第十四話: 廃墟に灯る光
俺の腹の虫が盛大に鳴いた音を合図にするかのように、俺たちの束の間の休息は終わりを告げた。
腹が減っては戦はできぬ、とはよく言ったものだが、今の俺たちには戦をするための弾薬、つまり食料が完全に尽きている。戦う前に飢えで倒れるのがオチだろう。
「……行くか」
俺はコンクリートの床にごろりと寝転がったまま、セピア色の空に向かって言った。返事はない。当たり前だ。この世界に俺たち三人以外の生命の気配なんてどこにもないのだから。
「行くぞ、二人とも。ここにいても腹は膨れねえ」
俺は「よいしょ」と声にならない声を上げながら、億劫な体を無理やり起こした。隣ではセレスとリフィがとっくに臨戦態勢を整えて、俺が動くのを待っていた。どうやら一番覚悟が決まっていなかったのは俺だったらしい。
「言われるまでもない。とっくに準備はできている」
「はい。いつでも」
セレスは剣の柄を握り、リフィはライフルの銃口を油断なく周囲に向けている。その姿はいつものように頼もしい。
俺たちは、まずこの絶望的な状況を打破するための活路を探すべく、屋上の探索を始めた。
来た道を戻るという選択肢は、俺たちの頭の中には最初から存在しなかった。あの明滅する悪夢の通路と、百鬼夜行のファッションショー会場。あそこへ自ら戻るくらいなら、この屋上から飛び降りた方がまだマシだった。
「……何か、地上に降りるための別の道はないのか」
セレスが、屋上の縁に設置されたフェンスに手をかけ、眼下に広がる廃墟の海を睨みつけながら呟いた。その横顔は、まるで難攻不落の城を前にした将軍のように険しい。
「この高さから飛び降りるのは現実的ではありません。たとえセレスの頑強さでも、無事では済まないでしょう」
リフィが冷静に、しかしあまりにも当然の事実を告げる。俺たちは、屋上の縁をぐるりと歩き、貯水タンクの裏や、錆びついた室外機の陰をくまなく調べた。だが、地上へと続くような都合の良いものは、どこにも見当たらなかった。
「くそっ、やっぱり行き止まりか……。戻るしかないのか、あの地獄に……」
俺が絶望的な気分で呟いた、まさにその時だった。
「待て、リュウイチ」
セレスの鋭い声が、俺の弱音を遮った。彼女は、建物の外壁、俺たちが入ってきた非常口の扉とは反対側の側面を、じっと見つめている。
「なんだよ」
「あれを見ろ」
セレスが指さした先。そこには、屋上の床から外壁へと、無骨な鉄製のステップが数段だけ取り付けられていた。そして、そのステップの先、建物の壁面には、地面まで続く長い長い金属製の避難はしごが、まるで巨大なムカデのように張り付いていたのだ。
それはまさに、地獄に垂らされた一本の蜘蛛の糸だった。
「……ははっ。マジかよ。助かった……」
「ふん。どうやら天も我々を見捨ててはいなかったようだな」
俺は安堵のあまりへたり込みそうになったが、セレスはまだ険しい表情を崩していなかった。彼女は無言で鉄のステップを渡ると、避難はしごの前に仁王立ちになる。
「……おい、セレス? 行かねえのか?」
「黙れ。まずは確認する」
そう言うと彼女は、ガントレットに覆われた手で、赤黒い錆が浮いたはしごを鷲掴みにした。そして、次の瞬間。
「ぬんっ!」
という気合一閃。信じられない力で、はしごをガッコンガッコンと揺さぶり始めたのだ。
ギシイイイッ! ゴゴゴゴッ!
壁に固定されたボルトが悲鳴を上げ、建物全体がビリビリと震える。まるで巨大な獣が暴れているかのようだ。
「ちょっ、おい! 壊れる壊れる! それ、俺たちの唯一の命綱なんだぞ!」
「この程度で壊れるようなら、我々の体重を支えられるはずもないだろう!」
セレスはなおも数回、力任せにはしごを揺さぶった後、ふむ、と一つ頷いた。
「……よし。すぐに崩落する危険はなさそうだ。行くぞ」
「あんたの確認方法の方がよっぽど危険だよ!」
俺のツッコミなど意にも介さず、セレスはひらりと身を乗り出し、はしごの最初の一段に足をかけた。
◇
外の空気は淀んでいた。
乾いた埃と金属が錆びついた匂い。そしてどこか甘ったるいような、腐敗した何かの匂いが微かに混じっている。
俺たちは壁に設置された冷たい鉄のはしごを、一歩一歩確かめるように降りていった。
「うわっ、腕がもうパンパンだよ……。ていうか、高えー! マジで高えって!」
俺は数メートル降りただけですぐに泣き言を漏らした。眼下には終わってしまった世界の壮大な墓標が広がっている。ひび割れたアスファルトの道路を走っていたであろう車は、まるでミニカーのように小さい。この高さ、ビルで言ったら十階以上はあるんじゃないか? 錆びてざらざらした梯子の感触が、汗ばんだ手のひらにはやけに頼りなく感じられた。
「黙って降りろ、この軟弱者! 泣き言を言う暇があるなら腕を動かせ!」
俺のすぐ下を、重い鎧を着ているとは思えないほど軽快なペースで降りていくセレスから、容赦ない叱咤が飛んでくる。
「無茶言うな! そっちこそ、よくそんな重装備で平気だな!?」
「ふん。これしきのことで音を上げるようでは、騎士など務まらん」
「……手、滑りそう……誰か助けて……」
「情けない声を出すな! もしお前が足を滑らせても、わたしが下で受け止めてやろう。もっとも、お前ごとわたしの剣で串刺しになるかもしれんがな」
「全然助けになってねえよ!」
そんな馬鹿話をしている間にも、俺たちの遥か上を、リフィが音もなく、まるで重力を無視しているかのようにスルスルと降りてくるのが見えた。エルフ、恐るべし。
この完全な静寂が支配する終末の世界で、けたたましい金属の軋む音と、俺たちの間の抜けた会話だけが、やけに大きく響き渡っていた。
やがて俺たちの足は、ついに硬い地面を捉えた。
デパートの裏口にあたる場所だろうか。そこは巨大なビルとビルの谷間にできた薄暗い路地裏だった。両側を天を突くようなコンクリートの壁に挟まれ、空はセピア色の一本の線となってはるか頭上に見えるだけ。
地面には瓦礫や正体不明のゴミが散乱し、足の踏み場にも困るほどだった。
「……ここからが本番、というわけか」
セレスが剣の柄を握り直し、警戒を解かないまま言った。
その通りだ。
俺たちはようやく、この終末の世界のスタートラインに立ったに過ぎない。
どこへ行けばいいのか。
何を探せばいいのか。
皆目見当もつかなかった。
「とりあえず広い通りに出るぞ。こんな見通しの悪い場所に長居は無用だ」
俺の提案に二人も頷いた。
俺たちは瓦礫を避けながら慎重に路地裏の奥へと進んでいった。
進めば進むほど両側のビルの壁は高くなり、頭上の空はどんどん細くなっていく。まるで巨大な渓谷の底を歩いているかのようだ。
そしてこの世界の異常さは、ここでも俺たちの常識を容赦なく打ち砕いてきた。
ここはただの廃墟じゃない。
もっと根本的に、何かが『違う』場所なのだ。
そんな言いようのない恐怖に背中を押されるようにして、俺たちは無言で歩き続けた。
ただこの薄暗い路地裏から、一刻も早く抜け出したい。その一心で。
◇
どれくらい歩いただろうか。
時間の感覚はとうの昔に麻痺していた。
ひたすら同じような、瓦礫とコンクリートの壁が続く代わり映えのしない景色。
俺の喉はカラカラに乾ききり、腹の虫はもう鳴く元気もなくなったようだった。
精神的にも肉体的にも、限界がすぐそこまで来ている。
俺の足がもつれて瓦礫に躓きそうになった、まさにその時だった。
「……ん?」
俺はふと顔を上げた。
何か光が見えたような気がしたのだ。
このセピア色の、死んだ光しか存在しないはずの世界で、明らかに異質な強い光。
「おい、二人とも。あれ……」
俺が指さした先。
それはこの路地裏が少しだけ開けた、広場のようになっている場所だった。
そしてその広場の一番奥。
古びた雑居ビルの一階部分。
そこだけが、まるでこの世界の法則を完全に無視しているとでも言うかのように、煌々と鮮やかな光を放っていたのだ。
「……なんだ、あれは……?」
セレスが訝しむように目を細める。
その光は蛍光灯の青白い光だった。
俺のいた世界では夜になればどこででも見ることができた、ありふれた光。
だがこの終わってしまった世界においては、そのありふれた光景こそが何よりも異常で不気味なものに見えた。
まるで真っ暗な深海の底で、一匹だけ発光するチョウチンアンコウを見つけたかのような場違い感。
俺たちは何かに引き寄せられるように、その光に向かってゆっくりと歩き始めた。
近づくにつれて光の正体がはっきりと見えてきた。
それは一軒の小さな店だった。
ガラス張りの自動ドア。
その上には緑と青のストライプ模様の見慣れた看板。
そしてその看板には、白いプラスチックの切り文字でこう書かれていた。
「……どこでも……すとあ……?」
俺はそこに書かれていた文字を、無意識に声に出して読んでいた。
どこでもストア。
ふざけた名前だ。
だがその店の佇まいは、俺が元の世界で毎日のように通っていた、あの『コンビニエンスストア』と瓜二つだった。
「……こんびに……?」
俺の喉からかすれた声が漏れた。
馬鹿な。
ありえない。
こんな場所にあるはずがない。
だってこれは、俺がさっき屋上で冗談半分に呟いた願望だったはずだ。
『こんな時、二十四時間いつでも開いてるコンビニでもあれば、最高なんだけどなあ……』
頭の中で自分の声がこだまする。
ぞわり、と背筋を氷の指でゆっくりと撫でられたかのような悪寒が走った。
偶然か?
いや、違う。
この世界に来てから偶然なんてものに一度だって出会ったことがない。
『きさらぎ駅』の時と同じだ。
俺の頭の中にある『情報』が。
俺の口からこぼれ落ちた『言葉』が。
この世界の現実を侵食して、書き換えている……?
「……嘘だろ……」
俺はへなへなと、その場に膝から崩れ落ちそうになった。
もしそうだとしたら。
俺はもはやただの人間じゃない。
この狂った世界の法則を捻じ曲げることができる、一種の『神』のような存在なのか?
いや、違う。
神なんかじゃない。
もっとおぞましい何かだ。
無自覚に自分の悪夢を周囲に撒き散らす、歩く災害。
俺の存在そのものがこの世界にとっての汚染源……。
「おい、リュウイチ! どうした、しっかりしろ!」
セレスが俺の肩を掴んで強く揺さぶった。
その衝撃で俺ははっと我に返った。
「……あれは一体何なんだ? 建物の中から光が漏れている。人がいるのか?」
「……いや、分からん……。でも……」
俺は言葉を濁した。
今、俺の頭の中を渦巻いているこのおぞましい仮説を、彼女たちに話すべきだろうか?
いや、だめだ。
そんなことを話せば、彼女たちは俺のことをどう思うだろう。
化け物を見るような目で俺を見るんじゃないだろうか。
それだけは嫌だった。
「……リュウイチさん」
リフィが静かに俺の名前を呼んだ。
彼女はじっと俺の目を見ていた。
その感情を読み取らせない透き通った瞳が、まるで俺の心の奥底まで全てを見透かしているかのようで、俺は思わず視線を逸らしてしまった。
「……とにかく行ってみるしかないだろ」
俺は震える膝を無理やり立たせるとそう言った。
「罠かもしれない。でも食料が手に入る唯一のチャンスかもしれない。どっちに転ぶかなんて入ってみなけりゃ分かんねえよ」
「……それもそうだな」
セレスが覚悟を決めたように頷いた。
「このままここで飢え死にするよりはマシか」
「……ええ。危険性は承知の上です。ですが他に選択肢はありません」
リフィも同意した。
そうだ。
他に道はないのだ。
たとえこの先に待っているのが、どんな地獄であろうと。
俺たちは進むしかない。
俺たちは三人顔を見合わせると、一つ大きく頷いた。
そして覚悟を決めて、その廃墟の路地裏に不気味なほど明るく輝く一軒のコンビニエンスストアへと、足を踏み入れていった。
俺たちの行く手を阻むものは何もなかった。
ガラス張りの自動ドアが、俺たちが近づくのを待ち構えていたかのように、ウィーン、と間の抜けた電子音を立てて滑らかに両脇へと開いていく。
その機械の作動音が、この死に絶えた世界で初めて聞いた文明の音だった。
店内からひんやりとした空調の効いた空気が俺たちの体を包み込む。
そして俺の鼻孔を、懐かしい匂いがかすかにくすぐった。
淹れたてのコーヒーの匂い。
揚げたてのフライドチキンの匂い。
そして様々な商品が混じり合った独特の、あの匂い。
俺たちはゴクリと唾を飲み込んだ。
そして一歩、また一歩と、その光の中へと足を踏み入れていったのだ。




