第十一話: 異世界ファッションショー(偽)
オルゴールのBGGMだけが、やけに明るくホールに鳴り渡っている。俺たちの額からは、玉のような汗がいくつも流れ落ちていた。目が、目が痛い。コンタクトレンズが張り付いたみたいに、眼球が乾いていくのが分かる。
「……瞬き、します」
リフィ。か細い宣言。
「了解! 左翼、カバーする!」
俺とセレスが、必死に視界の端でリフィの担当エリアを睨む。
パチリ。
リフィの瞬きは、コンマ一秒にも満たない、完璧なものだった。よし、動いてない。
「……次、わたしだ!瞬きするぞ!」
今度はセレス。
「おう! 前方、任せろ!」
「よし!」
セレスの瞬きも、無事にクリア。
この地獄の連携にも、少しは慣れてきた。だが、エスカレーターまでは、まだ三十メートル以上ある。果てしない。まるで、ゴールテープがどんどん遠ざかっていく、悪夢のマラソンだった。
何分、そうしていたか。
体感では三十分は経過した気がするが、実際は五分も経っていなかったのかもしれない。俺たちは、じり、じりと、亀よりも遅い歩みで、ようやく目的のエスカレーターのたもとへとたどり着いた。
「……よし! 乗るぞ!」
俺は、ほとんど呻くように言った。
上り専用のエスカレーター。それは、ゆっくりと、しかし止まることなく、上の階へと俺たちを誘っている。ここを上がれば、とりあえず、このマネキン地獄からは解放されるはずだ。
俺が先頭で、エスカレーターに足を乗せる。続いてリフィ、そして、しんがりはセレスだ。俺たちは、エスカレータの上から、一階にいるマネキンたちを監視した。
そう。俺たちはその視界を、エスカレータ前周辺に固定していれば、一階のマネキン連中はどうあがいても2階に上ることは出来ないだろう!
「勝ったな!」
嬉しそうにセレスが叫ぶ。
「ああ、うおっ、とと……!」
ちょっと驚いてしまった俺は、バランスを崩しかけて、慌てて手すりを掴んだ。
視界が、ゆっくりと、本当にゆっくりと、上昇していく。一階のホールが、どんどん小さくなっていく。
俺たちを囲んでいたマネキンたちが、まるで観客のように、俺たちを見上げていた。どいつもこいつも、同じポーズのまま、ピクリとも動かない。それが、逆に、底知れない不気味さを感じさせた。
「……二階だ。着くぞ」
やがて、エスカレーターは、俺たちを二階のフロアへと吐き出した。
そして、俺たちは、言葉を失った。
「……ははっ」
乾いた笑いしか、出てこなかった。
「……これは……少し、厄介ですね」
リフィですら、その声に、明確なうんざりとした色が浮かんでいる。
「……なん、だと……?」
セレスに至っては、絶句していた。
二階は、婦人服のフロアだった。
そして、そのフロアは、一階の比ではない、おびただしい数のマネキンで、完全に埋め尽くされていたのだ。
通路という通路、ショーウィンドウの中、そして、なぜか天井からも、ワイヤーで吊るされているやつまでいる。その数、ざっと見て、百は下らないだろう。どいつもこいつも、色とりどりのドレスや、お洒落な普段着に身を包み、まるで、これから始まる華やかなパーティーを待ちわびているかのように、あるいは、ファッションショーのランウェイを歩いているかのように、エレガントで、優雅で、そして生命感のないポーズを決めていた。
フロア全体が、一つの巨大な狩場。
悪趣味な、マネキンたちによる一方的なファッションショー。
そのど真ん中に、俺たちは、今、立たされていた。
「どうするんだよ、これ……! どっちを見ればいいんだ!」
俺はパニックになりかけた。前も後ろも、どちらも危険すぎる。前方の百鬼夜行を警戒すれば、背後の一階から追手が来るかもしれない。だが背後を気にすれば、目の前の軍勢が一斉に襲ってくる。三人しかいない俺たちの視線を、どうやって配分すればいい? 無理だ。どう考えたって、リソースが足りていない。
その時、セレスが動いた。彼女は、ガキン、と音を立てて剣を抜き放ったのだ。
「セレス!? 剣を抜いてどうするんだ、攻撃は効かねえって……!」
俺が思わず叫ぶと、セレスは呆れたように、しかしその瞳には確かな自信を宿して言い放った。
「馬鹿者め。武器として使うのではない。……『鏡』として使うのだ」
「鏡……?」
セレスは、俺たちの前に立つと、その磨き上げられた白銀の剣を、目の高さに水平に構えた。鏡面のように輝く刀身。そこに、俺たちの背後にある、一階のエスカレーターの降り口が、魚眼レンズで覗いたように歪んで、しかしはっきりと映り込んでいる。
「わたしがこの剣で後方を監視する。リュウイチ、リフィ、お前たちは前方に集中しろ。だが、時折この剣に映る光景を確認し、わたしの死角を補え。三人で、前後同時に監視するんだ!」
その発想に、俺は思わず舌を巻いた。そうだ、こいつはただ腕が立つだけの脳筋騎士じゃない。絶望的な戦況を覆すための、本物の知恵と覚悟を持った指揮官なのだ。
「……すげえな、あんた」
「ふん。当然だ。……行くぞ!」
セレスの号令一下、俺たちの新たな、そしてさらに過酷な監視行軍が始まった。俺とリフィは前方のマネキンの海を、セレスは剣に映る背後の脅威を。俺たちは三位一体となって、この二正面作戦という絶望的な状況に立ち向かう。
だが、状況はすぐにまた悪化した。
「……おいおいおい、嘘だろ……。これ、どうやって通るんだよ……」
俺は、呆然と呟いた。
通路は、マネキンたちで完全に塞がれている。前に進むには、やつらの間を、体をこするようにして、すり抜けていくしかない。だが、そんなことをすれば、どうしたって死角が生まれる。視線を外した瞬間、背後や真横のマネキンに、何をされるか。想像しただけで、全身の毛が逆立った。
「……指数関数的、という表現が、これほど的確な場面も珍しいな」
「感心してる場合か、セレス!これ、完全に詰んでるじゃねえか!」
「詰んではいません。道は、あります」
リフィが、静かに言った。彼女の視線は、フロアの一点に、じっと注がれている。
「道?どこにだよ」
「あちらです」
リフィが顎で示した先。それは、このフロアを突っ切った、一番奥。三階へと続く、上りのエスカレーターだった。
あるのは分かってるよ、そんなこと。問題は、そこへどうやってたどり着くかだ。
「……突破するしかない、ということか。この、化け物の群れを」
「無理だろ! 一階の比じゃねえぞ! 三人で監視できる数なんて、とっくに超えてる!」
「ええ。ですから、監視するという前提を、一度、棄却します」
「はあ?」
リフィの、突拍子もない言葉に、俺は間抜けな声を上げた。
「どういう意味だ、リフィ」
セレスが、剣を構えたまま、訝しげに問いかける。
「言葉通りの意味です。監視し続けることで、これらの個体の活動を抑制する。このルールは、理解しました。ですが、それは、我々が『何もしない』場合のルールです」
「……何が言いたい」
「もし、こちらから、積極的に『何か』を仕掛けた場合。このルールに、何らかの変化が生じる可能性はないか、と。そう考えたのです」
リフィは、そう言うと、静かに、背負っていた対物狙撃銃を構えた。黒光りする、長大な銃身。その銃口が、一体のマネキンへと、まっすぐに向けられる。ターゲットは、通路の真ん中で、片足を上げて、バレリーナのようなポーズを取っている、真っ赤なドレスのマネキンだ。
「リフィ! よせ! 無駄だって、さっきの『きさらぎ駅』で分かっただろ! 物理攻撃は効かねえんだよ!」
俺は、慌てて制止しようとした。
「あの『片足の個体』には、通用しませんでした。ですが、これらの個体が、あれと全く同じ性質を持つという保証は、どこにもありません」
リフィは、スコープを覗き込みながら、淡々と続けた。
「可能性が、たとえ一パーセントでも存在する方に、賭けるべきです」
カチャリ、と。ボルトを操作する、冷たい金属音がした。
その音は、彼女の意思を何よりも雄弁に物語っていた。
俺も、セレスも、もう何も言えなかった。リフィの言う通りだったからだ。このままじゃ、どのみち詰む。だったら、ヤケクソでも何でも、何かをしてみるしかない。
「……分かった。やれ、リフィ。だが、もしもの時は、すぐに援護する。だから、無茶だけはするな」
セレスが、覚悟を決めた声で言った。
「援護は不要です。お二人は、私が撃った個体、以外の全てのマネキンを、全力で監視してください。射撃の反動で、私が一瞬、対象から視線を外す可能性があります。その隙を、絶対に作らないでください」
「……分かった。お前の背中は、俺たちが守ってやるよ」
俺は、ゴクリと唾を飲み込んだ。
フロアには、相変わらず、場違いなオルゴールのBGMが流れ続けている。
リフィが、ゆっくりと息を吸い込むのが、すぐ隣で分かった。
俺とセレスは、リフィが狙う一体を除く、周囲の、ありとあらゆるマネキンを、目が張り裂けんばかりに睨みつけた。右も、左も、正面も、そしてセレスは剣に映る背後も。視界が、情報量でパンクしそうだ。頭が、ガンガンと痛みを訴え始める。
そして。
リフィの細い指が、引き金にかかる。
――チュイイイイイイン!
鼓膜を突き刺す、甲高い発射音。
マズルフラッシュが、リフィの無表情な横顔を、一瞬だけ青白く照らし出した。
放たれた弾丸は、見えない赤い線となって、一直線に、バレリーナのマネキンへと突き進む。
リフィが狙ったのは、マネキンの、華奢な首の付け根。人体の構造で言えば、一撃で絶命する、急所中の急所だ。
着弾。
俺は、その瞬間を、確かに見た。
だが、俺が予想していたような、木っ端みじんに砕け散る、といった派手な現象は起きなかった。
カンッ!
とんでもなく硬い金属同士がぶつかったような、甲高く、そして乾いた音が、フロア中に響き渡った。
リフィの放った、鉄甲弾すら貫くであろう強力な弾丸は。
まるで、透明な、分厚い壁にでもぶつかったかのように、火花を散らしながら、あらぬ方向へと弾き飛ばされたのだ。
弾かれた弾丸は、近くの柱に深々と突き刺さり、コンクリートの破片をまき散らした。
そして。
ターゲットにされた、バレリーナのマネキン。
その首筋には。
傷一つ、ついていなかった。
ヒビ一つ、入っていなかった。
焦げ跡一つ、残っていなかった。
まるで、今、自分に何が起きたのか、全く分かっていないとでも言うかのように。あるいは、全く気にしていないとでも言うように。
ただ、優雅なポーズのまま、そこに、たたずんでいる。
「……だめ、でしたか」
リフィが、ぽつりと、呟いた。
その声には、さすがに、わずかな落胆の色が浮かんでいた。
俺たちは、改めて思い知らされた。
こいつらは、俺たちの常識や物理法則が、一切通用しない、と。
俺の心には、重たい絶望感が、ずしりとのしかかってきた。
「……くそっ……。やっぱり、ダメか……!」
「ああ。小細工は、通用せん、ということらしいな」
セレスが、忌々しげに吐き捨てる。
リフィの一撃は、何の効果ももたらさなかった。いや、違う。
一つだけ、変化があった。
俺たちの、ほんのわずかな希望を、完膚なきまでに叩き潰した。
それだけが、この射撃がもたらした、唯一の結果だった。
差し当たりのないメロディが、まるで、俺たちの無力さを、あざ笑っているかのように、軽やかに流れ続けていた。




