後悔先にたたず・その2
やや長めです。
ラビエータの父ラルゴは、爵位剥奪の上、一般牢へ収監された。
帝国法に基づき、死刑囚としての最低限の生活は保障されていたが、執行日の告知は直前までなく、髪も髭も伸びたまま、狭い空間で彼は日々を送った。
金物は一切取り上げられた。
ラビエータが投げ渡してきた小さな指輪すら。
牢内で許されたのは、帝国正教の教書を読むことだけだ。
することもないから、与えられた教書を捲る。
『嘘をついてはいけません』
『他人には優しくしましょう』
昔むかし、最初の妻が言っていたようなことが書いてある。
何度か頁を破ろうとして、都度ラルゴは思いとどまった。
ある晩のこと。
小さな窓の鉄格子の隙間から、青い月の光が差している。
床で寝ていたラルゴは、衣擦れの音に気付く。
深夜の牢屋にドレスで来る者など、いるはずがない。
だが気になり、ラルゴは上半身を起こす。
ふわりと香水の匂いがする。
女が、いるのか。
まさか……。
――旦那様……。
まさか!
朧げな月光の中、ラルゴは牢の前に立つ、かつての妻を見る。
「お、お前、プリーシャ……」
妻は笑う。
結婚した当時と同じ顔で。
菫のような目を細めて。
――うふふ。幸せでしたわ、あの頃。
妻はラルゴに手を伸ばす。
――もうすぐ、会えますね……。
「ひっひいいいいいい!」
ラルゴは頭を抱え蹲る。
「俺じゃない……俺じゃない……俺だけじゃない!」
全身を震わせながら、ラルゴは長い間、涙を流し続けた。
ふと、牢屋の前の気配が消え、コロンと何かが転がった。
薄く目を開けたラルゴに、床の上に小さく光る物が見えた。
それは白い球体。
ラルゴはおずおずと手に取る。
「真珠……?」
脳裏に浮かぶ遥か昔の記憶。
ラビエータが生まれたばかりの頃だ。
出産を労い、何の気なしに妻に渡したネックレス。
安物の真珠だったが、プリーシャは大層喜んだ。
『大切にするわ。私と娘のお守りとして』
裕福な妻の実家からは、高価な宝飾や家財が届けられていた。
ラルゴは妻の言葉に鼻白む。
馬鹿にされているように感じたのだ。
それでも……。
妻と娘と慎ましく、生きていく道を選ばなかったのは、彼自身である。
ぽたりと水滴が落ちた。
それはラルゴの涙だったのか……。
数日後、刑が執行されたラルゴの掌には、一粒の真珠が握られていたという。
***
ラビエータの義妹アージィとその夫ペトリエルは、平民となり旧王都のはずれで暮らしていた。
ヴィンダ夫妻が捕縛された後、借財の厳しい取り立てが二人を襲う。
邸や宝飾品を手放しても、返しきれる額ではない。
ペトリエルは農地開拓や土木工事に従事し、アージィは飲食店の給仕として働くことになる。
返済すると、手元に残るのは僅かな日々の糧。
明日の食事代に頭を悩ますような生活に、二人が耐えられるはずもない。
ある日のこと。
ペトリエルは仕事を早めに切り上げ、働く店からアージィを連れ出す。
「ちょ、ちょっと。まだ仕事残ってるんだよ」
「ああ、いいからいいから。とりあえず着替えて、化粧しろよ」
ペトリエルは、薄い生地で派手な色の服をアージィに投げる。
「ほら、新しいドレスだ」
アージィは鼻を鳴らしながら、服を着る。
胸と背中が大きく開いた、平民でも着ないようなデザインだった。
デコルテに何もないのは寂しいので、ガラス玉のネックレスを付けてみた。
あれほど沢山あった色石や貴金属は、もう手元に残っていない。
その大半がラビエータから奪った物だったという記憶も、薄れているアージィである。
ペトリエルがアージィを連れて行った先は、場末の娼館だ。
「え、やだよ! 聞いてない!」
流石にいやがるアージィの頬を叩き、ペトリエルは彼女を突き飛ばす。アージィは店先で転んだ。
アージィを売った金だけひったくるように受け取ると、ペトリエルは逃げ去った。
残されたアージィは、胸元のネックレスが切れ、ガラス玉が散っていくのを見ていた。
ガリッと音がした。
ガラス玉が一つ、壊れたようだ。
顔を上げたアージィに、蜃気楼のような景色が見えた。
散らばる白い粒。
踏みつけている女の子。
泣いている少女。
少女の泣き顔を見ると、女の子は嗤う。
歪んだ笑みだ。
少女の持ち物を好き勝手に壊した。
すると心が晴れる。
母が喜ぶ。
少女の死んだ母親の持ち物だったという真珠。
女の子は床に散らばる真珠を、思い切り踏んだ。
儚い美しさを持つ真珠は、傷つきやすい。
力を込めて踏みつければ、いとも簡単に潰れる。
嫌な笑顔を浮かべ、喜々として真珠を踏みつけている女の子……ああ、アージィだ。
今、目の前でガラス玉を踏みつけているのも、紛れもなく幼い頃のアージィだ。
何するのさ、アージィ。
唯一残された装飾品だったのに。
悔しい!
悲しい!
許せない!
――何を許せないの?
目の前の幼いアージィが笑う。
――弱い者を踏みつけて、何がいけないの?
アージィはぼろぼろ涙を流す。
それは嘗て、アージィが言ったこと。
貴族子女として生まれ育った義理の姉が、羨ましかった。
綺麗なドレスや宝石をいくつも持つ、ラビエータが許せなかった。
婚約者の男も、世界一素晴らしい男に思えた。
――これだけはやめてと何度も言っても、あなたは止めてはくれなかった……。
そうだ。
義理の姉は何度も何度も、窘めてくれた。
人としてのあるべき姿を。
人の物を奪ってはいけないと。
うるさい、ウザイと撥ねつけた。
結果がこれか。
世界一だったはずの夫には売られ、逃げられた。
底辺の更にまた奥底。
蜃気楼の中の自分は、美しい淑女の礼をすると、ふんわりと笑った。
一時は姉であった女性の微笑みに、似ているとアージィは思った。
**
ペトリエルは走っていた。
手持ちの金があれば、しばらくは遊んで暮らせる。
伯爵が作った借金など知るか。
まずは旧王都に行こう。
数日前、工事現場に落ちていた新聞の切れ端に、驚くような記事を見た。
『稀代の悪女、自治領主妃に!』
悪女とは、元の婚約者ラビエータのことだ。
旧王国が帝国の自治領となり、しばらくはざわついていた。最近になって旧王国の大公家の者が領主となり、ようやく落ち着きを取り戻したところだ。
大公に嫁いだあとのラビエータは、本当に美しく艶やかになった。
昔からあんな風だったら、何も下賤な身のアージィと結婚などしなかったのに。
領主の妃となったからには、再婚したのだろうか。大公家繋がりもあるし。
まあ、悪女ラビエータなら、粉をかければ靡いてくるのではないか。
何と言っても、ラビエータは自分に惚れていたのだから。
下卑た妄想を浮かべたペトリエルの足が止まる。
広い街道の手前で、数人の男に囲まれた。
思わず懐の革袋を抑える。
「ようペトリエル。金回りが良さそうだな」
「い、いや、そんなことは……」
「恋女房を売ってまで、借金を返そうなんて、偉いよお前」
何故コイツラが知っている。
冷や汗が流れるペトリエルの顔色を見て、男たちはゲラゲラ笑う。
「借金取りと娼館は持ちつ持たれつ、だぜ。さっさと懐のモノ渡しな!」
イヤイヤしながら後ずさるペトリエルに、男たちは容赦なく暴力を振るう。
ペトリエルの抵抗むなしく、革袋ごと抜き取られる。
男たちは顔の形が変わったペトリエルを、そのまま川に投げ込んだ。
痛みと屈辱で、涙を流しながら、ペトリエルは川底に沈んでいく。
――あなたには、涙を流す価値もないわ。
遠のく意識の中で、婚約者だった女の声がペトリエルには聞こえた。
次が最終話です。
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