-2-
アンピトリテは海の底から、綺麗な泡が続いて浮かび上がって行くのを見つめていた。
「やはり、私では無理だったのだわ…」
アンピトリテは人知れず、そう呟いた。
最初こそ、ポセイドンの荒々しさに怯えて逃げ出した彼女だったが、イルカに説かれポセイドンの想いを受け入れてから、一度も後悔したことはなかった。
荒くれ者を装ってはいるが、彼が非常に繊細でロマンティストで、寂しがり屋な部分があることを、賢明な彼女は気付くことが出来た。自分を見つめ、ようやく港に着いて安堵した船のような瞳をすることも。
子供のような無邪気な笑みや、夫としての甘い眼差し、毎年真珠を一粒づつくれて、何時かこれでお前の身を飾るものを作ろう、と誓ってくれたことも嬉しかった。
恋をして結婚するのではなく、結婚した後に恋することもあるのだと、彼との日々の中で彼女はそう感じた。
しかし…。
繰り返し彼が他の女性を求めるのは、多分、自分に足りないものがあるからだろう。
海の女王として。ポセイドンの妃として。
いつも、精一杯のことをしてきたつもりではあった。
だが、ポセイドンの他の兄弟…
ゼウスとハデスを見やると、二人とも名高きクロノスとレアの子であり。
その正妃も(ゼウスは三人目の妃だが)同じ血筋に連なる者だ。
けして、自分の海神の血筋を恥じてはいない、が。
五十人もいるネレウスの一人である自分が選ばれて、ポセイドンの妃になることは。
やはり、無理があったのではないか。
だから、彼はもう自分を必要としないのではないか。
ゼウスも三回結婚をしたと言われる。
その兄弟であるポセイドンが二度目の結婚をしても、それは全然不自然なことではない。
あるいは、その方が彼にとって、そしてこの海にとって幸せなことなのではないか…。
何時頃か、そんな思いがアンピトリテを蝕み始めた。
それは、ヘラのように辺りに発散されることがないだけに、深く深く降り積もった。
そして、今回の結婚記念日。
夜遅く、ポセイドンを探しに、こっそりと神殿を抜け出した彼女は見てしまった。
美しく若いニンフと共に、館に入っていくポセイドンの姿を。
(ああ、もう駄目…)
アンピトリテの中の、何かが千切れた瞬間だった。
すぐに彼女は身を翻し、海底の奥深くへと姿を隠した。
昔したのと同じように。
「私は、結局あの頃から変わっていないのだわ…」
ふぅ、と息を吐き出す。
二人を見た時、詰問する権利だって、自分にはあった筈だ。
だが、王妃としての自信もプライドも揺らいでしまった彼女にとって、こんな屈辱にも何も言えなかった。
もちろん、自分には可愛い息子トリトンがいる。
女王として、慕ってくれる沢山の臣下もいる。
それを今更投げ出すことは出来ないことぐらい、彼女にも判っていた。
でも…。
息子もやがて成人する。そのうちに新しい女王が君臨したら、自分の役目など何も残らない。
そうしたら、私は両親の所に帰ろうか。
年老いた彼らに仕えながら、時々息子も呼んで、平穏にただ慎ましく暮らそうか…。
そんなことをつらつらと考えていると、キューキューと高い鳴き声が聞こえた。
自分が寵愛する賢いイルカの姿を捕らえて、アンピトリテは儚く微笑む。
「ああ、やはり、一番最初に私を見つけてくれるのはお前なのね…」
「アンピトリテ様!お探ししました!!…さぁ、お早く神殿に戻りましょう、ポセイドン様も心配しておられます!!」
「……。あの方は、結婚記念日のこと、何か仰っていらして…?」
イルカは一瞬黙り込む。
「勿論ですとも!今年は特に美しい真珠を御用意されて、昨日渡せなかったのが大変残念だとおっ…」
「…ありがとう。でも、もういいのよ」
アンピトリテは忠実で優しい生き物の頬にそっと口付けする。
「やはり、私のようなものが、ポセイドン様に嫁いだのが誤りだったのです」
美しき海の女王はにっこりと微笑むと、すっと立ち上がって声を張り上げた。
「ステュクスの河の水に誓う」
さっと虹の橋が下りてきた。イリスがアンピトリテの元にその水を持ってくる。
「アンピトリテは、ポセイドンと別れると」
唖然としたイルカの前で、神聖なる誓いは成されてしまった。
「…本当に、アンピトリテがそう言ったのか?」
イルカの報告を受けて、ポセイドンは王座に座り込んだ。
「拙いですよ、父上!どうするんですか?!」
トリトンはもう泣き声だ。自分と同じ、青色の髪が降りかかった背中をポカポカ叩く。
そんなことを気に留める余裕もなく、ポセイドンは片手で頭を抱え込んだ。
「なんということを…いや、しかし、それがアンピトリテの幸せになるのなら…」
「父上!」
「それは違います!!」
イルカは凛とした声を上げた。
「アンピトリテ様は笑っていらっしゃいました!でも、それは哀しげな微笑でした。
自分のようなものが王妃であるのが間違いだと、繰り返しそう仰いました。
あの方は、まだポセイドン様を愛しておられます!愛するが故に、身を引こうと考えていらっしゃるんですっ!!」
「なっ!」
ポセイドンは身を震わせる。
「私は、アンピトリテ以外に王妃を娶る気など無い!
この世界中どこを探しても、私の妻に相応しいのは彼女だけだ!!もういい!!土下座しても引き摺ってでも連れて帰るっ!!」
「…でも、ステュクスの河の水に誓ったことは、神といえども絶対ですよ?」
イルカの悲しげな言葉に、ポセイドンもトリトンも項垂れた。
「………。あの~、ポセイドン様」
ふいに、陽気な、明るい声が王座の間に駆け抜けた。二人と一匹が振り向くと、砂色の髪を後ろに束ね、濃緑のマントを身に付けた青年が、帽子を持ち上げて立ち尽くしていた。
「お取り込み中みたいですが~、ゼウス様から書類のお届けです」
「…ああ、ヘルメスか」
正式な使者を追い返すわけにも行かず、ポセイドンはその紙を受け取るとサラサラとサインする。
「どうも」
ヘルメスは帽子を被りなおすと、
「何かお困りみたいですね?」
と屈託の無い笑みを浮かべた。




