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美しいニンフとの秘密の逢引を終えて、ポセイドンは自分の神殿に帰ってきた。
若々しい海のニンフの甘い言葉、「またいらしゃってね」と囁く声音を思い出して少しばかりいい気持ちになる。
しかし、彼が戻りついた神殿には灯りも点らず、人の気配もない。
不信に思いながら王座の間に入った時、しくしくと泣き声が聞こえた。
そちらを見ると、息子のトリトンが王妃の椅子に縋り付いて顔を伏せている。
「おい、どうした」
はっと頭を上げて父の顔を見た途端、トリトンはわっとばかりに泣き崩れた。
「母上が!母上が居なくなってしまったんです!!」
豪胆で鳴らす海の王者も、その言葉には一瞬息を止めた。
いつも優しく、自分を見つめていてくれたアンピトリテ。
彼女は、ポセイドンが愛人の所から帰ってもけして怒らず、「お疲れ様でした。熱いお風呂御用意して置きましたわ」と微笑みかけてくれた。
それが、今回に限って行方を眩ます?
ポセイドンは、まったく訳が判らなかった。
「どこかに散歩に出たんじゃないのか?」
「お供一人付けずにですか?それに、朝から母上を見かけた者は誰一人いないんですよ?!」
青い髪を振りたてて、トリトンが父親を睨みつける。
「ああ、母上はとうとう父上に愛想が尽きてしまわれたんだ。あんなに優しい母上がいるのに、何度も浮気を繰り返すから、父上が厭になってしまったんだ!!」
「縁起でもないことを言うな」
ポセイドンは、せめて書置きでもないかと王妃の居間に入った。トリトンもその後に続く。
しかし、その部屋は何時も通り綺麗に片付いているのみで、
「…最近、アンピトリテに変な所はなかったか?」
ポセイドンは声を潜めて、トリトンに尋ねた。
「そういえば…一昨日までは普通にしていらっしゃったんですよ。「お父さまはそのうち必ず戻っていらっしゃるから心配しないのよ」って。でも、昨日になったら…」
「様子がおかしかった、か?」
「そうです、なんだか時々遠い目をしてらっしゃって。理由を聞いても、何も教えてくれなくて」
「ふ…む…」
ポセイドンは大きく唸る。
昨日、何かあっただろうか…。
「…ポセイドン様っ!」
急に、横からキューキュー声がした。
「もう忘れてしまわれたんですか!昨日はアンピトリテ様とポセイドン様が御結婚になった記念日ではありませんか!!」
何時の間に現れたのか、賢そうなイルカが大胆にも海の王を睨みつけた。
その昔、二人の恋の橋渡しをし、アンピトリテを口説きに口説いてポセイドンに嫁がせたその人である。
「……あ。」
ポセイドンは、くらり、と眩暈を覚えた。
そうだ、そうだった。
いつも自分はどんなに浮気をしようとも、毎年この日になるときっと戻り、アンピトリテにその年採れた一番美しい真珠を捧げるのが慣わしだった。
そして、アンピトリテはそのお返しに、ポセイドンに口付けを捧げ、二人は仲良く夜を共にするのだ。
いつも慎ましやかなアンピトリテが、自らキスを自分に返してくれるこの行事が、ポセイドンは実はとても好きだった。
だが……。
「こ、今年の真珠はちゃんと用意してある!イルカの分際で生意気を申すな!アンピトリテもアンピトリテだ。たった一日記念日が遅れたぐらいで……!」
「…っ!トリトン様、僕はまた王妃の探索に戻ります!!」
「うん、頼むよ。もう君だけが頼りなんだ…」
怒ったイルカに続いて、息子までそんなことを言いながら部屋を出て行き、ポセイドンはあっけに取られた。
長い三椏の矛を、腹立ち紛れに振り回す。
ガシャン!
澄んだ音がして、アンピトリテが何よりも大切にしていた紅珊瑚の宝箱を叩き落とされる。
床に落ちた勢いで繊細な珊瑚の細工が砕けて、中から美しい輝きが現れた。
そこにあったのは。
真珠、真珠、真珠。
ポセイドンが長きに渡って、彼女に贈った煌く宝石たち。
一つ一つが、その年の一年一年の光を持って、ポセイドンを照らし出した。
あの年は、そう、難破船が多くて、嘆く彼女を少しでも慰めるように、優しい色のを選んだっけ。
あの年は、大粒の黒真珠だ。彼女の瞳のような色。
あの金色の真珠を贈った年は、継子のテセウスがミノスの指輪を求めて、海底に来たんだよな。アンピトリテは指輪を探して与えただけでなく、テセウスを自分の黄金の花冠で飾り、船に返してやった。
「何故、そんなに良くしてくれたのか?」
と聞いたら、
「大切な貴方の御子ですもの」
と微笑んでくれた。その話をゼウスにしたら、えらく羨ましがられたっけなぁ…。
ポセイドンはいつの間にか、真珠を拾い集めながら、追憶に耽っていた。
豊かな栗色の髪はいつもきちんと結い上げられ、垂らすと仄かに緩いウェーブを描いて膝裏まで流れていく。
黒い瞳は光に透かすと微かに青み掛かり、白い腕を伸ばして踊る姿は、これ以上無く優雅で魅惑的で、あっという間に、自分の胸を恋の矢で貫いた。
一目惚れだった。
どんなに他に愛人を作ろうとも、どんなに麗しい女性に気まぐれな恋をしようとも、あの時のような激しい恋情に駆られたことはない。
それは今も同じで、ポセイドンの心は最後にはいつも彼女を求めて帰り着くのだった。
彼女もそれを受け入れてくれた…。
その時、チクン、と胸の奥が刺されたような痛みを感じた。
…自分は、それに甘え過ぎていなかったか?
どんな時も、彼女が自分だけを見ていてくれると、自惚れてはいなかったか?
他の男が彼女を愛す。そう思っただけで、我慢出来ないほどの痛みが込み上げてくる。
あの滑らかな白い腕に、もう二度と自分は触れることが叶わないのだろうか。
自分を襲った狂おしい程の喪失感に、ポセイドンは呆然とした。