04
置物みたいにじっと蹲っていたオッサンは、弾かれたように顔を上げる。無声映画を観ているみたいで、こちらには物音ひとつ聞こえてこない。
バタバタという足音が響きそうな動きで部屋を出ていったオッサンは、少しして室内へと戻ってくる。その表情は怒りに満ちていて、この顔には見覚えがあると思った。
俺がなにか大きな物音を立ててしまった時、隣人は決まってこの顔をして苦情の申し立てにやってきた。
今もきっと、どこかに苦情を伝えに出てきたのだろう。
それからしばらくして、オッサンはスマホを手に何かを呟いている様子だった。
「琥太郎くん、彼がなにをしているかわかるかな?」
「え……?」
不意に聞こえてきたのは、目の前のオッサンの声ではない。
耳元で囁かれていると錯覚するほどの至近距離から、直接問いを向けられている。隣には誰の姿も見えないのに、その声はあのコンビニ店員のものだとわかった。
「え、っと……スマホ、触ってる」
「うん。じゃあ、スマホの中は見える?」
「スマホの中……」
状況に戸惑いながらも、俺はオッサンの手にする画面が見える位置まで移動してみる。
そこに映っていたのは、6本のロウソクを立てたホールケーキを前にした、可愛らしい女の子の写真だった。
そして、その隣にはまるで別人のような、優しい笑顔を浮かべたオッサンが立っている。
俺が知っているオッサンよりも、もう少し若々しい感じだ。
「これ……オッサンと、オッサンの娘か? しおり、って書いてある」
ケーキの真ん中に乗せられたプレートには、『しおりちゃん おたんじょうびおめでとう』と書かれていた。
てっきり独身の一人暮らしなのだとばかり思っていたが、オッサンには家族がいたのか。
「……う、ちど…………たい」
「え?」
その時ふと、掠れた声が聞こえた気がして俺は顔を上げる。
スマホを覗き込んだことで自然と距離が近づいていたオッサンの瞳には、よく見れば涙が浮かんでいた。
「オッサン……?」
思わず呼び掛けてしまった俺の方へ、ものすごい勢いでオッサンの顔が向けられる。
眼球全体が真っ黒に塗りつぶされたその目からは、ヘドロみたいな黒い涙が次々と流れ出していて、オッサンの足元をじわじわと浸食していく。
「うわ、っ……!?」
「い、たい……アイ、タイ……アイタイ、アイタイ、アイタイアイタイアイタイアイタイ」
「ヒッ……やめろ、触んな……ッ!!」
普通の人間の形をしていたのに、いつの間にかオッサンの身体は黒い液体にドロドロに溶かされた状態になっていて、腕だったものがこちらに向けて伸ばされる。
触れられたら俺も溶かされるんじゃないかと、反射的に後ずさったのだが。
狭いアパートの中では逃げられる場所も限られていて、背中はすぐに壁にぶつかってしまう。
唯一の逃げ道となる玄関はオッサンの背後にあって、床に広がる黒い液体はすでに俺の周囲を覆うほどになっていた。
(こ、殺される……!!)
恐怖に身体が硬直した俺は、迫りくるオッサンをただ見つめることしかできない。
不快な吐息がかかるほどの至近距離に、もうおしまいだと覚悟をした瞬間、ヘドロだらけの部屋の一角に一筋の光が差し込んだ。
「っ…………?」
空間にぽつりと小さな穴が開いたみたいに入り込んだ光は、続けて光の線になっていく。
それが何かの形を成していったかと思うと、そこに描かれていたのは文字だった。
――娘のしおりに、もう一度会いたい――
俺と同じようにその文字を見つめていたオッサンが動きを止める。そして、身体からヘドロが流れ出したかと思うと、その中から元通りの人間の姿が現れた。
「し、おり……」
今度こそ透明な涙を流したオッサンは、娘の名前を口にする。
力を失った身体はその場に座り込み、続けて部屋がボロボロと崩れ始めるのが見えて、その向こうから薄汚れた部屋が現れていく。
ほどなくして室内は元の薄暗いゴミ部屋へと戻り、俺の目の前には虫だらけの肉塊が転がっていた。
それと同時に、ダルさ続きだった俺の身体は驚くほど軽くなっている。まさに憑き物が落ちたというやつか。
「おかえり」
「ただいま……じゃねーだろ!! なんだよ今の!? あんたの仕業か!?」
俺の横に立っていた胡散臭い顔の男に、当たり前のような調子で出迎えられて、つい返事をしてしまったのだが。
白昼夢でも見ていたのかと疑ってしまう部屋の中には、あの空間と同じように、けれど赤い色で――娘のしおりに、もう一度会いたい――という文字が浮かんでいた。
男の手元にはあの透明なペンが握られていて、中には赤いインクが溜まっているのが見える。
この文字は、男が書いたということなのだろうか?
「……霊っていうのは、悲しいものでね」
「は?」
「死んでしまうと、生前大切にしていた記憶ほど欠け落ちやすくなるみたいなんだ」
男の言っていることがよくわからなくて、適当なことを言って誤魔化そうとしているのではないかと勘繰る。
けれど、男の表情からは胡散臭さが消えていて、どこかもの悲しささえ感じさせる瞳が死体を見下ろしていた。
「だからこうして文字に起こして、記憶を取り戻す手伝いをしてあげる。そうすることで、欠けたピースを見つけた彼らの多くは成仏してくれるんだ」
「……あんたには、そういう力があるってことか?」
「まあ、そういうことになるかな」
あまりにも非現実的すぎて、いつもの俺なら絶対に信用しないのだが。
あんな体験をしてしまっては、信じざるを得ないだろう。
「人は一人じゃ成仏できないんだよ」
これで騙されているとすれば、素人にはわからないよほどの大仕掛けだ。見抜けるはずがない。
それから大家への報告、警察からの事情聴取など、すべてから解放されたのは深夜を回った頃だった。
検証の結果、事件性は低く熱中症で動けなくなったオッサンが、そのまま亡くなったのだろうということだった。
あの悪臭がまだ鼻の奥にこびりついている気がして、外の生ぬるい空気を思いきり吸い込んで吐き出す。
「気がつかねえまま遺体の隣で生活するトコだった……いや、してたんだけど」
「生きてればそういうこともあるよ」
「いや、普通はねえだろ」
いずれは漏れだしてきた悪臭によって気づくことになっていたのだろうが、そういうこともあるだろうと思えるほど、俺の神経は図太くできてない。
同じものを見たはずなのに、男は涼しい顔をしているのが不思議だ。
「つっても、事故物件になっちまったしここに住み続けんのもな……いやでも今から新しい部屋探すのか……?」
これが涼しい季節であったなら、俺の気力もまだ保たれていたのかもしれない。
けれど、現実は先の見えない猛暑だ。これから部屋を探して、ここ以上に格安で駅にも近い住処を見つけるのは、トントン拍子にはいかない気がする。
「琥太郎くんさ、僕の助手をやる気はない?」
「は? 興味ねえよ。大体あんたみたいな胡散臭いやつの助手とか、また妙な目に遭ったり……」
「事務所にひと部屋空きがあるんだけど」
その言葉に、拒否一択だったはずの俺の思考回路が停止する。
「エアコン付き、家具付き、食事も出る上に家賃は助手のバイト代でチャラになるよ」
「…………駅からは」
「徒歩5分圏内」
この男は胡散臭い。
胡散臭いのだが、そのマイナスを補って余りある破格の条件を目の前に転がされている。
タダより怖いものはないという。だが、事故物件に住み続けるよりは、精神衛生上どう考えてもマシだろう。
ヤバそうならひとまずはネカフェにでも転がり込んで、それから次の行動を考えればいい。
「……言っとくが、俺からむしり取れる金なんかねーからな!?」
「むしり取るつもりはないから安心していいよ」
「その気があるやつもむしり取るとは言わねえんだよな」
「ああ、そういえば。申し遅れました」
男は相変わらずのスマートな仕草で、ポケットから取り出した小さなカードを差し出してくる。
受け取ったそれには、『ゴーストライター・音坂冥土』と印字されていた。
「僕の名前は音坂冥土。これからよろしくね、鵜九森琥太郎くん」
柔和な笑みを浮かべるこの男――音坂冥土は、そう言って俺の方に片手を差し出す。
完全に信用したというわけではないが、少なくとも俺の知らぬ間に抱えていた問題を一つ解決してくれたことは事実だ。
「……よろしく、お願いします」
手のひらに滲む汗をシャツで軽く拭ってから、俺は少し冷たい男の手を取ったのだった。
この出会いがその後の人生を大きく変えることになるとは、この時の俺には想像することもできなかったのだが。
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