12.3. 希望の写真集と絶望の写真集
雨がまた、東京に強く降っている。時々、雷が空中に光ったりとかが見えたし、爆発らしく恐怖な音が聞こえた。その時、浅草から厚喜さんの豪邸への道は砂から泥だらけに変わった。うち達の車の車輪は摩擦が足りなかったら、雨水と泥の溜まりの異常な接着性に勝って行き先に時間通りに到着しなかった。厚喜さんの仲間が乗合馬車は乗って他の乗客と一緒に。時々うち達の自動車と並行して走り、豪雨の中でも、この二台の乗り物がまるで陸上の勝負のように面白そうな様子を見せた。小石川區を出て豊島に入った時、通りがもっとぬかるんでぐちゃぐちゃした。厚喜さんによると、この区は路面列車があまり通り過ぎない為、この区の通りを雨の時に渡る車が車輪を嵌められる様子が多くて普通だった。厚喜さんの豪華な車もその目に遭っちまった。彼の仲間が遥か先に行ったところに、通りの幅の半分ぐらいのぬかるみに車が嵌って澁薙君と純彦君に合羽の格好で後ろから一気に押し上げられるほどだったよ。
午後7時34分に、ようやく厚喜さんの豪邸に到着した。全四個の車輪がぬかるみに被ったり、両側の席の端が雨の吹き込みばかりに濡れたり、私達の服も多少で濡れたりしたという結果はこの大雨が果たしたのさ。私の二人の男の友が到着まで合羽を着たままになった。彼らのびっしょりな状態に平等になる為、横に座った純彦君がわざと私に強く寄り添い、彼のびしょびしょな合羽を浴衣の袖に当て、外の雨に私の頭を打たらせていた。私が思いっきり雨水から包帯に巻かれた右の顔を妨げようとしたね。厚喜さんの家は大雨そして樹冠によって大体あそこの灯りしか見えないが、人の身長越えの白い壁に囲い込まれ、瓦の屋根もあった門戸を入口とされたことで、外観を見なくても富豪の家だけでなく、幕末以来の家だと確信している。
後藤さん達が前から傘を差しながら家の前で私達の自動車を待っていた。厚喜さんがもう、「いつの間に使用人の人数が急に増えただろう」と、冗談することになった。深本さんも『執事の本能』を掻き起こし、自分の席の下の二つの蝙蝠傘を取り出し、一つを開き、最初に右の方から降り、左の方に戻り厚喜さんを降ろした。厚喜さんに一つを渡したところで、残りの一つを開き、私達一人ずつを降りさせてくれた。降りる間に、私達も自分の傘を持参したから、先に降りた人が自分の傘を差し、深本さんが次の人を降ろしたことだ。
皆が自分の傘の下に立っていたら、深本さんが門戸を開き、厚喜家の使用人達も家内から出てきた。そのような門戸を少しずつ動かすだけで床を擦る音を強く鳴らすことで、その音に慣れ過ぎた下働きなら、早速開けようとする一人の同僚に手伝いに来る。深本さんの同僚執事である杉林唐宏さんも傘を差しながら部下と一緒に門戸を開き切った。中学生、大学生、使用人達が皆で互いに挨拶した、大雨の下にも。杉林さんが皆を風邪を引かないように速く入らせてから、一家の独特な自動車をもうちに運転していた。両側の欅の広くて濃い樹冠に雨がどうか劣られた。両側の入口には赤を灯す灯籠の並び。二つの欅の後ろにはぼんやりだが、二階建ての厚喜家がまだ見えた。二棟の宅は伝統的な渡り廊下を通して繋がり、前の棟は地上階では厚喜家のご夫妻の居間と寝室、上階では厚喜さんと深本さんの部屋向け、後ろに右側の棟は地上階では玄関、大厨房、お風呂そしてお手洗い、上階では杉林さんと他の使用人の部屋。私達の後ろで車を運転する杉林さんによると、その二棟の後ろにもう一棟はあり、厚喜家の著名なお茶の製作所として用いられているものだ。それでこの豪邸は逆の『く』字の型に三棟を配置し中心の廊下で繋いだよ。
アスファルトで舗装されたこの茶色の入口は私達を玄関だけでなく、前の棟の縁側、駐車場そしてお茶の倉庫に導く。こうして、私達が玄関に入り厚喜さんのご両親自身に歓迎して頂いた。圧に掛からず親しい歓迎が感じられた。中心の棟の廊下にお邪魔した直後に、忙しくて賑やかな厨房の雰囲気を受け止めた。深本さんと杉林さんを含む厚喜家の使用人全員が夜ご飯の最後の準備を終わらせようとした。純彦君と澁薙君がびっしょりな合羽をあるお女中さんに渡した。この大雨の残した濡れと汚れを流し消しに、この土曜日に東京を行き来した私達全員が必ずお風呂を天国と認めないと。
お風呂のお湯も準備したと杉林さんが伝えた際、厚喜家の浴室に進ませて頂いた。杉林さんも深本さんと一緒に入った。大厨房の右側に階段で離れたし男性と女性を分別したし暖簾も掛けたし旅館風が強かったわ。露天風呂じゃないし、澁薙君の家の銭湯にどうか似ている。男性室なら箱根の芦ノ湖、女性室なら奥多摩の森と湖を描く浮世絵が風呂の上の壁に。遂に、私達小田原人も東京の地で入浴し、梅雨の湿っぽさや冷たさの負担を軽減したの。
入浴した上で、私達は新鮮な生茶葉や黒豆の合わせ模様の浴衣を着た。厚喜家の特徴な浴衣でしょうね。その時、夜ご飯も準備出来た。お女中さん達は一人一人でご飯・おかず・汁を入れた小鍋を乗せたお膳を、ご主人と奥さんの居間に運んでいた。そして杉林さんが風炉・火起こし・十能・水指を乗せた盆、後ろに付き添っていた深本さんが茶入・茶筅・柄杓・茶杓・茶巾・茶碗の重ねを乗せた盆をも運んでいた。この夜ご飯は私達客を美味しい料理に限らず厚喜家の名物を披露する茶道でもてなして下さる。
人の流れに沿って居間に入ったら、最早茶道の雰囲気が出てくれた。三十個の紫の座布団がU字の型にきちんと整った。床間に一番近いのは勿論厚喜家の首脳であるご夫妻の席。私達は障子に向かう方に座る。厚喜さんはご両親に一番近い右側の席。それから私、純彦君、澁薙君、そして後藤さん達。続いては料理人、深本さんと杉林さん、私達の向こう側に座る全てのお下男さんとお女中さん。お二人の執事自身は夜ご飯後の茶道をするから、お二人の苔色の浴衣を見たと、あの静粛な文化を長く待たせないと信じた。
この夜ご飯のおかずは素晴らしかった。角煮された豚のばら肉と大根、人参の炒め物。鱸としめじの煮付け。茶葉の香りも嗅げる剥き海老の汁物。そして口を涼しく感じさせるきゅうりと茄子の漬物。厚喜家の親子以外で、お二人の執事と使用人の皆は私達の登場に強い好奇心を持っていた。彼らの矢継ぎ早の質問がなければ、私達の訪問は東京の光景と大雨と静粛な雰囲気にしか限らなかったわ。皆が誇らしく自己紹介をし、この貴重な休憩時間で真面目の仮面を一時脱ぎ私達の経緯や、夏祭りの裏側を聴きたがった。笠人君も彼らの雑談の題材を外れていないわ。もし笠人君が『あおゆみ』での仕事に三昧でなかったら、ここに出て自分の魅力で彼らお女中さん達を惚れさせちまったよ。
私達も彼らの経緯、どうして厚喜家に働くのかをちょっと話して欲しかった。やはり越川家とか山口家と同じようだね。いや、というより貴族のその共通点。彼らは貧乏な家族出身もあり、借金を返す為もあり、中学校卒業後に初めての仕事を就ける為もあり、しかも政府の徴兵令を回避する為もあった。そう、男なら否が応でも徴兵、特にに戦争の時の、に絶対背かないことで、自分を政府に縛られ自立に出来ないと心配する人も多いから富豪の使用人を就職しようとする。清朝とロシアとの戦争の時は、厚喜家のご夫妻が政府になんか袖の下をよく渡していて、男達を働き続けに保ったそうだ。要するには、自分と家族の為に沢山の機会を期待する東京を向いて稼ぎに一生懸命働くのは使用人達の同じところだ。
騒々しい夜ご飯の後、厳かな茶道の儀式が二人の執事に行って頂いた。この居間の真中の畳が移動出来る、風炉と水指をきっちり置くようの正方形の穴を開く為。男性の先輩の執事と、女性の後輩の執事はこうやって互い違いに手段を行い、茶道を七分間、ゆっくりな手振りを求める芸術に対する早い時間、掛かって実行して見せた。抹茶も玉露茶もに代わって今回は焙じ茶だったし、寝る前に恐ろしい苦味が喉に溜まることを気配しなくて良かった。皆で焙じ茶を嗜み上がったのは、そろそろ9時になった訳かね。それから、厚喜家で初めて食事をしたのはもうこれまで。使用人達が休憩の時間も終わりになっちまったことに早速気付いたから、全ての食事の道具を整え洗いに運んだ。厚喜さんの二階目の部屋に上る前に、厚喜さんのお父さんが私達の上京の目的を繰り返し、私達が必ず頭に刻まないといけない言葉を伝えてくれた。
「儂の息子、そして此奴の仲間は君達と全然違いではない。だから不明な悪力に争えるには、もっとより不明な力を身に付けること。君達若者なら操られたり出来やすい。儂達富豪ならも政府の壁に聞かれてしまう。あの倉崎ちゃんは可哀想過ぎる被害者で、あの子のような奴を助けるにはお金の荷車ですら足りない。あの子はあの悪力に沈み過ぎて、不明な力でしか奇跡を起こさない。君達はあの奇跡を起こせるかどうか祈りたいと思う。儂らも支えて参る」
私達は浅草で買ったお土産を連れて行き、厚喜さんの部屋に着いた。鼻を気持ち良く感じさせる和菓子以外に、そろそろの企画の為に幾つかの道具を買った。合羽、長靴、電線、ケミカル。今回は松澤先生と城木先生の力を借り私達の『不明な力』にすれば、神様の役を演じる好敵手に対等になるじゃないか。
「纏めるなら君達の次のものは眼鏡を作る予定だね。確かに普通なもんじゃなくて人を追跡出来るもんだ」
「はい。実は倉崎さんはこの企画の重心じゃありません。動機です。城木先生の家の訪問、そして少年祭後の攻撃から9月10日の事変までの期間を見直せば、仲間と敵を追跡する理由があるのです」
純彦君が言い加えた。「敵は私達のことを少年祭以来ずっと追跡してるから、不明の方法で。私達もより不明な方法を使って仕返しするつもりです」
澁薙君も言った。「厚喜さんの家に訪れる前に、私達『花火團』だけでなく学級の仲間とも一緒に倉崎さんのことを重心か動機か決めておきました。彼女は風みたいに来たり去ったり跡を残さない者らしい。だから彼女の行方を探そうとすれば矛盾でしょうと思います。その結果、倉崎さんを動機に、9月10日の夜の事変をもとに、闇掛けの環境でも相手を発見出来たり、光ありの環境で相手を追跡出来たりという設備を作ろうと挙句に賛成したんです」
私が応えた。「実は跡をまだ残してるよ、ナギさん、例え探しにくくても。だから厚喜さんの家に参りましたよ」
「消え失せては跡を残さない訳ではない。自分ではなければ他人に残して貰う。僕がもう一つの秘密をまだ明かしてないはずだね」
「はい、『若槻』での食事からです。公の場で話しちゃえば都合悪いし、私達をある程度で呆然させちゃうほどのもん。それで、あの秘密が明ける前にこの写真機の中に何はあるかを見てみましょうか?」と言った澁薙君、手が写真機をしっかりおもちゃのように持ちながら。私達も先ほどの東京の旅の写真を見てみたい。
「越川君、僕は写真機を持ってなければ僕じゃねえんだ。僕も自分のコダックの中の宝物を本物にしようとする、しばらく。それじゃあ僕の『写真現像室』に行ってみようか?」
その求めは否む訳がないでしょう。まずは、地上階で深本さんとまだ雑談している後藤さん達を呼び出した。あの特別な部屋を運営するのは厚喜さんと深本さんだが、写真家の友達と一緒にならもっと専業な空間を作り出せる。厚喜さんの部屋の右隣で、開き戸付き。電気を付けた時、使用済みの電線に鉤で釣られた昔の写真、写真家の道具と予備のフィルムをしまう紙の箱、そして市松人形、手毬などの模型用品が両壁に配られたことや、前に仕切り部屋も見えたよ。あれは写真現像を行う。後藤さんがちゃんと明かりをたった赤と黒の合わせに下げ、結構暗くて怖い空間となった。すると、厚喜さんが作業の部分で電球を付けた、現像の手段がはっきり見えるように。
コダックの写真機を使ったことで、現像するにはロールフィルムを処理しとく。厚喜さん達が自分と澁薙君の写真機からロールフィルムを取り出し現像タンクに巻き取った。現像タンクにはメトールとヒドロキノンの溶液、いわゆる現像液を注入し、10分未満でフィルムの銀塩が現像液と酸化還元をし銀の黒に掛かることを待って貰った。卵を茹でる基準時間だね。この時間に当たっては露光の過程だ。露光が終わったら、銀掛けのフィルムが酢酸に浸され、化学反応を一時停止にした。最初に米酢でやってみたが、思った通りに写真が半分未満でしか綺麗にならなかった、と厚喜さんが言った。続いて、チオ硫酸ナトリウムなどのアルカリ性のケミカルに入れられ、先ほどの酸化還元の時間と同じくらい中和反応を行われ、残りの銀塩を排除され、最後の成果の為に綺麗にされたよ。もう一度綺麗にするのは水で洗い流され、半時間ほど掛かる手段だ。洗ってから吊るし干して貰った。印画紙が準備出来た際、乾燥済みのフィルムをあれに置き、最初から発光中の電球を利用し、黒い所と白い所をゆっくり現し、写真に出来た。黒い所は銀が強く感光し陰画、白い所は逆に陽画を作った。
厚喜さん達はその現像を数十回で同時に実行し、出来るだけ速く今日の旅を写すものを完成させていた。なんと10時頃、彼らが全てのフィルムを現像し上がったよ。段々、日比谷公園、皇居、橋達、隅田川、凌雲閣、浅草、東京人の人並み、東京の梅雨、そして厚喜さんのパナールの車がまるで濃いスモッグから出てきたように透明から白黒に再現してくれた。それは風景のこと。人物はどうかしら?後ろで手を組みながら振り返る私は清々しく美しかった。サスペンダーを握りながら左足の膝を少し立てる純彦君は紳士的に大人っぽかった。手がポケットに入れながら前に進む澁薙君は格好よかったわ。互いの側に芝生の上に立って笑顔をした厚喜さんと深本さんは本当にお姉さんと弟の絆が強い気がした。
「東京大学近くの公園だったね、俺達が撮られた時は」と言った純彦君、写真を持ちながら。「そんなに芸術的な姿勢が出来たのは公園だけだ。人並みの街でやったら迷惑掛けてしまったろ」
「うん。それよりももう数枚の写真は私達が注目されないと駄目だから。ほらね」、私が純彦君と澁薙君に注目させた、厚喜さん達が今更明かした秘密を写す写真を。純彦君と澁薙君が呆然としていた。それは病床に寝た切りになって頭と首のを包帯で巻き付く倉崎さん。更に、倉崎さんが中年の男と一緒に性行為を舞台でやっていたのが遠くから撮られちまった写真、そして仮面を被り上品な洋服の姿であの忌むべきパフォーマンスを楽しく見ている人達の写真。私達を気持ち悪くさせたのはそれ以上じゃない。それは倉崎さんが同い年の可能な男達に深刻に猥褻された盗撮の写真。厚喜さんが仮装したり隠れ場所で身を潜めたりその全ての写真を撮った。上品な姿の男達は必ず私達の対面している過激派に強く繋がっているかも。彼奴らと過激派の異常な力は彼女が汚い泥に沈み込まれて自分を殺そうとするほどだったが、生憎人生から逃避しなかった。
厚喜さんが説明した。「倉崎ちゃんが『かをり』旅館を退場してから列車の券を買わず丹澤の森に勝手に向かって何処かで自分を殺そうとした。十分に大きい滝を選んで飛び降りてしまった。然し、あの滝は割と流れが強くないし、彼女を死ぬほど溺れさせなかったが、意識を失って岩礁にぶつけて頭蓋骨が陥没してしまったよ。今までまだ意識戻ってない」
「だからあの契約を二週間伸ばしましたね、倉崎さんの臨死状態によって。彼女は彼奴らの宝物。絶望の写真集に導くほどの宝物」
「厚喜さんが絶望の写真集をフィルムのままに保存してるでしょう。写真を全て燃やしてもフィルムさえあれば希望を閃かせてる」
「厚喜先輩も希望の写真集を作ったでしょう、スミヒコ君。性欲と憎悪と悲哀の合わせた写真集に対等なのは、夏祭りで笑顔が沢山な倉崎さんの写真集や、東京での私達の写真集。倉崎さんが意識を戻せば自殺の意を全然辞めてないから、彼女に希望を与えたら勝てる」




