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第4話 ミチザネ、日本を追放される

(かしこ)(かしこ)み申し上げる。どうかその忿怒(ふんど)を鎮め、京に造りし我らが塚に祀られてくれまいか」


 白い狩衣を着た若い陰陽師はそう言った。


 葦の荒野は真昼だと言うのにグラグラと黒い雲で覆われ、恐ろしい風と雹が野ざらしになった牛車や戦用の柵、さらには打ち捨てられた死体の数々に降り注ぐ。死体はいずれも戦鎧を身につけ、薙刀や強弓を手にしていた。


 暗い空が不意に光ったかと思うと、轟音とともに陰陽師に雷が落ちる。


 男は微動だにしなかった。


 狩衣の大きな袖から日焼けた腕が伸び、その手の先には呪符がいくつも握られている。札のうち一枚が焼け落ちていた。


 表情を変えず空を見上げる。

 朝廷で働く貴族が身にまとう(ほう)、それも緋色の最上級のものを着た骸骨が高みから周囲を睥睨していた。平民がその一生の収入を費やしても帯一つすら買うことのできないであろう高価な衣服は、血と断末魔で赤黒く染まっている。


「許さぬ」


 肉のそげた髑髏(しゃれこうべ)が口を開くと、ザラザラとした重苦しく耳を覆いたくなるような悲痛な声が辺りに響く。


「決して許さぬぞ、藤原!」


 その声にすらも力が乗っている。


 陰陽師の持つ札がまた一つ焼き切れた。


 葦の荒野から東西南北それぞれ一キロ程度離れた場所には仮設の祭壇が設けられ、一箇所に付き二百人程度僧侶たちが立ち、護摩を焚き一心不乱に読経を行っている。いずれの僧侶も帝の命によって集められた名高い高僧である。


 その男たちが目や耳から血を流し倒れるのを、式神の目を通して陰陽師は見ていた。


 まだか……


 冷静を装う男の頬を、冷や汗が伝う。眼の前の怨霊が放つ瘴気が意思を持っているかのように彼の結界を取り囲んでいた。


 若き陰陽師は呪符を強く握りしめた。


「聞け、道真公! 陥れられ、大宰権帥を命じられ、名誉を汚された貴殿のお心、察するに余りある。しかし、それらはすべて──」


 大気が割れるような音ともに雷がいくつも落ちた。稲光により空が発光して見える。


「許さん。呪われよ藤原。子々孫々に至るまで、四肢が萎え、腸が腐り、血を吐く度におのが所業を悔いよ」


 発現した力の大きすぎる圧力に結界が歪む。


 あと少し、あと少しなんだ。


 陰陽師は歯を食いしばり呪符を前に突き出して耐える。


 ピシリ


 呪詛を吐く亡霊の背後の空に亀裂が走った。


 来た。


 式神を通じて僧侶たちに檄を飛ばす。


「星の(しるし)、地脈のうねりが示していた門が開きます。各々方、今一度気を高め、法力をぶつけてくだされ。道真公を、向こう側へ押します」


 祝詞を唱え、印を結ぶと亀裂は歪な楕円になった。門の向こうは紫に発光している。僧侶たちのまだ動ける者は血を吐きながらも片膝立ちになり、一心に念を送った。


 四方に配置された祭壇から送られた法力により、身動きの取れなくなった怨霊は雄叫びをとともに門に吸い込まれていく。雷が止み、空を覆っていた黒い雲から日の光が差し込む。


 だが陰陽師に油断はない。


 辺り一帯に満ちた恐ろしい気配が未だ散っていない。


 不意に門から白骨した腕が現れ、空間の端を掴んだ。


「藤原時平(ときひら)、貴様だけはぁぁ!!!」


 大地を揺るがす恐ろしい呪詛とともに髑髏が門から覗く。


 陰陽師は両手を素早く動かし印相を刻むと、呪符を突きつけた。


「次元の門に封じられ、この国から、この世界から去れ、道真! 急急如律令!」


 研ぎ澄ました力が矢のように怨霊を打ち付け、門の向こう側へ押し戻した。陰陽師が小さく言葉を唱えると門は元の亀裂に戻り、それもやがて消えた。


 瘴気が消え、空が元の青空に戻る。いくつも式を飛ばし危険を探っていた男はようやく緊張を解いた。


 三千枚用意した呪符はあらかたが焼き切れ、この遠征のために集められた武人や僧侶も半数ほどが死ぬか再起不能の怪我を負った。……だがそれでも、帝の名を果たすことができた。


 彼は式を使い、四キロほど遠くで待つ供回りや輜重(しちょう)隊に、薬湯と包帯をそれぞれの陣に急ぎ運ぶよう指示を出す。それが済むと懐から竹の水筒を取り出し、喉を鳴らして中身を飲んだ。


「目につく所すべて恐ろしい有様だな。……くわばらくわばら。願わくば、道真公がこちらの世界など忘れられるほど、向こうが楽しいところであってほしいものだ」   


 後の世に平安と呼ばれる時代。人々を最も恐れさせた大怨霊菅原道真は、こうして日本国から追放された。





 鬱蒼とした針葉樹林の広大な森の上を彼は飛んでいた。


 亡霊を突き動かす感情は洋の東西、あるいは世界をいくつか跨いだとて変わらない。


 妄執、嫉妬、そして怒りだ。


 緋色の袍を着た骸骨の亡霊も例外ではなかった。


(おん)(おん)(おん)(おん)……。藤原ぁぁぁぁああああ!!! どぉこぉおおだああああああああ!!!」


 亡霊が雄叫びを上げるたびに木々が千切れんばかりに大きく揺れ、瘴気が霧のようにあたりを覆った。毒の瘴気に当てられ鹿や鳥が次々に倒れる。その角や羽のありようが今まで見知った動物と異なることに亡霊が気づいたのかどうか。汲めども尽きぬ憎悪は雷となり、空気を震わせ大木に落ち真っ二つに割った。


 彼が世界を呪い、稲光を走らせるたびに辺り一帯の空気が揺れ、空間そのものが希薄になっていく。これを続ければまたあの亀裂が現れる。憎悪で塗りつぶされた亡霊の胸中にそのような考えがよぎった。



 亡霊が渾身の力を込めて空間を打ち破ろうとしたその時、不意に彼の体に影が掛かった。



 骸骨の頭を天に向けると、太陽を背に彼を見下ろす子供の姿があった。



 美しい子供だった。サラサラの金髪が児童特有のあどけない頬にかかる。だがそれより注目すべきは童の背から伸びる巨大な羽だろう。毛並みの良い白鷺(しらさぎ)のように美しい翼だ。

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