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アンピトリテは海の底から、綺麗な泡が続いて浮かび上がって行くのを見つめていた。

「やはり、私では無理だったのだわ…」

アンピトリテは人知れず、そう呟いた。


最初こそ、ポセイドンの荒々しさに怯えて逃げ出した彼女だったが、イルカに説かれポセイドンの想いを受け入れてから、一度も後悔したことはなかった。

荒くれ者を装ってはいるが、彼が非常に繊細でロマンティストで、寂しがり屋な部分があることを、賢明な彼女は気付くことが出来た。自分を見つめ、ようやく港に着いて安堵した船のような瞳をすることも。

子供のような無邪気な笑みや、夫としての甘い眼差し、毎年真珠を一粒づつくれて、何時かこれでお前の身を飾るものを作ろう、と誓ってくれたことも嬉しかった。

恋をして結婚するのではなく、結婚した後に恋することもあるのだと、彼との日々の中で彼女はそう感じた。


しかし…。

繰り返し彼が他の女性を求めるのは、多分、自分に足りないものがあるからだろう。

海の女王として。ポセイドンの妃として。

いつも、精一杯のことをしてきたつもりではあった。

だが、ポセイドンの他の兄弟…

ゼウスとハデスを見やると、二人とも名高きクロノスとレアの子であり。

その正妃も(ゼウスは三人目の妃だが)同じ血筋に連なる者だ。

けして、自分の海神の血筋を恥じてはいない、が。

五十人もいるネレウスの一人である自分が選ばれて、ポセイドンの妃になることは。

やはり、無理があったのではないか。

だから、彼はもう自分を必要としないのではないか。

ゼウスも三回結婚をしたと言われる。

その兄弟であるポセイドンが二度目の結婚をしても、それは全然不自然なことではない。

あるいは、その方が彼にとって、そしてこの海にとって幸せなことなのではないか…。

何時頃か、そんな思いがアンピトリテを蝕み始めた。

それは、ヘラのように辺りに発散されることがないだけに、深く深く降り積もった。

そして、今回の結婚記念日。

夜遅く、ポセイドンを探しに、こっそりと神殿を抜け出した彼女は見てしまった。

美しく若いニンフと共に、館に入っていくポセイドンの姿を。

(ああ、もう駄目…)

アンピトリテの中の、何かが千切れた瞬間だった。

すぐに彼女は身を翻し、海底の奥深くへと姿を隠した。

昔したのと同じように。


「私は、結局あの頃から変わっていないのだわ…」

ふぅ、と息を吐き出す。

二人を見た時、詰問する権利だって、自分にはあった筈だ。

だが、王妃としての自信もプライドも揺らいでしまった彼女にとって、こんな屈辱にも何も言えなかった。

もちろん、自分には可愛い息子トリトンがいる。

女王として、慕ってくれる沢山の臣下もいる。

それを今更投げ出すことは出来ないことぐらい、彼女にも判っていた。

でも…。

息子もやがて成人する。そのうちに新しい女王が君臨したら、自分の役目など何も残らない。

そうしたら、私は両親の所に帰ろうか。

年老いた彼らに仕えながら、時々息子も呼んで、平穏にただ慎ましく暮らそうか…。

そんなことをつらつらと考えていると、キューキューと高い鳴き声が聞こえた。

自分が寵愛する賢いイルカの姿を捕らえて、アンピトリテは儚く微笑む。

「ああ、やはり、一番最初に私を見つけてくれるのはお前なのね…」

「アンピトリテ様!お探ししました!!…さぁ、お早く神殿に戻りましょう、ポセイドン様も心配しておられます!!」

「……。あの方は、結婚記念日のこと、何か仰っていらして…?」

イルカは一瞬黙り込む。

「勿論ですとも!今年は特に美しい真珠を御用意されて、昨日渡せなかったのが大変残念だとおっ…」

「…ありがとう。でも、もういいのよ」

アンピトリテは忠実で優しい生き物の頬にそっと口付けする。

「やはり、私のようなものが、ポセイドン様に嫁いだのが誤りだったのです」

美しき海の女王はにっこりと微笑むと、すっと立ち上がって声を張り上げた。

「ステュクスの河の水に誓う」

さっと虹の橋が下りてきた。イリスがアンピトリテの元にその水を持ってくる。

「アンピトリテは、ポセイドンと別れると」

唖然としたイルカの前で、神聖なる誓いは成されてしまった。



「…本当に、アンピトリテがそう言ったのか?」

イルカの報告を受けて、ポセイドンは王座に座り込んだ。

「拙いですよ、父上!どうするんですか?!」

トリトンはもう泣き声だ。自分と同じ、青色の髪が降りかかった背中をポカポカ叩く。

そんなことを気に留める余裕もなく、ポセイドンは片手で頭を抱え込んだ。

「なんということを…いや、しかし、それがアンピトリテの幸せになるのなら…」

「父上!」

「それは違います!!」

イルカは凛とした声を上げた。

「アンピトリテ様は笑っていらっしゃいました!でも、それは哀しげな微笑でした。

自分のようなものが王妃であるのが間違いだと、繰り返しそう仰いました。

あの方は、まだポセイドン様を愛しておられます!愛するが故に、身を引こうと考えていらっしゃるんですっ!!」

「なっ!」

ポセイドンは身を震わせる。

「私は、アンピトリテ以外に王妃を娶る気など無い!

この世界中どこを探しても、私の妻に相応しいのは彼女だけだ!!もういい!!土下座しても引き摺ってでも連れて帰るっ!!」

「…でも、ステュクスの河の水に誓ったことは、神といえども絶対ですよ?」

イルカの悲しげな言葉に、ポセイドンもトリトンも項垂れた。

「………。あの~、ポセイドン様」

ふいに、陽気な、明るい声が王座の間に駆け抜けた。二人と一匹が振り向くと、砂色の髪を後ろに束ね、濃緑のマントを身に付けた青年が、帽子を持ち上げて立ち尽くしていた。

「お取り込み中みたいですが~、ゼウス様から書類のお届けです」

「…ああ、ヘルメスか」

正式な使者を追い返すわけにも行かず、ポセイドンはその紙を受け取るとサラサラとサインする。

「どうも」

ヘルメスは帽子を被りなおすと、

「何かお困りみたいですね?」

と屈託の無い笑みを浮かべた。

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