03
昔から、俺の周りでは人が不幸に見舞われる。
始めは友達が転んで怪我をするとか、親が階段から落ちて捻挫するとか、よくある小さな事故だった。
ドジな人間が多いものだと思ったりもしたけれど、そうじゃないのかもしれないと感じ始めたのは、中学に上がった頃だ。
俺のクラスの担任が、修学旅行の最中に事故に巻き込まれたことがある。
不運な事故。けれど、俺はその事故を目の前で目撃していたんだ。
信号待ちをしていた担任は、何かに引っ張られるような動きでトラックの前に飛び出していって、一命を取り留めたのが奇跡だと言われた。
誰に聞いても、『担任がふらついて道路に出てしまった』と話す。ショックのあまり、俺は記憶をねつ造したのかもしれない。
そんなことを話すうち、なんの根拠もないというのに、俺が不幸を撒き散らしているような言い方をされたりもして。
始めは理不尽だと思っていたけれど、まるでそれが、本当のことなのだと思うようになっていた。
「ハンカチ以外に拾ったものはないかな?」
「ね、ねえよ。まさか今度こそ霊感商法を仕掛けようってんじゃ……」
「信じなくてもいいんだけど、結構マズい状態かもしれない。なにか普段と違った行動をした記憶はない?」
「違った行動って言われても……」
マズいというのは、どのくらいマズいものなんだろうか?
本当に騙されていないという保証はないのだが、俺はここ最近の記憶をどうにか思い出そうとする。
平日はバイトの面接を受けたし、夜は日雇いの派遣に行っていた日もある。用事が済めばアパートに戻って寝るだけだ。
しかし、それらはいつもの日常であって、普段通りの行動そのものだった。
「あ……そういえば」
「心当たりがある?」
「俺がってより、アパートでの話だけど。隣の部屋に住んでるオッサンが、結構音に敏感なんだよ」
安いボロアパートだから壁は薄いし、住人のいびきやテレビの声だって聞こえる。
そういうのを承知の上で住むものだと思っているのだが、隣の住人からは何かと音に関する注意を受けていた。
「噂じゃリストラされたらしくて、一日中部屋にいるから常に気ィ使って過ごしてんだけど。先週くらいから文句言われなくなったんだよな」
「その人自身は、普段は静かな人なのかな?」
「ああ、部屋の出入りとかシャワーの音くらいは聞こえるけど。それ以外はマジで生活してんのか? ってくらい物音させないタイプだな」
「なるほど……その部屋に行ってみようか」
「は? やだよ、あんたのせいでデケー声出しちまったし、ただでさえ帰んのが憂鬱……」
そこまで言いかけて、俺はようやく違和感に気がついた。
音に敏感な隣の部屋の住人は、あれだけデカい声を出せば真っ先に玄関を叩きにくるような人物だ。
だというのに、俺たちが部屋を出ても外に出てくる様子はなかった。
物音がしないのはいつものことだから、部屋にはいるのだと思っていたのだが。
「……機嫌、損ねたらあんたの責任だぞ」
◆
コンコン。コンコンコン。
男の後ろに隠れるようにして、俺は玄関をノックする姿を様子見する。
始めは連続して呼び鈴を鳴らすので、さすがにやめろと注意したのだが。それをノックに変えても、中からの反応は見られない。
「留守……?」
「どうだろうね。お隣さんって、白髪交じりで細身な鷲鼻の人?」
「え? ああ、確かそうだな……なんでそんなこと……って、オイ!?」
俺の答えを聞き終えるより先に扉の前にしゃがんだかと思うと、男はポケットから取り出した細身のピンを使って、鍵穴を弄り始めた。
慌てて止めようと手を伸ばした時には、扉はガチャリと音を立てて開いてしまっていて。今からでも他人のふりをして逃げだそうかと思ったのだが。
「うえっ……!? なんだよコレ……!?」
開いた扉の隙間から、数匹のでかいハエが飛び出してきて咄嗟に避ける。耳元を掠めていく羽音がひどく不快だ。
それよりも、部屋の奥から嗅いだことのないような酷い悪臭が漏れ出してきて、引っ張り上げたシャツの襟元で鼻を覆う。
口で呼吸をしているのに、一度感じ取ってしまった臭いは鼻の奥にこびりついたみたいに消えてくれない。
夏場に放置した生ゴミだって、まともに清掃されてない公衆トイレだって、こんな臭いはしないはずだ。
「って、オイ、嘘だろ!? まさか入るのかよ……!?」
「お邪魔します」
「冗談キツイって……!!」
少し眉を顰めただけで、男は躊躇なく室内へと上がり込んでいく。追いかけるべきなのだろうか?
本能的に感じ取った嫌な予感を振り払うことができない。
(だってこんなの絶対おかしいだろ。知らねーけど、こんな悪臭を放つものって、そういうことなんじゃないのかよ……!?)
警察を呼ぶべきだとか、いろいろ考えることはあったはずなのに。俺も暑さに頭をやられているのかもしれない。
まるで何かに後押しをされるみたいに、男の後に続いて俺も室内へ足を進める。
カーテンが閉め切られているから暗くてよく見えないが、俺の部屋と間取りは同じはずだ。
同じことを考えているのだろう。男は暗闇の中でも器用に歩いていくと、思い切りカーテンを引いた。
室内に明るさが戻ったことで、ブワッと一斉に飛び立ったハエが俺の視界を真っ黒に埋め尽くす。
数匹ならば不快なだけで済むそれは、大群となると異なる生き物のように見えて、襲われるのではないかという恐怖すら感じさせた。
「ッ、オエ……!!」
胃袋の中身を吐き出さなかったのが奇跡だ。
夕陽が差し込んだ室内にはあらゆるゴミが散乱していて、その中に埋もれるように、ひときわ大きな塊が横たわっていた。
飛び回っていたハエたちの多くは、元いたであろうその塊の上へと戻っていく。
無数のハエと蛆虫が、その形に添って密集している。人間の死体なのだと理解するのに、少しだけ時間がかかった。
もう一秒たりともこの場所にいられなくてすぐに踵を返すが、閉じた覚えのない玄関の扉が俺の行く手を阻む。
鍵もかかっていないのに、ドアノブがびくともしない。
「なに……なんだよこれ……!? なあ、ドア開かねえって……!!」
慌てる俺とは正反対に、男は相変わらず落ち着き払った顔をしてこちらを見ている。これじゃあまるで、俺の方がおかしな行動をしているみたいだ。
(いや……違う)
男が見ているのは、俺じゃない。
家に尋ねてきた時と同じように、俺のそばにある何かを視ているのだ。
「……そうだね。こんな死に方じゃあ、素直に成仏なんてできないかな」
「え……?」
同情的にも聞こえる言葉を紡いだ男が、ポケットの中から何かを取り出す。細長く透明なそれは、万年筆のように見える。
直後。俺は人生の中でも、形容しがたい感覚に襲われた。
一瞬後頭部を引っ張られた気がして、続けざまに頭皮と頭蓋骨の間を何かが這うような、内側から得体のしれないものに侵されている奇妙な感覚。
それは重力に従うみたいに首筋へと移動して、血流に乗って手足へと広がっていく。
身体は確かに自分のものであるのに、足の裏が地面に着いていないような、ジェットコースターがてっぺんから落下する時にも似た浮遊感。
眩暈を起こしたのかと思うが、意識はやたらとはっきりしている。
俺を見る男の顔に、覚えのある鷲鼻の男の顔が重なった気がして、瞬きを繰り返す。そうすると、場面を切り替えたみたいに部屋の空気が一変した。
薄暗く虫だらけで異臭の篭もっていた部屋は、ゴミや日用品が散乱しているものの、明かりもついていて生活感が残っている。不快な羽音もしない。
そのゴミを踏みつけにした中央に、一人の男が座っていた。
俺は夢でも見ているのかもしれない。
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