛痛痛痛痛痛痛痛痛痛痛痛痛痛痛痛痛痛痛痛痛痛痛痛痛痛痛痛痛痛痛痛痛痛痛痛痛痛痛痛痛痛痛痛痛痛痛痛痛痛痛痛痛痛痛痛痛痛痛痛痛痛痛痛痛痛痛痛痛痛痛痛痛痛痛痛痛痛痛痛痛痛痛痛痛痛痛痛痛痛痛痛痛痛痛痛痛痛痛痛痛痛痛痛痛痛痛痛痛痛痛痛痛痛痛痛痛痛痛痛痛痛痛痛痛痛痛痛痛痛痛痛痛痛痛痛痛痛痛痛痛痛痛痛痛痛痛痛痛痛痛痛痛痛痛痛痛痛痛痛痛痛痛痛痛痛痛痛痛痛痛痛痛痛痛痛痛痛痛痛痛痛痛痛痛痛痛痛痛痛痛痛痛痛痛痛痛痛痛痛痛痛痛痛痛痛痛痛痛痛痛痛痛痛痛痛痛痛痛痛痛痛痛痛痛痛痛痛痛痛痛痛痛痛痛痛痛痛痛痛痛痛痛痛痛痛痛痛痛痛痛痛痛痛痛痛痛痛痛痛痛痛痛痛痛痛痛痛痛痛痛痛痛痛痛痛痛痛痛痛痛痛痛痛痛痛痛痛痛痛痛痛痛痛痛痛痛痛痛痛痛痛痛痛痛痛痛痛痛痛痛痛痛痛痛痛痛痛痛痛痛痛痛痛痛痛痛痛痛痛痛痛痛痛痛痛痛痛痛痛痛痛痛痛痛痛痛痛痛痛痛痛痛痛痛痛痛痛痛痛痛痛痛痛痛痛痛痛痛痛痛痛痛痛痛痛痛痛痛痛痛痛痛痛痛痛痛痛痛痛痛痛痛痛痛痛痛痛痛痛痛痛痛痛痛痛痛痛痛痛痛痛痛痛痛痛痛痛痛痛痛痛痛痛痛痛痛痛痛痛痛痛痛痛痛痛痛痛痛痛痛痛痛痛痛痛痛痛!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!
「あ……が……っ」
頭痛、なんて生やさしいものじゃない。
脳みその内側から、直接、無数の針でグチャグチャに掻き回されるような、耐えがたい感覚。視界の端々で、理解不能な幾何学模様が明滅する。
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だが、その地獄のような光景の中で、俺は『見て』しまった。
迫りくる白いモヤモヤ。その進行方向。
奴が次に通過するであろう空間が、一本の、吐き気を催すような病的な色の『通り道』として、はっきりと俺の目に映ったのだ。
意味なんて分からない。
理屈もへったくれもない。
ただ、このままだと、セレスがその紫色の光の筋に触れてしまう。
それだけは、絶対にいけないことだと、俺の本能が絶叫していた。
「だめだ! そっちじゃない!右に避けろぉぉっ!」
俺は、ほとんど意味をなさない叫び声を上げた。
俺の言葉に、セレスの肩がピクリと動く。彼女は一瞬、訝しむような気配を見せた。当たり前だ。いきなり訳の分からないことを叫びだしたんだから。
それでも。
セレスは、俺の言葉を信じた。
「――ッ!」
彼女は舌打ち一つすると、理屈よりも状況判断を優先し、俺の腕を掴んだまま、進行方向を無理やり右へと転換した。
そして、その直後。
ゴボッ、という、水の中から空気が噴き出すような、不気味な音がした。
俺たちが、ほんの数秒前までいた場所。
俺が指し示した、あの紫色の『通り道』があった空間が、まるでゼリーみたいに、ぐにゃりと大きくねじれていた。
もし、あのまま直進していたら。
俺たちは、あの異常な空間の歪みに、跡形もなく飲み込まれていたに違いない。
「……今のは、なんだ?」
セレスが、信じられないものを見るような目で俺を見た。
答えられるわけがない。俺にだって、何が何だかさっぱり分からないのだから。
「知るか! いいから、今は走れ!」
俺はそう叫び返すのが精一杯だった。
スキルが強制的に発動した反動か、頭はまだガンガンと痛むし、視界の端ではチカチカと火花が散っている。
だが、不思議と、さっきまでの絶望的な気分は少しだけマシになっていた。
このクソみたいにイカれた世界で、俺のぶっ壊れたスキルが、もしかしたら唯一の武器になるのかもしれない。
そんな根拠のない希望が、ほんの少しだけ、胸の中に芽生え始めていた。
しかし、現実はそんなに甘くなかった。
俺の謎スキルによる奇跡的な回避も、所詮は焼け石に水。多勢に無勢という、小学生でも分かる単純な事実の前には、何の意味もなかった。
「……追い詰められたな」
セレスが、背にしたごつごつした岩肌を見上げて、苦々しげに呟いた。
そうだ。俺たちは、いつの間にか、巨大な岩壁の前まで追い込まれていたのだ。後ろは行き止まり。前と左右は、くねくね踊る白いモヤモヤで完全に包囲されている。
完璧な、詰み盤面だった。
「リフィ、何か手は……」
「……万策尽きました」
セレスの問いに、リフィは静かに、しかしはっきりと絶望を告げた。
彼女はライフルのスコープを覗き、何かを探すように視線を彷徨わせる。だが、その表情は硬く、打開策が見つからないことを物語っていた。
「マジかよ……ここまでなのか……」
俺はへなへなと、その場に座り込んだ。
異世界転生、最強チート、ハーレム無双。
俺の輝かしい未来予想図は、転生初日にして、無残なエンディングを迎えようとしていた。
ああ、せめて、一度くらいはエルフの女の子といい雰囲気になってみたかった……。
そんな、現実逃避じみた俺の思考を中断させたのは、リフィの凛とした声だった。
「……いえ、一つだけ、賭けになるかもしれませんが、試せる手があります」
その言葉に、俺とセレスは、ばっと顔を上げた。
「本当か、リフィ!?」
「あそこを見てください」
リフィが、ライフルの銃口で、俺たちの少し離れた場所にある、何かを指し示す。
そこには、古びて錆びついた、ドラム缶のようなものがいくつか転がっていた。表面には、俺の知らない文字で、ドクロのマークと一緒に何か警告文らしきものが書かれている。
いかにも、撃ったらドカンと爆発しそうな、分かりやすいオブジェクトだった。
「あれを撃つ。爆発の衝撃で、一時的にでも、あいつらの進路を妨害できれば……」
「なるほどな。だが、威力が分からん。下手をすれば、俺たちも爆風に巻き込まれるぞ」
「承知の上です。ですが、このままじっとしていても、結果は変わりません」
リフィの言葉に、セレスはぐっと押し黙る。
確かに、リフィの言う通りだ。この状況で、選択肢なんてありはしない。
「……分かった。やれ、リフィ」
「はい」
セレスの決断に、リフィは短く応じると、ライフルを構え直した。
俺はゴクリと唾を飲み込み、その様子を見守る。
頼む、うまくいってくれ……!
リフィが、ゆっくりと息を吐き出す。
その指が、引き金にかかる。
そして。
チュイイイイン!
これまでで一番鋭い音が、空気を震わせた。
放たれた弾丸は、見えない線を描いて、一直線にドラム缶へと吸い込まれていく。
次の瞬間。
世界から、音が消えた。
――ズドオオオオオオオオオオン!!!!
遅れてやってきたのは、腹の底まで響き渡るような、凄まじい轟音。
ドラム缶があった場所を中心に、巨大な火球が、まるで太陽が地上に落ちてきたかのように膨れ上がった。熱風が俺たちの体を叩きつけ、爆風で巻き上げられた土や石が、雨のように降り注ぐ。
「うわあああっ!」
俺はとっさに頭を抱えて地面に伏せた。
爆発は、想像を遥かに超える規模だった。
しばらくして、恐る恐る顔を上げると、そこには、信じられない光景が広がっていた。
ドラム缶があった場所は、ぽっかりと口を開けた、巨大なクレーターに変わっていた。
そして、その爆発によって、俺たちを囲んでいた白いモヤモヤたちの包囲網に、ぽっかりと穴が空いている。
「やったか……!?」
俺が歓喜の声を上げようとした、その時だった。
リフィの、切羽詰まった声が響いた。
「いけません! すぐに再生していきます!」
見ると、爆風で吹き飛んだはずの白いモヤモヤたちが、まるで何事もなかったかのように、その体の形を元に戻し、再び俺たちに向かってきている。
クレーターも、確かに足止めにはなっているが、あいつらはその縁を迂回するように、じわじわと距離を詰めてきていた。
時間稼ぎにしかならなかったのだ。
ああ、もうだめだ。
終わった。
俺の異世界ライフ、出だしにして、完。
絶望が、冷たい水のように、俺の心を満たしていく。
死の恐怖が、すぐそこまで迫ってきていた。
その、生命の危機に反応したのだろう。
俺の意思とは関係なく、もう一つの、この世界によって汚染され、ぶっ壊れたスキルが、勝手に起動した。
――【万能収蔵庫 (Damaged)】
シュン、と。
目の前に、あの半透明のウィンドウが再び現れる。
だが、その表示は、以前にも増して、めちゃくちゃにバグっていた。
スキル名が、赤と黒のノイズの中で、激しく点滅している。
「な……なんだよ、今度は……!」
俺が戸惑いの声を上げた瞬間。
世界が、壊れ始めた。
「……え?」
目の前の景色が、まるで粘土みたいに、ぐにゃりと歪み始める。
地面が。空が。岩壁が。
セレスが。リフィが。
そして、迫りくる白いモヤモヤたちが。
すべてが、中心にある見えない一点に向かって、掃除機に吸い込まれるゴミのように、ものすごい勢いで引きずりこまれていく。
「きゃあああっ!?」
「な、何が起こっている!?」
セレスとリフィの悲鳴が聞こえる。
だが、その声すらも、奇妙に引き伸ばされ、意味をなさない音の羅列に変わっていく。
破損したスキルは、敵を収納する、なんていう便利な機能を発揮するどころか、俺たちごと、この空間そのものを、めちゃくちゃに飲み込み始めたのだ。
激しい光が、すべてを飲み込んでいく。
崩壊していく風景の中で、俺の意識は途絶えた。