第十九話: よーし、第二ラウンドだ!
どれくらい意識を失っていたのか、全く見当がつかない。
最後に認識した光景は、俺たちが地獄行きの片道切符とも言うべき電車の車両に足を踏み入れ、背後の扉が無慈悲な音を立てて閉ざされた瞬間だった。そして俺の意識は、テレビの電源をブチッと切られたみたいに唐突に途切れた。あの、全てを飲み込む絶対的な暗闇。音も光も匂いすらも存在しない、完全な『無』。俺という存在すら感じない、完全なる虚無。
それが、今。
「……ん……」
重たいコンクリートの塊みたいだったまぶたが、ぴくりと動いた。
なんだ?
まぶたの裏側がやけに明るい。赤黒い、血管の色が透けて見えるような、そんな生々しい光。
俺は、泥水の中から無理やり顔を引きずり出されるような感覚と共に、ゆっくりと目を開けた。
「……うおっ、まぶしっ……!」
途端に、暴力的なまでの光が俺の網膜を無差別に焼き付けた。思わず腕で顔を覆う。しばらくそうしていると、目がチカチカする激しい痛みと共に、徐々にその光に順応していった。
指の隙間から、恐る恐る外の世界をうかがう。
そして、俺は言葉を失った。
――そこが、俺の新しい世界か。
頬を撫でていく風はどこまでも柔らかく、俺は感動で少しだけ上ずった声でそう呟いた。目の前には、見渡すかぎりの緑の絨毯が広がっている。空は突き抜けるように青く、いくつか浮かんだ白い雲は、まるで綿菓子をちぎって浮かべたみたいに甘やかで、よく見ると少しだけ粘性がありそうなかたちをしていた。遠くの地平には、おだやかな稜線の山脈が霞んで見え、すべてが絵に描いたような景色だった。
……ん?
あれ?
なんだこの、強烈なデジャヴは。まるで、さっき見た夢の続きを見ているような、あるいは一度クリアしたゲームのオープニングをもう一度見せられているような、そんな既視感。
「……気が付いたか、リュウイチ」
「お身体に、異常はありませんか」
聞こえてきた声はひどく落ち着き払っていた。いや、落ち着いているというよりは、感情の置き場所に困ってとりあえず無表情を貼り付けているような、そんな色合いだった。
顔を向けると、セレスとリフィが少し離れた場所から俺を見下ろしていた。二人ともとっくに起き上がっていたらしく、その視線はどこか遠い地平線に向けられていた。その横顔には、驚きや混乱ではなく、もっと深い呆れと徒労感が色濃く浮かんでいる。
「二人とも……無事だったのか……。ここは……」
「ああ、見ろ。笑えてくるだろう」
俺の言葉を遮って、セレスが力なく言った。彼女の指さす先は、俺が今まさに見ている、この牧歌的でありふれたファンタジー世界そのものの風景だった。
俺は、彼女たちのその反応で全てを察した。
そして、俺の口からこらえきれない何かが噴き出した。
「……ぷっ」
「……ははっ」
「ははははははははははは! マジかよ、おい!」
俺は腹を抱えて、その場をゴロゴロと転げまわった。涙が出てくる。笑いすぎで。いや、違う。笑っているのか、泣いているのか、もはや自分でも分からなくなっていた。
「……ようやく、こちらの気持ちが分かったか、この馬鹿者め」
「……ええ。この感情を的確に表現する語彙を、私は持ち合わせていません」
セレスは心底呆れたように、しかしどこか俺の反応に納得したように腕を組み、リフィは静かに、だがその声には明確な徒労感をにじませて俺の狂態を眺めている。
俺はひとしきり笑い転げた後、ぜえぜえと息を切らしながらなんとか上半身を起こした。そして、目の前に広がるあまりにも美しく、そしてあまりにも見覚えのある風景を、改めて指さした。
「スタート地点だよ」
俺は、言った。
「すごろくで言うところの、『ふりだしにもどる』ってやつだ」
普通なら、心が折れる。
絶望のあまり全てを投げ出して、その場にうずくまってしまっても誰も文句は言えないだろう。
「……ふん」
だが、セレスは一度だけ、強く自分の頬をパンと叩いた。
「……まあ、いい」
彼女は言った。
「生きている。それだけで、十分ではないか」
彼女は、俺とリフィに向かって不敵に、本当に、いつもの不敵な騎士の顔で、にやりと笑ってみせた。
「それに、考えてみれば悪いことばかりでもない。あの忌々しい場所で、我々は食料とわずかな休息を得ることができた。最初の時よりは、状況はほんの少しだけマシになっている」
「……セレス……」
「それに、何よりだ」
彼女は、俺の目をまっすぐに見て言った。
「お前という、訳の分からんが事情に詳しい人間がいる。それだけで、以前よりも比べ物にならんほど心強い」
その言葉に、俺はなんだか顔が熱くなるのを感じた。
なんだよ、それ。
反則だろ、そんなの。
「……私も、同感です」
それまで黙って二人のやり取りを聞いていたリフィが、静かに、しかしはっきりと言った。
彼女はいつの間にか、愛用の対物狙撃銃をその肩に担ぎ直していた。黒光りする長大な銃身。それは、もはや彼女の体の一部であるかのように、しっくりとその場に収まっている。
「確かに、世界の謎は何一つ解明されてはいません。元の世界に帰る方法も見つかってはいません。ですが」
リフィは言葉を区切った。
そして、俺とセレスの顔を順番にゆっくりと見た。
その、いつもは感情の色を映さない透き通った瞳の奥に、ほんの一瞬だけ、温かいろうそくの灯りのような色がぽっと灯ったのを、俺は見逃さなかった。
「私たちは、あの時とは違います。私たちは、もはやただの寄せ集めではない。一つの、チームです。そうでしょう?」
リフィの、そのあまりにもストレートな、そして彼女らしくない少しだけ照れくさそうな言葉。
それに、俺はもう何も言い返すことができなかった。
そうだ。
俺たちは、もう一人じゃない。
俺がいて、セレスがいて、リフィがいる。
この絶望的なまでに狂った世界で、互いの背中を預けられる仲間がいる。
それだけで、十分じゃないか。
俺たちは、この理不尽なクソゲーを三人でどこまでも、どこまでもコンティニューし続けてやる。
ただ、それだけだ。
俺の中に、諦めとは違う、もっと穏やかで力強い感情が、すとんと落ちてきた。
それは、覚悟と呼ぶには少しだけ軽やかすぎるかもしれない。
言うなれば、『吹っ切れた』というやつだろう。
俺はガシガシと乱暴に自分の頭を掻いた。
そして、立ち上がった。
目の前に広がる、見渡す限りの緑の絨毯。
突き抜けるように青い空。
綿菓子みたいな、甘やかで少しだけ粘性がありそうな雲。
全てが、物語の始まりのあの時と同じ光景。
だが、俺の目に映るそれは、もうあの時のような輝かしい希望に満ちたものでも、絶望的な現実を突きつけるものでもなかった。
これは、ただの背景なのだ。
俺たちがこれからまた駆けずり回ることになる、ただのフィールド。
それ以上でも、それ以下でもない。
「……ああ、そうだな」
俺は二人に向かって、ニッと歯を見せて笑った。
多分、今、俺はこの世界に来てから一番いい顔をしているに違いなかった。
「お前らの言う通りだ。もう、ぐだぐだ考えるのはやめだ、やめ!」
俺は大きく息を吸い込んだ。
この異世界の、どこまでも柔らかい空気を胸いっぱいに。
そして、高らかに宣言した。
これから始まる、新たな、そしておそらくは永遠に終わらない、俺たちの戦いの始まりを告げる鬨の声を。
「よーし、第二ラウンドだ! 今度は、もっとマシな場所に転移してやる!」
俺の楽観的な叫び声が、どこまでもイカれたように静かな草原にこだました。
セレスは、呆れたように、しかしどこか楽しそうに、ふっと息を漏らした。
リフィは、こくりと小さく頷いた。
そして。
まるで、俺のその言葉を待っていましたとでも言うかのように。
――俺の視界の端で、何かが動いた。
遥か遠く、だだっ広い草原の真ん中に、ぽつんと白いモヤモヤしたものが立っていた。
いや、一体じゃない。
地平線の、その向こうから。
まるで、津波が押し寄せてくるかのように。
無数の、おびただしい数の白いモヤモヤの群れが、こちらに向かってじりじりとその距離を詰めてきていた。
どいつもこいつも、両腕を曲げながらコンテンポラリーダンスのように、くねくねと体を揺らしている。
その光景は、もはや恐怖を通り越して、どこか滑稽でさえあった。
「……ははっ」
俺は笑った。
「……早速お出ましかよ。せっかちな場所だな、おい」
俺の言葉に、セレスが剣を抜き放ちながら応える。
「……まだ、囲まれていません。今のうちに安全な場所を確保しましょう」
リフィが、カチャリとライフルのボルトを操作する冷たい金属音を立てながら、静かに告げた。
そうだ。
もう、俺たちはただのか弱いプレイヤーじゃない。
この、クソみたいな世界の理不尽なルールを、身をもって学んできた。
絶望に慣れて、この狂気の世界に適応しつつある。
俺たちなら、やれるはずだ。
その根拠なんて、どこにもない。
でも、なぜかそう確信できた。
「……さて、と」
俺は、向かってくる白いモヤモヤの群れをまっすぐに見据えながら言った。
「鬼ごっこの時間と行こうじゃねえか!」
その言葉を合図に、俺たちは再び走り出した。
どこへ向かうという当てはない。
ただ生き延びるために。
この宇宙的冒涜さに満ちた、異世界。
そこで俺たちの終わりなき鬼ごっこが、また始まったのだ。




