第十六話: 崩れた教会の祈り
無機質なアナウンサーの声が最後の言葉を空虚に繰り返したのを最後に、ラジオはぷつりと音を立てて沈黙した。まるで役目を終えたとでも言うかのように。
後に残されたのは、耳が痛くなるほどの静寂と、俺たちの腹の中に収まったずしりと重い缶詰の残骸だけだった。腹は満たされたが、心にぽっかりと空いた穴は、さっきよりももっと大きく、そして冷たくなっている。
「……行くか」
沈黙を破ったのはセレスだった。彼女は何かを振り払うかのように、がしゃりと音を立てて立ち上がる。その横顔はいつになく険しい。
「ここにいても何も得られん。むしろ気が滅入るだけだ」
「……そうですね。得られた情報はあまりにも断片的で、そして救いがない。長居は無用です」
リフィも静かにそれに続いた。
俺は何も言えなかった。ただ無言で頷き、重たい腰を上げる。
あの放送は一体何だったのか。
この世界の過去の記録か? それとも、別のどこかの世界の終末の知らせか?
分からない。考えたくもなかった。
ただ、一つだけ確かなことがある。
このコンビニは、俺たちが安らぎを求められるような安全地帯なんかじゃない。ただの巨大な墓標だ。文明という名の、死体の。
俺たちは、まるで罪を犯した罪人が現場から逃げ出すように、そそくさとコンビニを後にした。ウィーンという間の抜けた音に見送られ、再びあのセピア色の死んだ世界へと足を踏み出す。
さっきまであれほど魅力的に見えたコンビニの明かりが、今ではまるで亡霊を誘う鬼火のように、不気味に揺らめいて見えた。
◇
どこへ向かうという当ても、もちろんない。
俺たちは、ただ無言で瓦礫の海をさまよい続けた。右も左も、見渡す限り崩れかけたビルと錆びついた鉄骨の骸が地平線の彼方まで続いている。風の音一つしない、完全な無音の世界。聞こえるのは、俺たちの荒い呼吸の音と、瓦礫を踏みしめる、ざり、ざり、という足音だけだ。
「……なあ」
どれくらい歩いただろうか。最初に口を開いたのは俺だった。
「あの放送、どう思う?」
「どう、とは?」
セレスが、前を見据えたまま短く問い返してくる。
「いや、だからさ。『未確認の飛翔体』が落ちてきて『汚染』が広がったって言ってたろ。あれがこの世界が終わっちまった原因だって考えていいのかね?」
「……可能性は高いだろうな。放送の内容と我々がこれまで経験してきたこと……あの『白いモヤモヤ』や、ミーム汚染と呼ばれる現象には無視できん関連性がある」
セレスは苦々しげに言った。彼女の脳裏には、おそらく精神を壊されていったという騎士団の仲間たちの姿が浮かんでいるのだろう。
「ですが、あの放送が本当にこの世界の過去を記録したものだという確証はありません」
リフィが冷静な、それでいてどこか突き放すような口調で言った。
「あのラジオは、周囲の空間に残存する何らかの情報を拾い上げ、増幅して再生する機能を持っていたのかもしれません。だとしたら、あれはこの世界の過去ではなく、別の次元、あるいはリュウイチさんのいた世界の可能性の一つを映し出していたに過ぎない、とも考えられます」
「……俺の世界の可能性だって?」
「はい。貴方のその『汚染されたスキル』が無意識に貴方の記憶や知識にアクセスし、世界の物理法則を書き換えている。その仮説が正しいのなら、あのコンビニもあの放送も、全ては貴方という存在がこの世界にもたらした新たな『汚染』であると、そう解釈することも可能です」
リフィの淡々とした、あまりにも無慈悲な分析。
それは、俺が心の奥底で一番恐れていた可能性を、的確に、そして容赦なく抉り出してくるものだった。
俺が、この世界の汚染源。
俺がいるから、この世界はもっとおかしくなっていく。
「……やめてくれよリフィ。そんなSF映画みたいな話……」
「えすえふ、という単語の意味は分かりかねますが、リュウイチさん。しかし、貴方自身も心のどこかではその可能性に気づいているのではありませんか?」
リフィの透き通った瞳が、じっと俺の心を射抜いてくる。
俺は何も言い返せなかった。
図星だったからだ。
「……わたしは、どちらでもいい」
不意にセレスが吐き捨てるように言った。
「この世界が終わった原因が空から降ってきた何かだろうが、お前のそのふざけた能力のせいだろうが、どちらでも構わん。わたしがやるべきことは変わらんからだ」
「……セレス……」
「生き延びる。そして、元の世界へ帰る。ただ、それだけだ。過去の原因を探ったところで腹の足しにもならん」
セレスのあまりにも潔く、そして騎士らしいその言葉に、俺は少しだけ救われたような気がした。
そうだ。
原因なんてどうでもいい。
俺が歩く災害だろうが、そんなことは今この瞬間を生き延びる上では何の関係もない。
俺は、俺だ。
ただ、それだけだ。
「……はは。そうだな、あんたの言う通りだ。悪かったセレス。なんか俺、ちょっとどうかしてたみてえだ」
「ふん。お前はいつもどうかしているだろう」
セレスはいつもの調子で鼻を鳴らした。
だが、その横顔はほんの少しだけ柔らかい。
俺たちの間に、またあの奇妙な連帯感が戻ってきた。
だが、そんな俺たちの感傷をこの世界がいつまでも許してくれるはずもなかった。
俺たちはひたすら歩き続けた。
太陽のないセピア色の空の下、終わらない黄昏の中を。
腹は満たされたはずなのに、体力は驚くほど回復していなかった。精神的な疲労が肉体を鉛のように重くしているのだ。
俺の足がもつれそうになる。
セレスの呼吸も心なしか荒くなっている。
リフィだけは相変わらず涼しい顔をしていたが、その額にはうっすらと汗が滲んでいた。
どこか、休める場所はないか。
雨風をしのげる、壁と屋根のある場所。
ただそれだけを、俺たちは必死で探し求めていた。
そして。
俺たちは、それを見つけたのだ。
◇
「……あれは……」
俺は立ち止まり、瓦礫の山の向こうを指さした。
そこだけ周囲の無機質な四角いビルの残骸とは、明らかに違う形をした建物が天に向かってその身を突き出すように建っていた。
三角の鋭角な屋根。壁には大きな円形の窓の跡がぽっかりと口を開けている。建物のてっぺんには細長い塔のようなものが、かろうじてその形を保っていた。
それは、教会だった。
俺のいた世界でもよく見かけた、ごくありふれた西洋風の教会の廃墟。
だが、この文明の墓場においては、その存在はあまりにも場違いで、そしてどこか神々しくさえ見えた。
「……教会か」
セレスがぽつりと呟いた。彼女の世界にも似たような建物があるのだろう。
「……建造物としての強度は周囲のビルより、かなり低いように見えます。いつ崩れてもおかしくはありませんね」
リフィが現実的な、そして夢のない分析を付け加える。
だが、俺たちの意見は一致していた。
「……行ってみようぜ」
あそこなら休めるかもしれない。
そんな根拠のない淡い期待を胸に、俺たちはその崩れかけた教会へと、最後の力を振り絞るように歩き始めた。
近づくにつれて、その教会の悲惨な状態がよりはっきりと見えてきた。
屋根は真ん中からごっそりと抜け落ち、空のセピア色がぽっかりと覗いている。壁もあちこちが崩れ落ち、鉄筋がまるで肋骨のように剥き出しになっていた。かつては色とりどりの美しい光景を聖堂の中に映し出していたであろうステンドグラスの窓も、無残に砕け散り、色のついたガラスの破片がキラキラと地面に散らばっているだけだった。
正面の観音開きの大きな扉は片方が外れかかり、だらりと地面に垂れ下がっていた。
俺たちは、そのぽっかりと口を開けた闇の中へと吸い込まれるように足を踏み入れた。
ひんやりとした空気が、俺たちの火照った体を優しく包み込む。
外の世界とは明らかに違う、静謐でどこか厳かな空気。
聖堂の中は想像していたよりもずっと広かった。
天井が抜け落ちた部分から、セピア色の弱々しい光が何本もの筋となってまっすぐに床へと降り注いでいる。その光の中を、無数の小さな埃がまるで祝福の紙吹雪のようにきらきらと舞い踊っていた。
床にはひっくり返った長椅子がいくつも無造作に転がっている。所々で分厚い聖書らしき本が、ページを開いたままうち捨てられていた。
そして、一番奥。
聖堂の一番高い場所。
そこには巨大な十字架がかろうじて壁にかかっていた。その表面はひどく錆びつき、所々が黒く焼け焦げたような跡がある。
だがその姿は、この荒廃しきった空間の中でただ一つ、絶対的な威厳を放っていた。
「……はぁ。ここなら少しは休めそうだな……」
俺は心の底から安堵のため息をついた。
あのコンビニとは違う。
ここにはもっと本質的な『安らぎ』があるような気がした。
俺は一番近くにあった、ひっくり返っていない長椅子にどかりと腰を下ろした。ギシリと乾いた木が悲鳴を上げる。
「……ああ。少なくともあの『白いモヤモヤ』やマネキンのような、不穏な気配は感じられん」
セレスも俺の隣に静かに腰を下ろした。彼女は錆びついた十字架を、どこか敬虔な目つきでじっと見上げている。
「ええ。ですが油断は禁物です。この世界の『安全』は常に相対的なものですから」
リフィだけは相変わらず警戒を解いていない。彼女は壁際に立ち、ライフルの銃口を入り口の方へ向けたまま微動だにしなかった。
まあ、それがリフィの役割なのだろう。
俺は目を閉じた。
疲れた。
本当に疲れた。
このまま少しでいい。眠ってしまいたい。
そんなささやかな欲望が、俺の意識を心地よい微睡みの淵へと引きずりこんでいく。
◇
俺の意識を現実へと引き戻したのは、唐突に鳴り響いた耳障りなノイズだった。
――ザッ……ジジジ……。
「……ん……?」
俺は重たいまぶたをゆっくりと持ち上げた。
いつの間にか俺は長椅子の上で横になって眠ってしまっていたらしい。
セレスも俺の隣で鎧を着たままこくりこくりと船を漕いでいたが、今の音ではっと目を覚ましたようだった。
「……なんだ、今の音は……?」
セレスが寝ぼけ眼で呟く。
音は続いている。
ザザ……ジジ……。
それはあのコンビニで聞いたラジオのノイズとよく似ていた。
だが発生源はラジオではなさそうだった。
音は、この聖堂全体から響いてくるような……。
「……放送です」
壁際でずっと見張りを続けていたリフィが、静かな声で天井の隅を指さした。
見ると、そこには古びて錆びついた円形のスピーカーがいくつか取り付けられていた。どうやらこの教会には放送設備があったらしい。
その死んでいたはずのスピーカーが、今、うんともすんとも言わなかったはずのスピーカーが、勝手に動き出しノイズを撒き散らしているのだ。
「またか……。今度は一体何なんだ……」
俺はうんざりした気分で吐き捨てた。
もうお腹いっぱいだよ、こういう展開は。
だが、俺たちのそんなげんなりとした気分などお構いなしに、ノイズはやがてある一定のリズムを刻み始めた。
ザ……「あ……」……ジジ……「……めん……」ザザ……。
そして途切れ途切れの、くぐもった複数の人間の声がスピーカーから流れ始めたのだ。
それは聖歌だった。
男たちの低い厳かな歌声と、女たちの高く澄んだ歌声。
本来であれば聞く者の心を安らぎで満たすはずの美しいハーモニー。
だが壊れたスピーカーから流れるそれは、音は割れ、所々がテープを引き延ばしたように不気味に間延びしている。
美しいはずの聖歌は、おぞましい不協和音と化していた。
「……ひどい音だな、おい……」
俺は思わず顔をしかめた。
「……祈りの歌か。だが、なぜ今……」
セレスも不快そうに耳を塞いでいる。
聖歌はしばらく続いた。
そして、ぷつりと唐突に途切れた。
だが静寂は戻ってこなかった。
今度は別の声がスピーカーから流れ始めたのだ。
それは一人の年老いた男性の声だった。おそらくはこの教会の神父か何かだろう。
その声は震えていた。
絶望と恐怖と、それでもなお失われまいとする必死の祈りが、その声色から痛いほど伝わってくる。
『……おお、神よ。我らを、お見捨てになったのですか……』
『天より降り注いだ災厄は、我らの街を、同胞を、全てを飲み込んでいきました……』
『人々は心を失い、獣にも劣る姿へと成り果てていきました……』
『もはや我らに逃げる場所はありません……』
『おお、神よ。もしこの声が届いているのであれば……』
『どうか我らに救いを……。最後の、救いを……』
神父の悲痛な祈りの言葉。
それが途切れ途切れに何度も何度も繰り返し再生され続ける。
この教会で人々が最後に何を想い、何を願ったのか。
その悲痛な記憶の残響だけが、瓦礫の聖堂に虚しくこだましていた。
俺たちは何も言えなかった。
ただ、その救われることのなかった祈りの言葉を聞いていることしかできなかった。
胸が締め付けられるなんて生易しいものじゃない。
もっと直接的に、心をごりごりとやすりで削られるような不快感とやるせなさ。
俺はたまらなくなって立ち上がった。
「……もういい。出ようぜ、ここも」
安息の地なんかじゃなかった。
ここは、絶望が最も濃く凝縮された場所だったのだ。
俺の言葉にセレスもリフィも無言で頷いた。
俺たちが、出口に向かって歩き出そうとした、まさにその時だった。
「……待ってください」
リフィの凍てつくような鋭い声が、俺たちの足を縫い止めた。
「……どうした、リフィ」
「……あそこを」
リフィがライフルの銃口で指し示した先。
それは聖堂の隅。
天井が抜け落ちた部分からセピア色の光が届いていない、薄暗い場所。
そこに何かが蠢いていた。
「……なんだ、あれは……」
俺は目を細めた。
それははじめ、ただの影のように見えた。
柱やひっくり返った長椅子が床に落としている、ごくありふれた影。
だが、その影が。
生き物のように、もぞもぞと蠢いているのだ。
それは一つではなかった。
聖堂のあちこちの暗がり。
光の届かない全ての場所で、同じように影たちが蠢き、ざわめき、そしてゆっくりとその面積を広げ始めていた。
『……救いを……我らに、救いを……』
神父の祈りの言葉がスピーカーから流れ続ける。
その祈りの言葉に引き寄せられるかのように。
あるいは、その絶望に共鳴するかのように。
影たちはどんどんその数を増やしていく。
床を這い回り、壁を伝い、天井へと伸び上がっていく。
それはもはや、ただの影ではなかった。
もっと実体を伴った、黒いタールのような何か。
人々の絶望や悲しみや苦しみ。
そういった負の感情そのもの。
それらがこの場所に染みつき、凝縮され、形を成したおぞましい澱。
「……まずいな。これは……」
セレスが剣の柄を強く握りしめた。
彼女の本能が、目の前の蠢く影の群れに尋常ではない危険を感じ取っているのだ。
「……どうやらこの教会も、安息の地ではなかったようですね」
リフィが淡々と、しかしその声には明確な警戒の色を浮かべて言った。
俺はゴクリと乾いた喉を鳴らした。
祈りの言葉が終わらない。
そして、その祈りに呼び寄せられるように、絶望の影がどんどん俺たちににじり寄ってくる。
この教会は、聖域なんかじゃない。
絶望を呼び寄せるための、最悪の祭壇だったのだ。
俺たちはじりじりと後ずさる。
出口はすぐそこだ。
だが、その出口の扉の周りにも、すでに黒い影が蠢き始めていた。
俺たちは、完全にこの絶望の澱の中に閉じ込められてしまったのだ。




