第十話: 三人寄れば文殊の…監視
「視線を逸らすなッ! 絶対に、あのマネキンから、目を離すな!瞬きもするなァッ!!」
俺の、ほとんど金切り声に近い絶叫が、場違いに明るいオルゴールのBGMが流れるデパートのホールに、空しくこだました。
セレスとリフィは、何が起きたのか分からないといった顔で、俺と、俺が指さす白いマネキンを交互に見ている。その視線には、いきなり錯乱した哀れな男を見るような、憐憫と困惑が入り混じった色が浮かんでいた。無理もない。ファンタジー世界の騎士とエルフに、「瞬きをしたら死ぬ動く彫像」の概念を理解しろと言う方が土台無理な話だ。だが、今はその、あまりにも常識的な反応が、俺たちの生存フラグを根元からへし折ることになるんだ!
「リュウイチ、貴様、いきなり何を大声で……! 少しは落ち着け! 頭がおかしくなったか!」
セレスが、眉間に深い皺を刻み、咎めるような鋭い声で言った。彼女の手は、すでに腰の剣の柄にかかっている。目の前の訳の分からない状況よりも、まずは錯乱した仲間を黙らせる方が先決だと判断したのだろう。その判断力は騎士として正しい。正しいが、今は致命的に間違っている!
「落ち着いてられるか! いいから! 頼むから、俺を信じてくれ! あんたが今、俺の方を見た、そのほんの一瞬で! あいつは、動いたんだよ!」
俺は半狂乱のまま、必死に訴えかける。俺の鬼気迫る様子と、切迫した声に含まれた本物の恐怖の色を、さすがのセレスも感じ取ったらしい。彼女は一瞬言葉を詰らせたが、すぐに疑わしげな表情のまま、改めてマネキンへと視線を向けた。
「動いた、だと……? 馬鹿なことを。わたしが見ている限り、あれは微動だにしていないぞ。ただの彫像ではないか」
「だから、その『見ている限り』が罠なんだって! 見られてない間だけ、動けるんだよ、こいつは!」
「……確かに」
セレスの訝しむ声に、氷のように冷静な、しかし、どこかガラスの表面を爪で引っ掻くような硬質さを帯びた声が割り込んだ。リフィだった。彼女はライフルのスコープを覗くのをやめ、肉眼でじっとマネキンを観察しながら、静かに事実を告げた。
「私たちがリュウイチさんと会話を始めた位置から、あの彫像との距離は、確実に縮まっています。私の歩幅で、およそ三歩分」
「……は?」
セレスの間抜けな声が漏れる。彼女が、そして俺も、リフィの言葉に促されて、改めてマネキンの位置を確認した。
リフィの言う通りだった。
さっきまで、十数メートルは離れていたはずの白いマネキン。それが今、どうだろう。五メートル、いや、もっと近いかもしれない。床には、引きずったような跡は一つもない。音も、気配も、一切ない。ただ、結果として、距離だけが縮まっている。その事実が、何よりも雄弁に、この状況の異常さを物語っていた。
「な……」
セレスの喉から、今度は言葉にならない、息を飲む音だけが漏れた。彼女の顔から、血の気がサッと引いていくのが分かる。歴戦の騎士である彼女ですら、理解の範疇を超えたこの現象に、本能的な恐怖を覚えているのだ。美しい顔立ちが、まるでこのマネキンと同じ、陶器のように真っ白になっていた。
「分かっただろ!? こいつは、そういう化け物なんだよ! 俺のいた世界じゃ、割とメジャーなタイプの怪異なんだ! ゲームとか、ネットの怖い話とかで、もう何度も……!」
俺の脳裏には、かつて寝る間も惜しんで読みふけった電子掲示板のスレッドや、世界中を恐怖に陥れたフリーゲームの記憶が、濁流のように蘇っていた。そうだ、ルールは単純にして、最悪。
「……つまり、我々は、あれから視線を外してはならない、と。そういうことか」
セレスが、ようやく事態を完全に飲み込んだらしい。だが、その顔は納得とは程遠い、この世界の理不尽さに対する深い嫌悪と、純粋な恐怖に満ちている。
「そういうこと! そして、最悪なことに、このルールにはまだ続きがあるんだ! 瞬き! まぶたを閉じる、ほんのコンマ数秒ですら、こいつにとっては『見られていない』時間としてカウントされる!」
「……なんですって?」
今度はリフィが、わずかに目を見開いた。彼女の表情が動くのを、俺は初めて見たかもしれない。その、感情という名の湖面に、小さな石が投げ込まれたかのような、微かな波紋。
「じゃあ、どうしろと言うんだ! 人間は瞬きをしなければ、目が乾いてしまうだろうが! それに、そんな子供だましのような法則で動く敵と、どう戦えと!?」
セレスが、ほとんど叫ぶように言った。騎士である彼女の誇りが、こんな不条理で、姑息な敵の存在を許せないのだ。その気持ちは痛いほど分かる。だが、こいつに騎士道精神は通用しない。
「戦うんじゃない! これは、戦いじゃないんだ! ゲームなんだよ! しかも、こっちにはルールブックが開示されていない、最悪のクソゲーだ! だから、生き残るためには、こっちもゲームのルールに従うしかない! 連携が必要なんだよ! 三人で、協力して、常に誰か一人は、あのマネキンを見続けている状態を作るんだ!」
俺は、自分の立てた、あまりにも情けなく、そして唯一の作戦を、唾を飛ばさんばかりの勢いで説明した。
俺、セレス、リフィ。三人いる。これは不幸中の幸いだ。もし一人だったら、完全に詰んでいた。
三人いれば、ローテーションを組める。誰か一人が瞬きをする時、残りの二人が、その分、集中してマネキンを監視する。そうやって、この場を切り抜けるんだ。
「……馬鹿馬鹿しい。そんな、子供の遊びのようなことが、本当に通用するとでも?」
「通用させるんだよ! 他に手があるか!? リフィの銃も、あんたの剣も、さっきの『きさらぎ駅』の片足野郎と同じで、多分こいつには効かねえぞ!」
俺の言葉に、セレスはぐっと唇を噛んだ。彼女も、物理攻撃が通用しない相手の厄介さは、身に染みて分かっているはずだ。
俺たちのやり取りの間も、白いマネキンは、ただじっと、そこに立っている。前衛的なポーズのまま、こちらに背を向けて。まるで、俺たちの作戦会議が終わるのを、辛抱強く、そしてどこか楽しむように待っているかのようだ。そのことが、余計に俺たちの神経を逆なでした。
「……分かりました。リュウイチさんの提案に乗りましょう。現時点では、それが最も生存確率の高い選択だと判断します」
最初に同意したのは、やはりリフィだった。彼女は、いつもの冷静さを取り戻し、ライフルのスコープを覗くのをやめ、肉眼でマネキンを捉え続けている。その瞳は、まるで精密機械のように、対象の微細な変化も見逃すまいと、完璧な静止状態を保っていた。
「リフィ、お前まで……!」
「セレス。今は、リュウイチさんの知識を信じるべきです。彼の言う『ルール』が、現に我々の目の前で証明されているのですから。騎士としての誇りも重要ですが、今は生き残ることを最優先にすべきです」
「…………そうだな、分かった」
リフィの、一切の感情を排した、あまりにも正論な説得。それに、セレスは、深々と、本当に深々とため息をつくと、不承不承といった体で頷いた。
「……だが、今回だけだぞ。そのふざけた遊びに付き合ってやるのは」
「遊びじゃねえ、これは生き残るためのゲームだって、何度言ったら……!」
俺は言い返しながらも、内心で安堵の息を漏らしていた。よし、これで第一段階はクリアだ。まずは、この異常な状況に対する共通認識を持つことができた。
だが、問題はここからだった。俺の安堵は、一秒と持たなかった。
「……おい、リュウイチ」
「なんだよ」
「一つ、聞き忘れていた。あのマネキンは、まさかとは思うが……一体だけ、なのか?」
セレスの、至極もっともな、そして俺が心のどこかで考えないようにしていた、最悪の疑問。
その言葉に、俺は凍りついた。
そうだ。
今まで、目の前の一体に気を取られすぎて、周囲を確認することを、すっかり、完全に、忘れていた。
このだだっ広い、巨大なデパートのエントランスホール。こんな場所に、マネキンがたった一体だけ、ぽつんと置かれている方が、むしろ不自然じゃないか?
俺は、ゴクリと乾いた喉を鳴らした。
「……セレス、リフィ。悪いが、頼む。俺が周りを見る。その間、絶対に、最初のやつから目を離さないでくれ。瞬きも、我慢してくれ」
「……ああ、分かった」
「了解しました」
二人の、信頼に満ちた返事。俺はそれに背中を押されるようにして、ゆっくりと、本当にゆっくりと、首だけを動かした。視界の端で、常に最初のマネキンの白い背中を捉え続けながら。
そして、俺の淡い期待は、薄汚れたガラス細工のように、音を立てて粉々に砕け散った。
「……嘘だろ……」
いた。
いるわ、いるわ。
悪趣味な、沈黙の観客たちが。
俺たちの右手、少し離れた婦人服売り場の、華やかなショーウィンドウの前。そこには、最新の流行の、鮮やかな色のドレスに身を包んだ、三体の女性マネキンが、まるで親密な噂話でもしているかように、互いに向き合って立っていた。
左手、カラフルな装飾が施された子供服売り場。そこには、小さな男の子と女の子のマネキンが、仲良く手をつないで、今まさにスキップをしようとしている、その楽しそうな一瞬で、永遠に固まっていた。
さらに奥、重厚な雰囲気の紳士服売り場の前では、ビシッと上質なスーツを着こなした男性マネキンが、腕を組んで、いかにも仕事ができそうな、エリートビジネスマンといった風情で、虚空を睨みつけている。
視線を上に向ければ、吹き抜けになっている二階の通路の手すりから、上半身だけのマネキンが、まるで身を乗り出すようにして、こちらを『見て』いる。
天井からは、ワイヤーで吊るされた何体ものマネキンが、まるで首を吊った死体のように、ゆらり、ゆらりと、空調の微かな風に揺れていた。
ざっと視界に入るだけでも、十体、いや、二十体は下らない。
俺たちは、いつの間にか、この動く彫像たちの、ど真ん中に、まんまと迷い込んでいたのだ。
それらは、まるで俺たちの視界の死角を計算し尽くしているかのように、絶妙な配置で、俺たちを包囲していた。
「……どうやら、答えは『否』のようだな」
俺の絶望的な沈黙から全てを察したセレスが、絞り出すような、絶望を押し殺した声で言った。
「これは……少し、厄介ですね」
リフィですら、その声にわずかな硬さが加わっているのが分かった。
まずい。
非常に、まずい。
一体だけでも、神経をすり減らす拷問のような作業だというのに、これが二十体以上?
無理ゲーにもほどがあるだろ! どんなクソゲー開発者だって、こんな理不尽なステージは設計しねえぞ!
「……どうする、リュウイチ。お前の言う『ゲーム』とやらは、完全に詰んでいるようにしか見えんが」
「詰んで、ねえ……。詰んでなんかいられるか……!」
俺は、乾いた喉から、絞り出すように言った。
そうだ。ここで諦めたら、本当に終わりだ。思考を止めるな。活路は必ずあるはずだ。どんなクソゲーにも、攻略法は、ある。
「……待て。いや……待てよ……」
セレスが、何かを考え込むように、険しい顔で唸った。彼女の視線は、フロア全体を、まるで戦場の地形を把握しようとする将軍のように、鋭く見据えている。
「どうしたんだよ、セレス」
「……リュウイチ。目標は、この階層からの脱出。それで間違いないな?」
「ああ、そうだけど……」
「ならば、道は一つしかない」
セレスは、決然とした口調で、ホールの奥、銀色に輝く機械の階段を、顎で指し示した。
「あそこのエスカレーターだ」
「だから、そこまでどうやって行くかって話だろ! こいつら全員を監視しながらなんて、無理に決まって……」
「全員を監視する必要はない」
セレスは、俺の言葉を遮った。
「よく考えろ、リュウイチ。あのエスカレーターという装置は、一本道だ。そして、上の階層へと続く、一方通行の通路でもある。つまり、我々があの装置に乗ってしまえば、どうなる?」
「どうなるって……」
俺は、セレスの言葉の意味を必死に理解しようとした。エスカレーターに乗れば……?
「……! そうか!」
俺は、思わず声を上げた。分かってしまった。セレスの言わんとすることが。
「我々が監視すべき対象は、劇的に減る! エスカレーターに乗っている間、我々の背後、つまり、この一階フロアから追ってくる敵だけを警戒すればいい! しかも、敵が侵入してくる経路は、エスカレーターの乗り口、ただ一点だ! そこだけを三人で睨みつけていれば、こいつらは一歩も上がってくることができない!」
「そうだ」
セレスは、静かに頷いた。
「完璧な監視対象の限定。そして、絶対的な防衛地点の確保。あれは、この絶望的な盤面における、唯一の『要衝』だ」
セレスの、あまりにも的確な戦術眼。それは、ただの騎士ではない。幾多の戦場を駆け抜け、部隊を指揮してきた者だけが持つ、本物の洞察力だった。
「……なるほど。確かに、あの装置までたどり着きさえすれば、膠着状態に持ち込めます。いえ、一方的に我々が優位な状況を作り出せる。素晴らしい判断です、セレス」
リフィも、その作戦の有効性を即座に理解し、称賛の言葉を口にした。
「ふん。当然だ。……だが、問題は、どうやってあの要衝までたどり着くか、だ。ここからエスカレーターまでは、およそ五十メートル。この、化け物どものど真ん中を、どうやって突破する」
そうだ。最大の難関は、そこだった。
俺は、自分のサブカル知識を総動員して、打開策をひねり出した。
「……フォーメーションを組むぞ」
「ふぉーめーしょん?」
「陣形だよ、陣形! 三人で、三角形の陣形を組むんだ! 俺が前衛! 正面と、進行方向右側のやつらを監視する! リフィは左翼! 左側のやつらを頼む! そして、セレスは後衛だ! 俺たちの背後と、右翼の一部をカバーしてくれ! 絶対に、自分の担当から目を離すな! ゆっくり、一歩ずつ、確実に、エスカレーターを目指す!」
俺の、あまりにも付け焼き刃な指示に、セレスは一瞬呆れたような顔をしたが、すぐに「……まあ、悪くない」と頷いてくれた。
「よし、決まりだ! まず、瞬きの練習からだ!」
「練習だと!?」
「ああ! さっきのセレスみたいに、力んで目を閉じかけたら、それだけでアウトだ! だから、宣言制にする! 『瞬きします』と宣言してから、一瞬で、パッと閉じて、パッと開く! いいな!」
「くっ……! なぜわたしが、そんな子供みたいな真似を……!」
「死にたくなければやるんだよ! リフィ、いいな!」
「……了解しました。合理的です」
こうして、俺たちの、奇妙で、滑稽で、そして極度に緊張を強いられる、地獄の行軍が始まることになった。
俺たちは、三角形の陣形を組むと、息を殺し、それぞれの担当範囲にいるマネキンたちを、目が張り裂けんばかりに睨みつけた。
「……よし。まず一歩、進むぞ。俺の合図で、ゆっくりだ。……せーの!」
俺の掛け声に合わせて、俺たちは、まるで生まれたての小鹿のように、おそるおそる、震える足で、第一歩を踏み出した。
視線は、それぞれの担当マネキンに、焼き切れるほどに固定したまま。
マネキンたちは、動かない。
よし、いいぞ。成功だ。
この調子で、あと五十メートル。
果てしない。
だが、やるしかない。
俺たちの、絶望的な脱出劇が、今、静かに幕を開けた。




