第十八話: 地獄行きの最終列車
「……どういうことだ、これは。教会の地下にこんな巨大な施設が隠されていたというのか……?」
セレスが目の前の光景を信じられないといった様子で、低い声で言った。彼女は警戒を解かないまま、剣の柄を強く握りしめている。
「……教会の施設というよりは、全く別の建造物が偶然、地下で繋がってしまっていたと考えるのが自然でしょうね」
リフィがいつも通りの冷静な分析を口にする。だが、その声にもわずかな戸惑いの色が浮かんでいるのが分かった。
俺はただ呆然と、そのだだっ広い空間を見渡していた。
地下鉄の駅。それも、かなり大規模なターミナル駅のようだ。ホームが何本も並行して走っているのが見える。壁には『3番線』『4番線』といった案内表示がかろうじて読み取れた。
だが、やはりここもあのデパートや廃墟都市と同じだった。
生命の気配が全くない。
しんと静まり返った構内には、俺たちの呼吸の音以外、何の音も聞こえなかった。
「……ここには、人がいた痕跡がある」
俺はホームの隅を指さした。
そこにはバリケードのように、いくつもの机や椅子が無造作に積み上げられていた。その近くには汚れた毛布や空になった水のペットボトル、それに中身のなくなった缶詰などが散乱している。
「……本当だ。まるで、ここで誰かが籠城でもしていたかのようだな」
セレスもその痕跡に気づき、険しい顔つきになった。
「ええ。これまでの緊急放送の内容を鑑みるに、おそらく汚染から逃れてきた人々が、最後の避難場所としてこの地下に立てこもっていたのでしょう」
リフィの言葉が、俺の脳裏にありありとその光景を映し出した。
地上で原因不明の汚染が広がり、人々が次々と心を失っていく中、生き残った者たちがこの地下深くへと逃げ込んできた。食料も水もほとんど尽きかけている。地上に戻ることもできず、いつ来るとも知れない救助をただひたすらに待ち続ける。
そんな絶望的な状況が、この場所に澱のようにこびりついている。
「……でも、今は誰もいない。みんなどこへ行っちまったんだ……?」
俺の素朴な疑問。その答えはすぐに見つかった。
バリケードのすぐそば、壁際に何かがいくつも立てかけられていた。
それは大きさも形もバラバラの木の板だった。
そして、その板には黒い塗料のようなもので、拙い文字がいくつも書き殴られていた。
『もうだめだ』
『食料がない』
『だれか、たすけて』
『かみさま』
それは墓標だった。
希望を失い、ここで力尽きていった人々の最後の声にならない叫び。その断末魔が、黒々とした文字となって俺たちの目に突き刺さってくる。
「……なんてこった……」
俺は言葉を失った。
セレスもリフィも、黙ってその悲痛な墓標を見つめていた。
安息の地なんかじゃなかった。
ここは希望が完全に死に絶えた場所。
巨大な地下の墓場だったのだ。
「……行くぞ」
重苦しい沈黙を破ったのはセレスだった。
「こんな場所に長居は無用だ。出口を探す。地上へ戻る道が必ずどこかにあるはずだ」
彼女はまるで死者の無念を振り払うかのように、力強く言った。
そうだ。いつまでもここで感傷に浸っているわけにはいかない。
俺たちはまだ、生きているのだから。
俺たちは気を取り直して、ホームの探索を再開した。
だが、どこまで歩いても景色はほとんど変わらなかった。薄汚れたコンクリートの壁、等間隔に並ぶ柱、そして時折見つかる生活用品の痛々しい残骸。
出口を示す案内表示は、どれも無残に破壊されていたり黒く塗りつぶされていたりして役に立たない。
俺たちは完全にこの地下迷宮に閉じ込められてしまったかのようだった。
「……くそっ、どうなってやがるんだ。どこにも出口がねえじゃねえか」
俺は苛立ち紛れに壁を蹴飛ばした。ゴン、という鈍い音がして、足先にじんと痛みが走る。
「落ち着け、リュウイチ。焦っても状況は変わらん」
「分かってるよ! でもよ!」
俺が何かを言い返そうとした、まさにその時だった。
――ゴゴゴゴゴゴゴ……。
唐突に、その音はどこからともなく聞こえてきた。
地鳴りのような、低い振動を伴う音。
それはどんどんこちらに近づいてくる。
「……! この音は……!」
セレスがはっとしたように顔を上げた。
俺もリフィも、音のする方角を凝視した。
それは線路の奥、どこまでも闇が続いているはずのその場所からだった。
「……何かが、来ます」
リフィが静かに、そして鋭く告げた。
ゴゴゴゴゴ……という地響きはどんどん大きくなっていく。
そして。
闇の一番深い場所に、二つの丸い光がぼうっと灯った。
ヘッドライトだ。
巨大な鉄の塊が、闇の中からぬうっとその姿を現したのだ。
「……電車……?」
俺の喉から、かすれた声が漏れた。
そうだ。電車だった。
銀色のつるりとした車体。何両も連結された長い編成。
そんな近代的な乗り物が、この死に絶えたはずの地下の線路の上を走ってきている。
暴走しているわけではなさそうだった。速度はそれほど速くない。
むしろ、まるで駅に入線してくるのが分かっているかのように、ゆっくりと、しかし確実にこちらへと近づいてくる。
「……なぜだ。なぜ、こんな場所に動いている乗り物が……!」
セレスが信じられないといった様子で呟いた。
俺は何も言えなかった。ただ、この光景に強烈なデジャヴを感じていた。
そうだ。あの『きさらぎ駅』の時と同じだ。
絶望的な状況。出口のない閉鎖された空間。
そんな俺たちの前に、まるで救いの手であるかのように差し伸べられる、鉄の箱。
やがて電車は俺たちの目の前までやってきた。
そして、まるで俺たちを迎え入れるかのように静かに速度を落とし、キイイ、という穏やかなブレーキ音をかすかに立てて、ぴたりと完璧な位置で停車した。
そして。
――プシュー……。
気の抜けたような、それでいて俺たちの運命を決定づけるかのような、圧縮された空気が抜ける音と共に。
俺たちの目の前で、電車の扉がゆっくりと左右に開かれていった。
俺たちは三人、その場に立ち尽くしたまま、ただ呆然とその光景を見つめることしかできなかった。
扉の向こう側。車内は完全な暗闇に包まれていた。
光一つ漏れてこない。
まるでこの世の全ての黒をそこに塗り込めたかのような、絶対的な闇。
見つめていると吸い込まれそうな、そんなおぞましい黒。
「……また、これかよ……」
俺は乾いた笑いを漏らした。
もう分かっていた。これが何なのか。
これは罠だ。
そして同時に、この終焉の世界から移動するための唯一の『扉』なのだ。
この世界の悪意に満ちたゲームマスターが、俺たちに提示してきた次なるステージへの招待状。
「……リュウイチ。これは、一体……」
セレスが俺の顔を見た。その瞳には不安と戸惑いの色が浮かんでいる。
「……ああ。分かってる。あんたが言いたいことは分かるよ。これはどう見たって罠だ。乗ったら何が待ち受けてるか分かったもんじゃない」
俺は彼女の言葉を遮るように言った。
「だがな、セレス。俺たちはもう何度もこういうのを経験してきただろ? この世界はいつだってそうだ。俺たちにまともな選択肢なんて与えてくれやしない。いつだって地獄と、さらなる地獄の二択だけだ」
「……」
「ここに留まるか? 食料も水ももうない。このままここで、あの墓標の仲間入りをするか? それとも……」
俺は開かれた扉の、その先の暗闇をまっすぐに見つめた。
「……この、クソみたいな地獄行きの片道切符に、賭けてみるか?」
俺の言葉に、セレスはぐっと唇を噛んだ。
リフィが静かに俺の言葉を肯定した。
「……リュウイチさんの言う通りです。ここに留まり続けた場合の生存確率は、限りなくゼロに近い。ですが、あの暗闇の車両に足を踏み入れた場合の生存確率は未知数です。不確定要素が多いですが、ゼロではない。ならば、私たちが選ぶべき道は一つです」
リフィのあまりにも論理的で、そして残酷なほどの正論。
それがセレスの最後の迷いを断ち切ったようだった。
彼女はふう、と一つ大きなため息をつくと、やがてその顔にいつもの不敵な騎士の顔を取り戻した。
「……ふん。分かった。乗ってやろうじゃないか、その地獄行きの乗り物とやらに。どちらへ転んでも後悔はせん」
セレスが覚悟を決めた。
俺もリフィも無言で頷いた。
そうだ。もう迷っている時間はない。
俺は一歩前に出た。
「……よし。俺が先に行く」
「待て、リュウイチ」
「いいんだよ。こういうのは、言い出しっぺの役目だろ」
俺は二人を振り返ってニヤリと笑ってみせた。
多分、ひどくひきつった情けない笑顔だったに違いない。
俺は意を決して、その暗闇の車両へと足を踏み入れた。
一歩、足を踏み入れた瞬間、空気が変わった。
ひやりとした墓場のような冷たい空気が、俺の全身を包み込む。
音も光も、匂いすらない完全な無。
俺の存在そのものが、この暗闇の中に溶けて消えてしまいそうな感覚。
俺は振り返らなかった。
ただ闇の中へと、さらにもう一歩、足を進める。
俺に続いて、リフィとセレスの気配がすぐ後ろに続く。
そして。
俺たち三人が完全に車両の中へと足を踏み入れた、まさにその瞬間だった。
――プシューウウウウッ!
背後で、今までで一番大きく、そして無慈悲な空気が抜ける音がした。
俺たちが入ってきた扉が、猛烈な勢いで閉まっていく。
ガチャン!
という最後の断末魔のような金属音を残して。
俺たちの最後の退路は、完全に断たれた。
そしてその時――。
俺の意識は、ぷつり、と途絶えた。




