第十五話: 鳴りやまない緊急放送
ウィーン、と間の抜けた電子音を立てて、ガラスの自動ドアが左右に開いていく。
その隙間から、ひやりとした、それでいてどこか懐かしい空気が、俺たちの頬を撫でた。それは、あの広大な廃墟を支配していた、淀んで生暖かい大気とは全く違う、文明の匂いがする空気だった。空調が完璧に効いている証拠だ。それだけで、俺の乾ききった喉が、ごくりと鳴った。
「……うそ、だろ……」
店内に一歩足を踏み入れた俺は、呆然と呟くことしかできなかった。
明るい。
とにかく、明るいのだ。天井にずらりと並んだ蛍光灯が、一点の曇りもなく、店内を白々しいほどの光で満たしている。床はピカピカに磨き上げられ、俺たちの汚れた姿をぼんやりと映し出していた。
そして、匂い。
ああ、この匂いだ。レジ横の什器から香る、淹れたてのコーヒーの芳醇なアロマ。ホットスナックのケースから漏れ出してくる、フライドチキンのジャンキーで食欲をそそる油の匂い。そして、菓子パンの甘い匂いや、雑誌のインクの匂い、芳香剤の清潔な香り。それら全てが一緒くたになって、俺の鼻腔をくすぐる。元の世界にいた頃は、当たり前すぎて意識すらしなかった、あのコンビニ独特の匂い。それが今、俺の脳を直接揺さぶり、忘れかけていた平穏な日常の記憶を、無理やり引きずり出してくる。
「……なんだ、ここは……。デパートの中とは、また違う雰囲気だな。だが、ここも人の気配がしないぞ」
俺の後ろから店内に入ってきたセレスが、警戒を解かないまま、低い声で言った。彼女は、物珍しそうに、しかし鋭い視線で、店内の隅々まで観察している。ガシャリ、と鎧が立てる音が、この静まり返った空間ではやけに大きく聞こえた。
「ええ。ですが、この施設は、デパートとは比較にならないほど、品物の保存状態が良いように見えます。まるで、ついさっきまで営業していたかのようです」
リフィも、ライフルの銃口をわずかに下げながら、冷静に分析する。彼女の言う通りだった。デパートは、無人であることを除けば完璧だったが、それでもどこか、作り物めいた、空々しい雰囲気があった。だが、ここは違う。もっと生々しい。『日常』の匂いが、まだ残っている。
俺は、ふらふらと、まるで夢遊病者のように、一歩、また一歩と店内を進んだ。
すぐ右手には、雑誌コーナーがあった。色とりどりの表紙が、俺の目をチカチカと刺激する。週刊誌、漫画雑誌、ファッション誌。どれも、俺が元の世界で見たことがあるようなものばかりだ。だが、その表紙を飾るアイドルの笑顔も、人気俳優のキメ顔も、よく見ると、ほんのわずかに色褪せているような気がした。そして、その全てに、うっすらと、本当にごくわずかに、灰色の埃が降り積もっていた。
「……誰も、いないのか……?」
俺は、レジカウンターの奥に向かって、かすれた声で呼びかけてみた。
「すいませーん、誰かいませんかー?」
しん、と静まり返った店内に、俺の間の抜けた声が吸い込まれて消えていく。返事はない。レジカウンターには、もちろん誰の姿もなかった。タッチパネル式の液晶画面だけが、煌々と明るい光を放ち、『ご利用いただきありがとうございます』という無機質なメッセージを、健気に表示し続けている。
希望のオアシスなんかじゃなかった。
ここは、文明の墓標だ。
かつて、この世界に存在した『日常』という概念。その最後の残骸が、まるで剥製にされたみたいに、完璧な形で保存されているだけの、ただの箱庭。
その事実を理解した瞬間、俺の腹の虫が、ぐううううううううううううう、と、今までで一番大きな、そして情けない音を立てた。
「……っ!」
俺は、咄嗟に自分のお腹を押さえた。顔が、カッと熱くなるのが分かる。
「……ふん。腹の虫は、正直なようだな」
「……ええ。私も、です」
セレスが、呆れたように鼻を鳴らし、リフィが、静かに同意した。どうやら、二人も同じだったらしい。この空間に満ちた食べ物の匂いが、俺たちの空っぽの胃袋を、容赦なく刺激しているのだ。
もう、我慢の限界だった。
罠だろうが、何だろうが、どうでもいい。
今はただ、何かを、腹に入れたい。その、動物的な本能だけが、俺の全てを支配していた。
「……食料、探すぞ」
俺は、呻くように言った。
俺たちは、三手に分かれて、宝探しを始めた。いや、これは、砂漠で水を探すような、もっと切実な、命懸けの探索だった。
俺は、弁当やサンドイッチが並んでいるはずの、オープンケースの冷蔵棚へと向かった。ブーン、という、冷却ファンの低いモーター音が、静かに響いている。電気が生きているのだ。
だが、俺の期待は、すぐに裏切られた。
「うわっ……!?」
ガラスの扉を開けた瞬間、むわり、と、酸っぱいような、鼻を突く異臭が、俺の顔面に叩きつけられた。
棚に並んでいたはずの色とりどりの弁当は、その全てが、見るも無残な姿に成り果てていた。ご飯は黄色く変色し、カピカピに干からびている。おかずだったであろう物体の数々は、どす黒い塊と化し、その表面には、青や緑の、けばけばしい色のカビが、まるでビロードのように、びっしりと生えそろっていた。かつて、俺の空腹を満たしてくれた、カツ丼も、唐揚げ弁当も、ナポリタンも、今や、ただの腐敗物。正体不明の冒涜的なオブジェへと、その姿を変えていた。
「……だめか。やっぱり、そうだよな……」
俺は、吐き気をこらえながら、そっと扉を閉めた。
考えてみれば、当たり前のことだった。この世界が、いつ『終わった』のかは知らない。だが、少なくとも、数日や数週間で、こうはならないだろう。年単位、あるいは、もっと長い時間が、この静まり返った店の中で、流れ続けていたのだ。
俺は、落胆のため息をつきながら、他の棚も見て回った。
菓子パンのコーナー。袋はパンパンに膨れ上がり、中身は緑色の胞子で覆われている。
おにぎりの棚。包装フィルムの内側に、水滴がびっしりとつき、米粒は原型を留めていない、どろりとした白い液体に変わっていた。
牛乳やジュースの紙パックは、どれもこれも、不自然に膨張し、今にも破裂しそうだった。
全滅だ。
希望は、脆くも崩れ去った。
「リュウイチ! こっちだ!」
不意に、店の奥の方から、セレスの切羽詰まったような声が聞こえた。
俺は、はっとして、声のした方へと駆けつけた。リフィも、別の通路から、音もなく姿を現す。
セレスがいたのは、カップ麺や、缶詰、レトルト食品といった、いわゆる保存食が並べられた棚の前だった。
「どうした、セレス! 何かあったのか!?」
「ああ。これを見ろ」
セレスが指さした棚を見て、俺は、自分の目を疑った。
そこにあったのは、奇跡だった。
棚に並べられた商品のほとんどは、やはり、埃をかぶり、パッケージの色も褪せて、見るからに古びていた。紙製の箱は、湿気でふやけ、原型を留めていないものも多い。
だが、その中に、ほんの数個だけ。
まるで、昨日入荷しました、とでも言いたげな、真新しい輝きを放っている商品が、ぽつり、ぽつりと、混じっていたのだ。
「……なんだ、これ……」
俺は、恐る恐る、その一つを手に取った。
それは、見慣れた、牛肉の缶詰だった。金属の表面は、指紋一つなく、つやつやと光を反射している。ラベルの印刷も、鮮やかそのものだ。手に取ると、ずしりとした、心地よい重みが伝わってくる。
「……こっちにも、あります」
リフィが、静かな声で、別の棚を指さした。
そこには、クラッカーの箱と、魚の缶詰が、同じように、不自然なほどの新品状態で、置かれていた。
まるで、誰かが、俺たちのために、わざわざ用意してくれたかのようだ。
その考えに至った瞬間、俺の背筋を、ぞくり、と冷たいものが走った。
俺が、このコンビニの存在を『願った』から、このコンビニは現れた。
そして、俺たちが、食料を『欲した』から、この食料は、ここに在るのか?
俺の思考が、現実を侵食し、捻じ曲げている。
その、おぞましい仮説が、またしても脳裏をよぎった。
「……おい、リュウイチ。どうした。また、顔色が悪いぞ」
セレスが、訝しむように、俺の顔を覗き込んできた。
俺は、ぶんぶんと、力任せに首を横に振った。
「……いや、なんでもねえ。考えすぎだ。きっと、たまたま、こいつらだけ、保存状態が良かっただけなんだよ。そうに決まってる」
俺は、自分に言い聞かせるように、早口で言った。
そうだ。そうじゃなきゃ、おかしい。
俺が、この世界の理を捻じ曲げる、神様みたいな存在なわけがない。
汚染されたスキルしか持たない俺は、しがない元サラリーマン。九頭竜リュウイチだ。
そうだろ?
「……ふん。まあ、理由はどうあれ、食料が手に入ったことには変わりない。ありがたく、いただくことにしよう」
セレスは、俺の葛藤など知る由もなく、あっさりとしたものだった。彼女は、手際よく、使えそうな缶詰をいくつか、自分の鞄に詰め込んでいく。
「そう、ですね。深く考えても、答えは出ません。今は、目の前の幸運に、感謝すべきでしょう」
リフィも、それに同意するように、クラッカーの箱を手に取った。
俺は、二人の、ある意味で、俺よりもずっと現実的なその態度に、少しだけ救われたような気がした。
そうだ。
考えても、仕方がない。
今は、生き延びることだけを、考えろ。
「……よし。食うか!」
俺は、無理やり、思考を切り替えた。
俺たちは、めいめい、手に入れた戦利品を抱え、イートインコーナーへと向かった。窓際に設置された、安っぽいプラスチックのテーブルと椅子。元の世界では、学生やサラリーマンが、カップ麺をすすったり、スマホをいじったりしていた、あの場所だ。
俺たちは、そこに、どかりと腰を下ろした。
俺が選んだのは、サバの味噌煮の缶詰。セレスは、牛肉の大和煮。リフィは、コンビーフ。
どれも、この世界では、王侯貴族の食事よりも、よっぽど価値のある、ご馳走だった。
缶切りなんて、洒落たものはない。セレスが、腰に下げていたナイフを器用に使い、てこの原理で、ぐりぐりと缶の蓋をこじ開けていく。
パカリ、と、最後の部分が切れて、蓋が開いた。
途端に、味噌と魚の、甘辛くて、香ばしい匂いが、ふわあっと立ち上った。
「「「……おお……」」」
俺たちは、三人、同時に、感嘆の声を漏らした。
腹の虫が、再び、ぐう、と喜びの雄叫びを上げる。
俺は、リフィが分けてくれたクラッカーの上に、サバの身を、ほぐして乗せた。脂が乗って、てらてらと光る、サバの身。そこに、とろりとした味噌のタレが、たっぷりと絡んでいる。
もう、限界だった。
俺は、それを、大きな口を開けて、一気に、頬張った。
「……んんっ……!」
口の中に、天国が広がった。
サバの濃厚な旨味と、味噌の甘じょっぱい味。それが、口の中で、渾然一体となって、俺の味蕾を、幸福の鉄槌で殴りつけてくる。パサパサのクラッカーが、その旨味を全て吸い取って、最高の食感を生み出していた。
うまい。
うまい、なんて言葉じゃ、足りない。
細胞の一つ一つが、歓喜の声を上げているのが分かる。乾ききった大地に、恵みの雨が降り注ぐように、栄養が、全身に染み渡っていく。
俺は、夢中で、二口目、三口目を、口の中へと放り込んだ。
「……ふむ。これも、なかなかの味だな。肉が、驚くほど柔らかい」
セレスも、ナイフの先に突き刺した牛肉を、満足げに頬張っている。その表情は、いつものような険しさはなく、年相応の、一人の女性の顔に戻っていた。
「……塩味が、少し強いですが、美味しいです。エネルギー効率も、良さそうですね」
リフィも、小さな口で、コンビーフを乗せたクラッカーを、こくり、と飲み込んだ。その無表情な顔が、ほんの少しだけ、和らいで見えたのは、きっと、気のせいではないだろう。
俺たちは、しばらく、無言で、ただひたすらに、目の前の食事を、むさぼり続けた。
この狂った世界に来てから、初めて感じる、まともな食事。
それは、希望のオアシスなんかではなかったかもしれない。文明の墓標だったのかもしれない。
それでも、この、わずかな恵みは、確かに、俺たちの、すり減りきった心と体を、優しく満たしてくれていた。
この時間が、少しでも長く続けばいい。
俺は、心の底から、そう願っていた。
だが、この世界は、そんな、俺のささやかな願いすら、決して、許してはくれなかったのだ。
◇
俺たちが、最後のクラッカーの一枚を、名残惜しそうに分け合っていた、まさにその時だった。
――ザ……。
唐突に、その音は、どこからともなく、聞こえてきた。
乾いた、耳障りな音。
古いラジオのチューニングを合わせる時に聞こえるような、静電気のノイズ。
「……ん? なんだ、今の音は」
セレスが、訝しげに、顔を上げた。
俺も、リフィも、食べる手を止め、耳を澄ます。
ザザ……ジジ……。
音は、続いている。
それは、どうやら、レジカウンターの方から、聞こえてくるようだった。
「……何か、機械の音、でしょうか」
リフィが、静かに、腰を浮かせた。
俺たちは、顔を見合わせる。
この、無人のコンビニに、俺たち以外の『何か』が、いるのか?
緊張が、再び、俺たちの間に、ピリリと走った。
俺たちは、音を立てないように、慎重に、イートインコーナーを離れ、音の発生源である、レジカウンターへと、そろり、と近づいていった。
そして、音の正体を、突き止めた。
それは、カウンターの隅に置かれていた、一台の、小さなポータブルラジオから、発せられていた。
古びた、銀色の筐体。伸びたアンテナの先が、わずかに、左右に揺れている。
さっきまで、それは、ただの置物だったはずだ。それが、今、勝手に、電源が入り、ノイズを撒き散らしている。
「……なんだ、これ。ラジオか……」
俺は、拍子抜けしたように、呟いた。
「らじお? リュウイチ、それは何だ。魔道具か何かか?」
「いや、違う。ええと、遠くの音を、受信して、聞くことができる、ただの機械だよ」
俺が、セレスに、拙い説明をしている間も、ラジオは、ザアザアと、不快な音を立て続けていた。
だが、そのノイズの中に、ほんのわずかに、何か、人の声のようなものが、混じっていることに、俺は気づいた。
ザザ……「……ひ……」……ジジ……「……こく……」ザ……。
途切れ途切れの、くぐもった声。
男の声のようだが、何を言っているのか、さっぱり聞き取れない。
「……誰かが、何かを、話しているのか?」
「……通信障害、でしょうか。電波の状態が、良くないようです」
セレスが、眉を寄せ、リフィが、冷静に分析する。
俺は、何かに引き寄せられるように、そのラジオに、さらに一歩、近づいた。
そして、チューニングを合わせるための、ダイヤルに、そっと、手を伸ばす。
これを、少し、回せば。
もしかしたら、もっと、はっきりと、声が聞こえるようになるかもしれない。
生存者が、どこかに、いるのかもしれない。
そんな、淡い期待が、俺の胸に、芽生え始めていた。
俺が、ダイヤルに、指をかけた、まさに、その瞬間だった。
――ザザザザザザザザッ!
突然、ラジオが、けたたましいノイズを、最大音量で撒き散らした。
「うわっ!?」
俺は、思わず、耳を塞いで、飛びのいた。
だが、その強烈なノイズは、ほんの一瞬のことだった。
次の瞬間、ノイズは、ぴたり、と止んだ。
そして。
今までで、一番、クリアな音質で。
感情のこもらない、淡々とした、アナウンサーのような男の声が、静まり返ったコンビニの中に、響き渡り始めたのだ。
『……こちらは、緊急放送です。繰り返します。こちらは、緊急放送です』
その声は、まるで、録音されたテープを、何度も、何度も、繰り返し再生しているかのように、抑揚がなく、ただ、同じ言葉を、繰り返していた。
「……魔道具による放送、か。……これは一体何を伝えているんだ?」
セレスが、訝しげにラジオを見つめながら言った。
「ええ。ですが、この内容は……尋常なものではないようです」
リフィが静かに同意する。二人とも、音を発する機械の存在そのものではなく、その内容に言いようのない不穏さを感じ取っているようだった。
俺は、何も言えなかった。
ただ、その声が、これから語るであろう内容に、言いようのない、胸騒ぎを覚えていた。
そして、俺の、その最悪の予感は、的中することになる。
『……未確認の飛翔体が世界各国の主要都市に、同時に落下しました。現在、落下地点を中心に、原因不明の深刻な汚染が、急速に拡大しています』
ラジオは、淡々と、絶望的な事実を、語り続ける。
「……飛翔体? 汚染?」
『この汚染区域に接触した、全ての生命体において、深刻な精神的、及び、物理的な変質が、確認されています。汚染は、不可逆的なものであり、治療法は、現在、確認されておりません』
「精神的な変質だと……!?」セレスの声が、かすかに上ずる。
「まさか……わたしの騎士団の者たちが、あの『白いモヤモヤ』に触れておかしくなったのは……これが原因だというのか!?」
「……私の故郷を蝕んだ現象とも、酷似しています」
リフィが、押し殺したような声で呟いた。その手は、ライフルのグリップを強く握りしめている。
「な……」
『政府は、これを人類に対する、未曾有の脅威と認定し、全ての国民に対し、非常事態宣言を発令します。生存者は、汚染区域より、直ちに避難してください。汚染された対象を、決して、視認、あるいは、認識しようと、しないでください』
汚染。
認識。
その単語が、俺の脳に、突き刺さった。
ミーム汚染。
俺たちが、この世界に来てから、ずっと、苦しめられてきた、あの脅威。
その元凶。
始まり。
この終わってしまった世界。その最後の記憶。
それが今、この小さなラジオから、延々と流れ続けている。
『……繰り返します。これは、訓練ではありません。これは、訓練ではありません……』
アナウンサーの、無機質な声だけが、無人のコンビニに、虚しく、響き渡っていた。
かつて、この世界を襲った、大災厄の記憶。
人々が、最後に聞いたであろう、絶望の知らせ。
それが、まるで地縛霊の呟きのように、この場所にこびりついていたのだ。
俺たちは、三人、その場に立ち尽くしたまま、ただ、終わらない悪夢の放送を聞いていることしか、できなかった。




