第十三話: 屋上からの眺め、あるいは終焉
――ガタン!
背後で、墓石が落ちてきたかのような重たい音がして、俺たちの命運を分けた扉は固く閉ざされた。
それと同時に、今まで脳の芯にまでこびりついていた、あの気の抜けたオルゴールのメロディが、まるで電源をブチッと切られたみたいに、唐突に消え失せる。
「はぁ……っ、はぁ……、はぁ……!」
俺は、床にへたり込んだまま、酸素を求める金魚みたいに必死で口をパクパクさせた。肺が焼けつくように熱い。全身の筋肉が、もうこれ以上は無理だと、情けない悲鳴を上げている。足はガクガクと震え、まるで自分のものではないみたいだった。
「……逃げ、きれた、のか……?」
隣で同じように床に手をつき、荒い息を繰り返していたセレスが、信じられないといった様子で呟いた。彼女の白銀の鎧はところどころ埃で汚れ、額に浮かんだ汗が、美しい金髪に張り付いている。
「……追跡の気配は、ありません。扉の向こうの個体群も、活動を停止しているようです」
リフィが、壁に背を預けながら、かろうじて冷静な分析を口にした。だが、その声も、いつもよりわずかに上ずっている。彼女とて、あの死の鬼ごっこは相当こたえたのだろう。ライフルを握りしめるその指先が、白くなっているのが見えた。
けれど……。
助かった。
本当に、助かったんだ。
その実感が、遅れてやってきた津波みたいに、俺の全身を飲み込んでいく。途端に、張り詰めていた全身の力が、ぷつんと音を立てて切れた。俺はもう、指一本動かす気力も残っていなかった。
「……はは。ははは……。やってやったぜ、ちくしょう……」
俺は、仰向けにゴロンと寝転がると、天井に向かって、乾いた笑い声を上げた。コンクリートの床は、ひんやりとしていて、火照った体にはむしろ心地よかった。
しばらくの間、そこには俺たちの、ぜえぜえという荒い呼吸の音だけが満ちていた。誰も何も喋らない。喋る気力もなかった。ただ、生きているという事実だけを、互いに噛みしめている。そんな、奇妙な一体感が、そこにはあった。
◇
どれくらい、そうしていただろうか。
五分か、十分か。ようやく心臓のバクバクが落ち着いてきた頃、俺は、のろのろと上半身を起こした。
「……さて、と。で、ここはどこなんだ……?」
俺は、改めて周囲を見回した。
俺たちが逃げ込んだ先は、狭い踊り場のような空間だった。正面には、さらに上へと続く、金属製の無骨な階段がある。どうやら、俺たちが飛び込んできたのは、あのバックヤードの、さらにその先の非常階段だったらしい。
壁には、小さな四角い窓が一つだけ、ぽつんと取り付けられていた。薄汚れたガラスがはめ込まれており、外の様子はよく見えない。
「……少なくとも、あの忌々しいマネキンの巣窟ではないことだけは確かだな」
セレスが、忌々しげに吐き捨てながら、ゆっくりと立ち上がった。ガシャリ、と鎧が重たい音を立てる。
「ええ。ですが、この階段がどこに通じているのかは不明です。上に向かうのが、本当に正しい選択なのか……」
リフィが、慎重な意見を述べる。
その通りだった。上に行ったところで、さらにヤバい何かが待ち受けている可能性だって、大いにある。この世界に来てから、俺たちの選択が吉と出たことなんて、一度だってありはしなかったのだから。
「……まあ、でも、下に戻るって選択肢はねえだろ。あのマネキン地獄に、もう一度突っ込むなんて、死んでもごめんだ」
「それもそうだな。……よし、行くぞ。いつまでも、こんなジメジメした場所にいても、気が滅入るだけだ」
セレスの鶴の一声で、俺たちの進むべき道は決まった。
俺たちは、一歩一歩、確かめるように、金属の階段を上り始めた。カン、カン、と、俺たちの足音が、狭い空間に無機質に反響する。
階段は、それほど長くはなかった。三十段ほど上ったところで、踊り場があり、そこには、またしても金属製の扉が一つ、俺たちの行く手を塞ぐように、どっしりと構えていた。
さっきの扉と違うのは、ドアノブの代わりに、太い金属のバーが横向きに取り付けられている点だった。俺のいた世界では、非常口でよく見るタイプだ。『押す』と書かれたプレートが、そのバーの上に貼られている。
「……この扉の向こう、か」
セレスが、ゴクリと唾を飲み込んだ。
俺も、リフィも、無言で頷く。
さあ、次は何が出てくる?
今度は、どんな悪夢が、俺たちを出迎えてくれるんだ?
俺は、深呼吸を一つすると、代表して、その金属のバーに手をかけた。ひやりとした、冷たい感触。
「……いくぞ」
俺は、全体重をかけるようにして、バーをぐっと押し込んだ。
ギイイイイ……ッ、と、錆びついた蝶番が、耳障りな悲鳴を上げる。
扉は、ゆっくりと、しかし、拒むことなく、外側へと開かれていった。
そして。
扉の隙間から、今までとは全く違う種類の『空気』が、俺たちの頬を撫でていった。
それは、デパートの中に満ちていた、空調の効いた乾いた空気ではなかった。もっと自然で、少しだけ湿り気を含んだ、本物の『外』の空気。
それと同時に、俺の目に、一つの『色』が飛び込んできた。
赤色。
それも、鮮やかな赤色じゃない。まるで、何十年も前に撮られた古い写真が、陽に焼けて色褪せてしまったかのような、くすんだ、セピア色の赤黄色。
「……なんだ……?」
俺は、完全に開いた扉の向こう側へと、一歩、足を踏み出した。
足元は、ざらりとしたコンクリートの感触。
目の前に、遮るものは何もなかった。
ただ、どこまでも、どこまでも広がる、空があった。
あの、セピア色の、空が。
「……屋上……?」
俺の口から、呆然とした呟きが漏れた。
そうだ。ここは、あの巨大な廃デパートの、屋上だったのだ。
俺たちのすぐそばには、巨大な貯水タンクや、今はもう動いていない、錆びついた室外機が、墓標のようにいくつも並んでいる。床のコンクリートは、あちこちがひび割れ、その隙間から、枯れた雑草が、申し訳程度に顔を覗かせていた。
俺に続いて、セレスとリフィも、屋上へと足を踏み出す。
そして、俺と同じように、言葉を失った。
「……これは……」
セレスが、絞り出すような声を上げた。
俺たちは、三人、吸い寄せられるようにして、屋上の縁、落下防止のために設置された、腰ほどの高さのフェンスのそばまで、ふらふらと歩いていった。
そして、そこで、俺たちは、見てしまったのだ。
この世界の、本当の姿を。
「……うそ、だろ……」
眼下に広がっていたのは、俺が期待していたような、元の世界の、見慣れた街並みなんかではなかった。
そこにあったのは、都市の『死骸』だった。
地平線の、そのまた向こうまで、延々と続く、広大な廃墟の海。
天を突き刺すように建っていたはずの高層ビルは、無残にへし折れ、その断面を、恥部のように、夕暮れ色の空に晒している。かつては、何万台もの車が行き交っていたであろう高速道路は、途中で寸断され、まるで巨大な蛇の骨だけが残されたかのようだ。家々も、建物も、その全てが、灰色か、茶色か、あるいは黒く焼け焦げた色をして、ただ、黙って、そこに在った。
風の音すら、聞こえなかった。
聞こえるのは、完全な、耳が痛くなるほどの静寂だけ。
まるで精巧に作られた、文明の墓場。そう言われた方が、まだ信じられたかもしれない。
そして、その全てをセピア色の色褪せたような黄昏らしい光が、平等にすべてを照らし出していた。
ここは終わっている。世界が。それを構成する、その全てが終わっていた。
それも、終わってから、もう、ずいぶんと長い時間が経っている。
この光景は、何よりも雄弁に、その事実を物語っていた。
ここもまた、俺たちが冒険し、スローライフを送るはずだった、あのファンタジーな異世界なんかじゃない。
ただ、別の絶望に満ちた異世界でしかないのだ、と。
その事実を、俺たちは、改めて、骨の髄まで叩き込まれた。
「……なんということだ……。ここもまた我々の知る世界ではない、ということか……」
セレスが、フェンスを掴むその指先に、ギリ、と力が入る。
彼女の横顔は、怒りとも、悲しみともつかない、複雑な色を浮かべていた。
「……この都市は、完全に機能を停止しているのでしょう」
リフィが、淡々と、しかし、どこか力なく告げた。
俺は、もう何も言えなかった。
ただ、目の前の、壮大で、美しい、そして何よりも残酷な終末の風景を、呆然と眺めることしかできなかった。
だが。
不思議と、心は、少しだけ、軽かった。
あの、閉鎖されたデパートの中で、マネキンたちに追い詰められていた時の、息が詰まるような圧迫感はない。
どこまでも広がる、この空と廃墟の海。
そこには、絶望と同時に『解放感』があったのだ。
少なくとも、今は、何かに追いかけられる心配はない。
瞬きを我慢する必要もない。
ただ、それだけのことが、今の俺たちにとっては、何よりの救いだった。
「……ははっ」
俺は、フェンスに体重を預けながら、力なく笑った。
「……ま、いっか。とりあえず、あのマネキン地獄からは、抜け出せたんだしな」
俺の、あまりにも能天気な言葉に、セレスが、呆れたような、それでいて、少しだけ毒気を抜かれたような顔で、俺を見た。
「……お前は、本当に……。この状況で、よくもそんなことが言えるものだな」
「だって、しょうがねえだろ。いちいち絶望してたら、身が持たねえよ。それに……」
俺は、大きく息を吸い込んだ。
淀んで、埃っぽい。だが、間違いなく、外の空気だ。
「……空気が、うまい」
俺の言葉に、セレスは、ふっと、本当に、かすかに、その口元を緩めた。
「……馬鹿者め」
その呟きは、いつものような、棘のあるものではなかった。
俺たちは、それきり、何も喋らなかった。
ただ、三人が並んで、終わってしまった世界の景色を眺め続けていた。
マネキンの脅威から解放された安堵感と、この先の未来に対する、途方もない絶望感。
その二つがセピア色の空の下で、静かに俺たちの心を満たしていく。
◇
「……さて、と」
しばらく、そうしていただろうか。
最初に沈黙を破ったのは、俺だった。
俺は、フェンスから体を離すと、その場にごそりと座り込んだ。
「これから、どうすっかな……」
「どうする、と言われてもな。まずは、この建物を降りて、地上を探索するしかないだろう。何か、手がかりが見つかるかもしれん」
セレスが、現実的な提案をする。
「そうですね。この屋上には、水も、食料になりそうなものも、見当たりません。長居は無用です」
リフィも、それに同意した。
食料。
その単語を聞いた瞬間、俺の腹が、ぐううううう、と、情けない音を立てた。
そういえば、腹が減った。
あの『きさらぎ駅』で、リフィのレーションをひとかけら食べたきり、何も口にしていない。マネキンとの死闘で、アドレナリンが出まくっていたせいで、すっかり忘れていた。
「……すまん」
「……いや。わたしもだ」
俺が謝ると、セレスも、バツが悪そうに、自分のお腹を押さえた。彼女の腹も、今、小さく、きゅる、と鳴ったのを、俺は聞き逃さなかった。
「私のバックパックに、まだ、最後のレーションが残っています。三人で分ければ、指の先ほどにしかなりませんが……」
リフィが、申し訳なさそうに言う。
指の先ほどの、レーション。
それは、もはや、気休めにすらならないだろう。
俺たちの食料は尽きたのだ。
この、広大な廃墟都市の、ど真ん中で。
「……はは。いよいよ、本格的に、詰んできたな……」
俺は、空を見上げながら、乾いた笑いを漏らした。
セピア色の空は、相変わらず、何も語らない。
「あー……なんかこう、ガツンと来るもん、食いてえなあ……」
俺は、半ば、独り言のように呟いた。
こんな状況だっていうのに、俺の脳裏に浮かんでくるのは、元の世界で食い慣れた、ジャンキーな食べ物の数々だった。
「脂っこい豚骨ラーメンとか、チーズがどろどろにかかったピザとか……。ああ、あと、袋を開けた瞬間に、コンソメの匂いがぶわって広がる、ポテトチップスとか……」
「……ぴざ? ぽてとちっぷす?」
セレスが、不思議そうな顔で、俺の言葉を繰り返す。
「ああ、俺のいた世界の食い物だよ。体に悪いって分かってんだけど、無性に食いたくなるんだ、ああいうのが」
「……ふん。わたしは、騎士団の食堂で出されていた、猪肉のシチューが食べたいな。香味野菜をたっぷり入れて、丸一日煮込んだ、あれは絶品だった……」
セレスが、遠い目をして言う。よほど、思い出の味らしい。
「私の故郷では、夜光茸のスープをよく飲みました。月の光を浴びて、青白く光る茸を、清らかな泉の水で煮込むのです。とても、心が安らぐ味がしました……」
リフィも、珍しく、懐かしむような声で言った。
ラーメン、シチュー、カレー。
どれも、今の俺たちにとっては、決して手の届かない、おとぎ話の中の食べ物だ。
話しているだけで、余計に腹が減ってくる。
俺は、ごくりと喉を鳴らし、最後に、一番、今の俺が欲しているものを、口にした。
それは、冗談のようで、それでいて、心の底からの、切実な願いだった。
「はぁ……。こんな時、なんでも売ってる店……そうだな、二十四時間、いつでも開いてるコンビニでもあれば、最高なんだけどなあ……」
俺は他人事のように語った。




